一杯やっか | せのお・あまんの「斜塔からの眺め」

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角川クラシックの『拾遺和歌集』をちびちびと読み進める。拾遺集は評判の悪い歌集だが読む機会がないままに過ぎて、こうして読めるのは大河ドラマのおかげだ。しかしざっと見渡しても、良さそうな歌はない。


拾遺集春の部。15番歌

我が宿の梅の立ち枝や見えつらん思ひのほかに君が来ませる            平兼盛


川村裕子女史の釈によると

「私の家の梅、その高くのびた枝が見えたのでしょうか。思いの外にあなたがいらっしゃるのですね」

となる。これは〈屏風歌〉で、さらに孝標女の『更級日記』にも引用されたという。


ところでここで現れた「君」というのは、はっきりと言えば男。なぜなら女が出歩くことは貴族社会ではまずないからだ。しかし作者は男。だから〈屏風歌〉であることが大切なのだ。


王朝和歌には「転身詠」という秘技があって、男が女の心境になって歌を詠むのが当たり前のように行われていたので、今回の兼盛の作歌もそう見えないこともない。 


「しばらく梅が手入れ出来なかったけれど、枝が目立つからあなたが来るようになったわ」という含意があって、そういう恋の相引きの奥ゆかしさを賞でる鑑賞もある。


しかしそのまま男なら、ぶっちゃけてしまえば「梅の手入れサボってたら怪我の功名で君がよく来るようになった」ということになり、そうすればそのまま一杯やるか、ということになるだろう。


何かに事寄せて飲酒の誘いをかけるのは唐詩にもあることで、白居易の「劉十九に問う」という五言絶句は

「緑蟻新醅の酒/紅泥小火炉/晩来天雪ならんと欲す/能く一杯飲むや無(イナ)や」

とあって、自家用酒を燗にして飲むから付き合え、という詩。


他にも杜甫の「客至る」という七言律詩もある。

「舎南舎北皆春の水/但だ見る群鷗の日日に来たるを/花径曽て客に縁りて掃わず/蓬門今はじめて君の為に開く/盤飡市遠くして兼味なく/樽酒家貧しくして只だ旧醅/肯(アエ)て隣の翁と相対して飲み/籬を隔てて呼び余杯を尽くさん」 


要するにお客が来たから一杯飲むか、という話になるわけで、平安朝の和歌ではその辺が見えにくいのだが、この作歌でそういうのがうっすら見えた。貴族同士で酒を飲みながら、という場面がなかったらおかしいだろう。


酒を飲むというのが男同士の絆を確かめ合うというのはまぁ平安朝にもあっただろう、と気楽に推測したが、王朝和歌はその言葉の容量が少ないこともあって、そういう社交的文脈が素直に読み取れない難がある。


つまり「一杯やっか」というだけでも和歌だけにやたらと修辞が必要になったのかもしれず、それだけに率直な表現が見つけられないから、それは文学史上の損失かもしれない。