1953年、小津安二郎は名作東京物語のシナリオ執筆中に木下恵介の日本の悲劇を見ている。
試写会では映画終了後、暫し沈黙が続いた後に割れんばかりの拍手。

その拍手の中を、場内の視線を一身に浴びながら、小津は一人で退席したという。


その日の小津の日記には「野心作ならんも一向に感銘なく、粗雑にしてすの入りたる大根を噛むに似たり、奇にして凡作也」と酷評している。
小津は木下恵介の才能を高く評価しており、「カルメン故郷に帰る」を試写会で見た後に、「良い写真を見た後は酒が旨い」と相好を崩していたと伝えられている。
何故そんな小津は日本の悲劇をここまで批判したのか。
小津は「ぼくは、もう人を憂鬱にするような作品は作らんつもりだ」、「うんこが臭いという事は誰でも知っている、それをホラうんこはこんなに臭いぞと金をとってまで分からせるつもりはない」と語っている。
つまり、当時流行のリアリズムを暗に批判したのである。
その事が日本の悲劇を酷評した理由なのであろう。

当時の松竹の若手映画監督の大島渚らに日本の悲劇は大きな衝撃を与えた。
篠田正浩などは、これ以上の作品は一生かかっても作れないと絶望したという。
しかし皮肉にも小津はその後、日本の悲劇的な作品を撮る事になる。

その作品とは小津最大の失敗作で問題作でもあるとされる東京暮色である。

有馬稲子演じる明子を妊娠させる軽薄な若者を演じるのは田浦正巳。
田浦は日本の悲劇にも出演している。
田浦は明子に殴られるシーンがある。
明らかに木下恵介に対する意趣返しであろう。
それにしても生臭い。
敵意剥き出しではないか。
実は小津とはそういう男なのである。
松竹の監督会で吉田喜重にからんだ話も有名だ。
吉田が小津の作品を批判した事が原因らしい。

日本の悲劇では母親が鉄道に飛び込み自殺をしているが、東京暮色では主人公の明子も轢死している。
この共通点は一体何なのだろうか。
東京暮色は小津の野心作であったが、酷評され、その後の小津は手堅い作品を撮り続ける事になる。
小津は「蓮の花を描く事により、蓮の根を描くのだ」と語っている。
先程のうんこの話と同じ意味だろう。
しかし東京暮色は何故か蓮の根を描いてしまった。
それはシナリオ段階で野田高吾が協力を拒否したからなのか。
それだけではないだろ。

小津の戦後の失敗作といわれるのは他には「風の中の雌鳥」が上げられるだろう。

この作品も蓮の根を描こうとして失敗している。
周囲の反対にも関わらず、小津は破滅的な映画を撮る衝動を抑えられなかったのではないのか。
どうも小津の日本の悲劇に対する激しい拒否感は自分の中にある蓮の根を描がきたいという己の強い欲求を触発したからとしか思えない。

木下恵介は生前にあれだけ人気を博したのに、今では完全に忘れ去られた存在になってしまった。
日本の悲劇も小津を語る際に引用されるだけである。

それに引き替え小津の名声は高まるばかりだ。
しかし小津調と呼ばれる名作だけで小津を評価するのは正しい小津理解ではない。

小津にはアナザーロードが、違う可能性があったのだ。
我々は失敗作と呼ばれる東京暮色や風の中の雌鳥を見直す事により、小津のアナザーロードの可能性を見つめ直さなければならないのである。