思い出のフランス文学7・モーパッサン・1971-77 | じろやんの前向き老後生活

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 自分に影響を与えた文芸・音楽・映画・絵画を紹介したり、お遍路や旅の思い出を語ったり、身辺雑記を綴ったりします。

 私がモーパッサンの名を知ったのは他の作家同様、高校時代である。

ギ・ド・モーパッサン(1850~1893)

 河出の名作全集で覚えた。代表作の『女の一生』(以下、『一生』と略す)に挑んだが、読了できず、大学生になって再挑戦した。岩波文庫で読んだ。感動とまでは行かないが、面白かったことを覚えている。

 19世紀後半のノルマンディー地方における没落貴族に嫁いだ女性の悲劇がよく描かれていると思った。優れた文芸作品は時代を映す鏡であり、マルクスがバルザックを高く評価したことは有名な話である。本作にもそのことは当てはまる。

 彼は遠縁にあたるフローベルを師と仰ぎ、彼から小説の手ほどきを受けた。当然フローベルの傑作『ボヴァリー夫人』の影響を受けただろう。ボヴァリーも『一生』の主人公ジャンヌも最悪の結婚生活を送るが、前者は不倫し、後者はしない。前者は最後自殺するが、後者はしない。その点でボヴァリーの方が能動的である。

 どちらも文芸作品としての完成度が高く、時代の産物でもあるので、文学史に名を残した。

 ジャンヌは結婚を夢見たが、現実は理想とかけ離れた。夫の浮気に悩まされ、我が子の非行に苦しめられ、救いがない晩年を迎えることになった。

 このような実態を鋭く描いたので自然主義文学の傑作として見なされた。なお、自然主義文学とは、登場人物の暗部をえぐり出し、その人生を遺伝と環境の交差点でとらえる文芸思潮のことである。19世紀後半に盛んになり、その代表はエミール・ゾラである。

(マネが描いたゾラの肖像)

 私は、ゾラの『ナナ』を河出版で読んだが、くどくどしい描写や悲惨さをこれでもかと描くので、なかなか進まなかった。なんとか終えたが、感動とは無縁だった。それに凝り、以降彼の作品は読んでない。

 それに比べると、『一生』は読みやすかった。フローベールの教えが効いていたからだと思われる。

 フローベールの小説作法は、描写の重視、リアリズムの徹底である。人間や自然の特長を観察し、読者の目に見えるように、音が聞こえるよう、手触りが感じられるよう、味が覚えられるよう、匂いを嗅げるような描写を試みた。そのためには言葉を厳選し、形容表現を磨かなければならない。

 このスタイルはやがて散文芸術の基本になった。日本で言えば、志賀直哉の文体に当てはまる。

(志賀直哉:中年の頃)

 絵画で言えば、緻密なデッサンに値しようか。ピカソもマチスも十分に習得していた。この上に個性は花開く。芸術の要諦である。

 フローベルはモーパッサンに要求し、彼はものの見事に答えた。

 そのうえ、モーパッサンは、ストーリーテラーとしての天稟と鋭敏な感受性に恵まれていた。実際、五感が鋭く、観察力にたけていたと知人は語っている。

 『一生』のような名作を世に送り出せた陰にはこういう理由があったのである。

 そればかりではない。作家活動がわずか10数年であるにもかかわらず、6つの長編と360もの短編を書き上げた。どちらの分野も質が高い。驚くべき才能である。その結果文学史に輝かしい金字塔を打ち立てた。

 面白い話を思い出した。

 私が学んだ慶応大文学部の仏文科は50年代から70年代にかけ隆盛を迎えた。その背景にはフランス文化の人気がある。当時は、アメリカよりヨーロッパ文化の方が高かった。その先頭を進んでいたのがフランスで、文学や絵画や音楽が次々と紹介された。現在はアメリカに凌駕されたので、隔世の感がある。

 文学では中でも戦後登場したサルトルやカミュの人気がすごかった。

(アルベール・カミュ)

 フランソワーズ・サガン、ヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン)のアラン・ロブ=グリエ、ル・クレジオなど)も登場した。

(フランソワーズ・サガン)

(アラン・ロブ=グリエ)

 慶応仏文はその研究で先頭を走っており、教授陣は名作の翻訳を続々と世に出していた。私が在籍していた頃でも、佐藤朔、白井浩司、高畠正明、若林真、高山哲男、古屋健三など活躍していた。

(佐藤朔)

 大学卒業してから20年くらい経った90年代半ば頃だろうか。当時私は慶応の機関誌『三田評論』を購読していた。

 そこで若林真(アンドレ・ジイドの研究家)が大学院生に対して「今流行りの文学を読む前に、モーパッサンを読め」と語った記事を読んだ。

 フランス文学は新しい表現への挑戦、すなわち前衛意識が強い。20世紀においても、意識の流れ、行動主義、実存主義、アンチ・ロマンなどの思潮が現れた。それらはリアリズムかつストーリーの展開が面白いモーパッサンの文学を軽視した。

 日本の若手文学研究者もどちらかと言えば新しい流れに目を向けがちだったのだろう。それに古老の若林真が待ったをかけたのだ。小説の基本はモーパッサンにすべてある。これを読まないで流行現象にとらわれると一人前の文学者にはなれないと警告したのだと思われる。

 

 『一生』でモーパッサンに関心を抱いた私は以下の作品を読んだ。

 長編は『ピエールとジャン』と『ベラミ』。短編は『脂肪の塊』や『メゾン・テリエ』など68作である。

 『ピエールとジャン』にも感動した。

(河出版世界文学全集より)

 題名は兄弟の名前である。最初なかなか入れなかったが、読んでいくうち、弟のジャンが種違いの子であることが分かって来る。母親が不倫したのである。母親の告白によって兄ピエールは知るのだが、この辺りの展開が巧みであった。また、兄の悩みがよく描かれていた。

(挿絵も素敵)

 不倫の当事者を題材にした作品はあるが、不倫で生まれた子を題材にした作品は少ない。現代は不倫やその他の事情で生まれた子供たちがたくさんいる。その点でこの作品は今読んでも興味深い。

 『ベラミ』とは美男の男友達の意味らしい。題名通り、主人公のデュロアはイケメンである。パリに住んでいるこの青年は色欲を利用して成り上がろうとする。『赤と黒』や映画『太陽がいっぱい』と似ている。映画化にするのならアラン・ドロンがふさわしいと思った。

 上記の2作は私を魅了したが、『ベラミ』はつまらなかった。ただ、パリの風俗はよく描かれている。

 続いて短編である。

 まず有名な『脂肪の塊』である。これは彼の出世作である。発表されるや専門家から高い評価を受けた。師のフローベールからは激賞された。

 私は本作を岩波文庫で読んだ時、すごく感動した。

 太った娼婦の哀しみと富裕層の偽善が巧みに描かれていた。古今東西いつも弱者は泣かされ、強者は甘い汁を吸うという主題が読後に迫って来る。作者の筆力が抜群なので彼女の姿が目に見えるようだった。また、挿絵が素晴らしい。読書意欲を高めてくれた。

 岩波の挿絵はオリジナルを使っている。使い方にセンスが感じられる。ここが他社の文庫と違う。

 確か『一生』の次に『脂肪の塊』を読んだのだが、これでモーパッサンへの関心に拍車がかかった。

 『メゾン・テリエ』も娼婦の世界を描いた作品である。

 題名は地方の娼館の名である。彼女たちの生態をユーモラスに描いていた。読後感がさわやかだった。挿絵も素晴らしかった。

 これだけ娼婦の実態を描けるということは、モーパッサンが娼館に出入りしていたことを意味する。日本で言えば、永井荷風や谷崎潤一郎と同じだ。

(永井荷風)

 ただ、その代償も手にした。梅毒である。それによる精神疾患が二十代の終わりころから発生した。その苦しみと戦いながらあれほどの名作を残した。傑物である。結局40代の前半で命を落とした。もし罹っていなかったたら、バルザック並みの作品を残しただろう。

 『メゾン・テリエ』を読みながら、私は映画『夜霧のしのび逢い』を思い出していた。ギリシャの港町の娼館を描いたこの作を高1の時に見てすごく感動した。

 両者の共通点は、モーパッサンも『しのび逢い』の監督も娼婦を軽蔑せず、リスペクトを抱いていたことである。人が娼婦になるのは、経済的困窮からだということを知っていた。それが両作を名作にさせた一因だろう。

 その他の短編は、新潮社の短編集で読んだ。題材が多岐にわたっている。都会と田舎、貴賤、老若男女、欲望、道徳、人間性、悲劇、喜劇等森羅万象を扱っている。

 すごい観察力、想像力、創造力である。短編のバルザック、これぞ正真正銘の小説家と言ってよいだろう。

 様々な体験をした。兵隊になった、当時完成したエッフェル塔にも上った、夜の世界に出入りした。第三共和政のフランスにおける市民社会を十分味わったと言えよう。 

(エッフェル塔:1889年完成)

 印象に残った作品を列挙しよう。

・岩波文庫『メゾン・テリエ』から

 『聖水拝受者』『ジュール叔父』『クロシェット』

・新潮文庫『モーパッサン短編集Ⅰ』(田舎を題材にした作品)から

 『トワーヌ』『悲恋』『目ざめ』『海上悲話』

・新潮文庫『モーパッサン短編集Ⅱ』(都会を題材にした作品)から

 『蝿』『野あそび』『クリスマスの夜』『シモンのとうちゃん』

・新潮文庫『モーパッサン短編集Ⅲ』(戦争を題材にした作品)から

 『二人の友』『ミロンじいさん』『オルラ』『水の上』

 私のような、いつか小説を書きたいと思っている文学青年にとってすごい勉強になった。私は、モーパッサンに刺激され、小説家を目指す以上、視野を広めなければいけない。東京に住み、時間に余裕があるのだから、様々な世界を覗いてみよう、それにはバイトが一番だと思った。今思えば、単純と言うか、笑い話とでも言うか、とにかく実行した。

 思い出す限り、順に挙げると、牛乳配達、果物屋の店員、大衆レストランの皿洗い、甘栗店での販売、料亭の下足番、本屋店員、ステーキ屋での皿洗い、港湾施設の輸入果物仕分け、官庁引っ越し作業、倉庫会社の雑用、出版取次会社の仕分け、大衆食堂のウエイター、キャバレーのビラ配り、学習塾講師、大衆酒場のウエイター、家庭教師等である。

(イメージ写真)

(下足番:イメージ写真)

 その結果、都会の片隅でうごめく群像を垣間見ることが出来た。学校では得られない貴重な体験だった。どのバイトにおいても思い出がある。

 ただ、授業に出席せず、横道に逸れたような生活をし、自分探しを追求したため、大学を出て就職するという普通の生き方を送れなかった。しかし、今人生を振り返ると、内面作りに役立ったことは断言できる。

 思い出を一つ語ろう。

 私が慶応に入った年のことである。アルバイトとは直接関係ないのだが、紅灯の巷に関する思い出である。夏休みに渋谷の果物店でバイトをしていた時、慶応の同級生(1年生の時の語学クラス)のK君が寄ってくれた。閉店後、おごるから新宿に飲みに行こうと誘われた。彼は北海道美唄出身で、二浪して入り、1年生の時に落第したため私と一緒になった。私より二歳上である。彼は仕送りを受けず、生活費をバイトで作り出していた。酒が好きなこともあり、酒場によく顔を出していた。そんなことから世間を知っていた。

 彼が連れて行ってくれた酒場(当時パブと呼ばれていた)は新宿駅東口の雑居ビルにあった。

(昭和の新宿駅東口前)

 店内にはロの字の形のカウンターが幾つもあり、中にいる若い女の子が接客するという形式であった。今のガールズバーに近いかもしれない

(イメージ写真)

(イメージ写真)

 客はカウンター席に座る。店内は暗く、テーブル内だけ明るい。原色のライトが点いている。派手な音楽が流れていた。洒落た感じの店だが、料金は高くない。

 私はこのような店に来たことがなかったので驚くことがたくさんあった。しばらく経つと、私たちに応対してくれた女給が、私の目をみつけ、笑顔で「あなたに以前会ったことがあるような気がする。これからもちょくちょくいらっしゃいね」と言って、名刺までくれた。K君に対してはこんな応対を示さなかった。

 私たちが帰る時、その子は私にウインクし、「待ってるから。必ずいらっしゃってね」と言った。

 私は、彼女は私に好意を持ってるのではないかと思い、有頂天になった。

 それを見てK君は言った。

「あれは商売で言ってるんだ。お前が好きで言ってるんじゃないんだ。舞い上がるな。下手するとだまされる。注意しなければいけない」

 田舎から出て来た世間知らずの私に教えてくれたのである。

 その後、私は様々なバイトを行う中で都会の現実に触れたが、彼の助言は正しかった。私は境界線を越えることはしなかった。

 K君には感謝しかない。

 その彼は数年前に病死した。古希を迎えたばかりであった。大手通信社の社員として働いた半生だった。マスコミで働く人は短命が多いと聞いたことがある。K君も苦労したのだろうか。

 

 モーパッサンの話に戻る。

 彼の作品は当時のヨーロッパで人気を博した。リアリズム描写にたけているトルストイはモーパッサンを評価した。

(レフ・トルストイ)

 日本では、国木田独歩、田山花袋、荷風がモーパッサンを愛した。独歩はたくさんの短編を書いたが、その構成や展開においてモーパッサンの影響が見られる。また『糸くず』を英語版経由で訳しもした。

(国木田独歩)

 モーパッサンは、短編小説を書いてみたいと思う人にお勧めしたい作家である。

 

            ――― 終 り ―――

 

※次回は、アンドレ・ジッドやシャルル=ルイ・フィリップについて語ります。