変容する日本語、ジタル・フォント時代の

 ダンテ「神曲 地獄篇」、河出文庫

 

ながい間、探しもとめていた本が、見つかったときは、嬉しい。向井敏氏の「文章読本」という本だった。

書斎にはなくて、寝室のデスクの引き出しのなかから見つかった。

こんなことって、あるのだ。1988年に文藝春秋社から出た本で、この種の本はあまたあるけれど、作家でもない向井敏氏の文章は、忘れがたい。

じぶんは、若いころ、寿岳文章の本が好きだった。彼は大学在学中、新村出、柳宗悦と親交をむすび、河上肇に私淑する。その彼がダンテの「神曲」を翻訳して話題になったことがある。

その「地獄編」の第3歌は、こう訳されている。

 

 われをくぐりて 汝らは入る なげきの町に

 われをくぐりて 汝らは入る 永劫の苦患(くげん)に

 われをくぐりて 汝らは入る ほろびの民に

 

これはどう見ても、文語訳である。おなじ文語訳では上田敏のほうが、よく知られているだろう。

 

 こゝすぎてかなしみの都(まち)へ

 こゝすぎて とはのなやみに

 こゝすぎて ほろびの民へ

 (上田敏訳「地獄編」より)

 

ところが、寿岳文章をあらためて読んでみると、なかなか味わいがある。「われをくぐりて……」が、いい。山本夏彦の本に「米川正夫論」というものがあり、一度読んだことがあるが、それについて、くわしく論じた本が、向井敏氏の「文章読本」という本だった。もうわすれてしまい、もう一度読み返したいとおもっていた。

われわれの世代は、ロシア文学はなんといっても、米川正夫であり、中村白葉であり、原久一郎である。すべてロシア語から直接翻訳をした人たちである。ことにトルストイ、ドストエフスキーの翻訳は、この3人が独占した。そして、「翻訳文」というものを確立した。

米川正夫の訳文は名文といわれていた。それまで作家たちが使わなかったことばを使った。だから、すらすら読めない。熟読吟味しながら読むしか方法がない。

たとえば、――

 

かれこれ一時間ばかりすると、廊下に足音がひびいて、さらにノックの音が聞こえた。二人の女は今度こそ十分に、ラズーミヒンの約束を信じて待っていた。案のじょう、彼はもうゾシーモフをつれて来たのである。ゾシーモフは即座に酒宴を見捨てて、ラスコーリニコフを見に行くことに同意した。しかし、二人の婦人のところへは、酔っ払ったラズーミヒンが信用できないので、だいぶ疑念を抱きながら、いやいややって来たのである。ところが、彼の自尊心はすぐ落ちつかされたのみならず、うれしくさえなってきたほどである。実際、自分の予言者(オラクル)のように待たれていたことを、事実に合点したからである。

(ドストエフスキー「罪と罰」、米川正夫訳より)

 

棒線の「彼の自尊心」というのは、ゾシーモフのことを指している。この文章は、一読してただちに理解できる人は、かなりの読書家であろう。このような文章を読まされると、読者はいいようもない苦痛を強いられる。山本夏彦氏のいうドストエフスキー文学は、そういう米川正夫によってつくられた、といっている。

さて、森鴎外の文章はどうか? ――たとえば、

「午前六時汽車は東京を発し、横浜に抵(いた)る。林家に投ず。此()の行の命を受くること六月十七日に在りき。徳国(ドイツ)に赴いて衛生学を修め、兼せて陸軍医事を訽(たづ)ぬるなり。……」

と書かれている。

これは漢文で書かれた「航西日記」を読み下し文に書きなおしたものである。

いまさらながら、若いころの鴎外のみずみずしい文章に魅せられてしまう。漱石とはちがうのだ。明治17年8月24日、23歳の森鴎外林太郎は、フランスの商船メンザレー号に乗ってドイツへと旅立つ。

鴎外の「航西日記」や「独逸日記」に描かれた文章はいかにも硬質で、文体は、見ればおわかりのように、きびきびしていて、気骨あふれる文章である。

ぼくはこの文章にあこがれた。長谷川如是閑もいいけれど、鴎外もいいぞ! とおもった。

しかし、ぼくは永井荷風の文章は、鴎外より多くの時間を海外で過ごしているけれど、鴎外のような気骨は少しも感じられなかった。

鴎外という人は、日本が近代国家として形づくられていくなかで、特殊なあの20年間と重なり、明治21年に帰国するまでの彼の青春は、まさに6年間のドイツ留学のときに開花したもので、それからというもの、鴎外は精力的な活動を開始していく。明治21年から26年までの鴎外は、まるで取り憑かれたように創作活動に打ち込んでいる。

たとえば「舞姫」、たとえば「於母影(おもかげ)」、「月草」、「かげ草」におさめられたおびただしい評論や海外の文学作品の紹介文など。

また活躍の舞台となった「しがらみ草紙」の編集や、医学雑誌の刊行などはいうにおよばず、軍医学校では、校長として5年間の学校教育分野に乗り出すなど、明治24年には医学博士号を取得して、軍医としてのドイツ医学分野の指導をおこなうなど、漱石や藤村とは違った、公人としての生き方をしている。

おもしろいのは、美術学校では一芸術として解剖学を教え、慶応義塾大学では審美学を教えたりして、印象派絵画の理解者としての論文もたくさん書いている。

鴎外が帰国したのは1888年(明治21年)9月8日で、それからわずか数ヶ月のうちに「小説論」を書きあげ、翌年の1889年1月には読売新聞に、そのころの考えを発表している。これが、鴎外の文芸批評の第一声である。

これはその後、「エミール・ゾラが没理想」というタイトルに改題されたりして、1896年の最終稿「医学の説より出でたる小説論」へとかたちを整えていく。この処女論文で、鴎外が取りあげたのは、エミール・ゾラにかんすることである。マネの絵とエミール・ゾラとの関係を描き、マネの絵を擁護しつつ、ゾラの小説をも擁護している。

 

マネの「草上の昼食」

 

知られているように、マネが1863年に発表した「草上の昼食」という絵は、政府が開催する公募展に落選した絵である。

落選したものたちの不満は多く、皇帝ナポレオン3世は一計を案じ、落選した作品ばかりをあつめて展覧会を催した。この異例の試みは「落選展」と呼ばれ、サロン展と並行しておこなわれたわけだが、この話はよく知られている。

ここでいう「サロン」というのは、フランスのアカデミー展覧会がルーブル宮のサロンカーレで開催されたことから、一般に「サロン展」と呼ばれるようになったもので、そのころ、約2ヶ月の会期に訪れた観覧者は、なんと30万人もいたといわれている。現在の万国博覧会の雰囲気だったかもしれない。

当時パリの人口が180万人だから、――現在の札幌市とだいたいおなじ人口で、――6人に1人が訪れた計算になる。そのサロン展に落選したマネの「草上の昼食」は、ひときわ目立ったに違いない。

鴎外の文章は、ぼくはさっき硬質だと書いた。それは、なんとなくだが、一見して空海の文章に似ている。ちょっと見てみよう。

 

 同法同門 喜遇(きぐう)深し

 空に遊ぶ白霧 忽ちに岑(みね)に帰る

 一生一別ふたたびまみえ難し

 夢に非ず思中に数数(しばしば)尋ねん

 (手紙にそえられた空海の詩より

 

これは、唐をあとにするとき、空海が青龍寺の義操(ぎそう)に与えた詩といわれている。

――ここで、空海について少し書いてみたい。

空海は、恵果から、密教両界の伝法阿闍梨位(あじゃりい)の灌頂を受け、日本への帰国をいよいよ決意したときの惜別の詩である。

「同法同門」、そして「一生一別」というように、おなじことばを重ねて対句で韻を踏むのを空海は得意としていたようだ。「白く見える霧が、岑々(みねみね)に帰っていくように、自分もまた国に帰る」というのである。

これは、空海が唐に留学してまだ2年に満たないけれども、日本に帰朝する日を迎えて、世話になった方々に惜別のおもいを吟じたものである。「一生一別ふたたびまみえ難し」が、空海の心境を吟じて、ひじょうに感動的である。

ぼくは、こんなふうにして人と別れたことはないけれども、こころのなかでは、これに似たような惻々たる感情を抱いた。

恵果から灌頂を受けるについては、仏門にあっても、礼を尽さなければならない。留学僧の空海はひどく貧しく、ごくごく粗末な袈裟と、七宝をちりばめた手香炉(しゅこうろ)しか持っていない。空海はそれを恵果に献じているわけである。

そのときにしたためられた書簡が、以下の文章である。

 

弟子空海、稽首和南す。空海、生縁は外、時はこれ仏後なり。常に歎くらくは、迷霧氛氳(ふんうん)として慧日見難きことを。遂に乃(すなわ)ち影(自分自身のこと)を蒼嶺に遁れて、飾(かざり 剃髪)を緇林(しりん 教団)に落す。篋(はこ)を鼓()ちて津(渡し場)を問い、履(わらぐつ)を躡()いて筏を尋ぬ。

 

さとりの叡智が、霧に深くとざされているのを歎き、出家を志したとある。始業の合図に鼓を打ち鳴らしたことから、気分をひきしめて、篋(はこ)から勉強道具を取り出すというほどの意味だろうか、水をわたる人は浮き袋を大事にするように、戒律を大事に守ってきたという。

しかし、仏の三密を自分の心にあきらかにして、菩薩の十地の修行をきわめようとしても、空しく名声を聞くだけで、その人に会ったことはない。いま、その師たる人にようやくめぐり会えた、それはあなたであると。

十二月。午前八時三十分ウユルツレルと共に滊車に上りて、来責(ライプチッヒ)を発す。一村を過ぐ。菜花盛に開き、満地金を布()けり。忽(たちまち)にして瀰望(びぼう)皆雪なり。蓋蕎花なり。ウユルツレルの曰く。石油の用漸く広くなりしより、菜花の黄なるを見ること稀なりと。路傍の細溝、水皆鉄を含む。メツケルンMeckernに至る前、褐色炭層を望む。又一村を過ぐ。林檎花盛に開く。櫻梨の如きは皆已に落ち尽せり。ムルデMulde河を渡る。源をエルツゲビルグErzgebirgeに発すと云う。

森鴎外林太郎「独逸日記」より

 

鴎外の明治18年5月12日の「独逸日記」の記事には、このようなことが書かれている。このあと、10時15分にはリーザという小さな駅に停まるのだが、2時間ほどの汽車のなかで、このような記事がたくさん書かれていて、これを読むと、じぶんまで汽車に乗って旅をしているかのような心地がしてくる。――ふたりとも、すばらしい文章家だと、認めざるを得ない。

例はいずれも古いけれど、日本語としてかぎりなく澄明である。

戦前・戦後の翻訳語をへて、いま日本語の文章は、大きく変わった。

鴎外はいうにおよばず、中島敦の文章も、もう読まれなくなった。、長塚節の長編小説「土」も読まれなくなった。