に向かうびと


 

   ナターシャ



 「――きみは、考えすぎるから、ときにラチがあかんのだよ。きみの頭んなかのものをいってみようか。ロシア人の娘のことを考えているんだろう? ちがうか?」

「……」

「おれは知ってるぞ。――耕一郎一家が村を出ていって、例のロシア人も、母親が死んで、5000羽のにわとりをあんたにおしつけて村を出ていったとき、部長がとなりのよしみで、いろいろめんどうをみたっていう話じゃないか。それはほめられていい。だが、なんといったっけ? あの娘、ナターシャとかいう女? ……」

「その話なら、もうよしてくださいよ。もうおわった話ですから、……」

「そうだとも。もうおわった話だ。だが、からだは差しあげても、こころを差しあげることはできませんだと? ほんとうに、彼女、そういったのか?」

「――もういいじゃないですか。彼女、ほんとにこまっていたからですよ」

「わかるよ。にわとりの始末にこまって、あんたのところへ泣きついていったっていう話はな。――ほんとうのところは、どうなんだ? 女と所帯をもつつもりだったのか? まだ小娘だろ?」

「……」

「それにしても、《こころを差しあげることはできません》か。名文句だな。だれか、女のこころにいたというのか? まあ、それはいい。――それはいいとして、なぜ、おれにひと言、相談しない? 喜んで相談にのってやったのに。……一家眷属(けんぞく)の別離は、悲しい話だぜ。女とはあんたの家のとなりだし、いい話だと思っていたんだがな、……」

「部長、そうだったんですか?」と若い男がきく。

「愛なんて、どうでもいいんだよ。なまじ愛なんて、ないほうがいいぞ」

「専務、それは、愛じゃなく、恋じゃありませんか?」と若い男がいう。

「恋? ――今次、恋なんて、むかしの歌のなかだけの話だと思ってたがね。そいつを、恋というのか?」

「恋ですよ。部長は、ナターシャのことを、気の毒だなんて思うまえに、部長は彼女を好きになったんじゃありませんか?」

「そいつは、部長にきいてくれ。部長、そうなのか? それにしても、おかしなことをいうな。恋なんて実るはずがないぞ。実らないから、恋というんじゃないのかい? 思いを遂げるっていうけど、恋を遂げるっていう話は、聞いたこともないぞ」

「……専務は、やっぱり詩人だったんですね。……でも、ちょっと矛盾してませんか? 部長の思いは遂げられなかったので、やっぱり、それは恋だった、ということになりませんか? ……でも、専務は、詩人ですね?」

それは若い男の、専務への意趣返しに見えた。

「からかっちゃ、いけないよ。詩人は詩人らしく、畝(うね)をつくるのさ。……きみのいうとおり、やっぱりそいつは、恋だったかもしれんな。かたるに落ちる!」

「こんどは、畝ですか?」

「ほら、いうじゃないか。英語で詩のことをヴァースというだろ? ヴァースって、なんだ?」

「なーるほど。耕されたもの、畝(うね)ですね」と若い男がいった。

「わが村に、有名な詩人がたくさんいるだろう? みんな畝をつくってるんだよ。5本の畝をつくれば、5行の詩文ができあがる。農夫のこころは、そういう畝を見れば読めるのさ」

「そういうもんですか。部長も畝をつくってたんですね?」

「きみは、書類をつくるけど、いまからでも遅くはない。たまには畝もつくっておけ。将来、いいぞ」

「――部長は、ナターシャのことを考えているんだろうが、図星だろ? もう時代はむかしじゃない。10年も20年もまえとはわけがちがうし、同日の談じゃない。そうだろ? 彼女のことはもう忘れろ。――ナターシャか、彼女、いまどこにいるんだい?」

「……」

「彼女の年は?」

「ぼくとおなじです。彼女とは、もう切れましたから」といっている。

「そうか。……21世紀にむかっている農村には、あたらしい血もいるのさ。考えのちがうやつも、肌や色のちがうやつもいたって、どうという心配もないじゃないか。むしろ、ありがたいことだよ。そうおもわなくちゃ。部長の話は、ざんねんだったが、彼女といっしょに村で暮らしてほしかったよ」

「自分には、わかりませんね」と、部長はいう。

「それもいいだろう、それもけっこう。……しかし、ありがたいことだよ。そんなことより、男は、いや、女もだが、いつまでも結婚しないやつらを見ると、腹がたってくる。理屈ばっかりこねて、子孫をつくろうとしないのには、おれは黙っていられなくて、愚痴のひとつもいいたくなるのさ。

まあ、おれの話は聞かなくても、年寄りの話は聞いておいたほうがいいぞ。年寄りは、みんなだれであろうと、最後に木を植えたくなるものさ」

「そうですか?」と若い男がいう。

「そうだとも。……むかしのラテン語の諺(ことわざ)に、こんなのがある。《勤勉なる農夫は、みずからその果実を見ることのない木を植える》とな。おれもそろそろ、木を植える年代になったらしい」

「専務とは、めったにお話するチャンスがありませんでしたが、やっぱり専務は、詩人なんですね?」

「きみも、詩人になりたまえ。――いつでもなれるぞ。だが、高学歴社会の風潮もけっこうな話だが、農民をいっぺんに年とらせることになっちまった。頭ばっかりで、考えるやつらが多くなっちまった。農業の足腰が年をとってこのざまだ。それでいいというなら、農村はもうおしまいだな。部長、そうだろう? ――きみのことはいろいろ聞いているぞ。人と仲良くするのはほめられていいにちがいないが、酒屋の母ちゃんと仲良くするのは、ちょっとまずい。亭主がいるじゃないか。ところで、あの亭主、どこが悪いといったっけ?」

「糖尿病です」と、若い男がこたえる。

「入院して、何年になる?」

「2年ですね」と部長がいう。

「もう2年かあ。かわいそうにな。……病院のなにかじゃ、母ちゃんもたいへんだな」

「しかし専務、どこから聞いたのか、それは根の葉もない噂ですよ」

「バカいえ! 人の声、すなわち神の声、っていうじゃないか。噂だってバカにしちゃいけないよ。噂で人生を棒にふった人間がゴマンといるんだぞ。いや、神の声、すなわち人の声だったかな、……」

レコードは、いよいよクライマックスにさしかかり、右に左にとシンコペーションしながら、だんだんおおきくクレッシェンドする曲趣を奏でていた。

そのとき、コートを着て、頭のうえに雪をのせた数人の男たちが、店内に入ってくる。

ドアの向こうで、まだ入りきらない人群れができている。

開けたままの入口から冷気が勢いよく侵入してくる。テーブルのうえの紙が風にゆられて床に舞いおちる。窓のそとは、音もなく雪が降りつづけ、ガラス面のしろい曇りがおおきくひろがって、列車がトンネルのなかにでも入ったみたいに、うすぐろい風景にかわっている。

せまい通路に男たちがならぶと、それと入れかわりに、カウンター席の女たちがコートを着ながら出ていく。壁で仕切られた窓のない頭上のあかりが、舞台照明のように彼らの横顔を照らしている。

カウンターのなかにいるウェイターは、またフードのなかに顔を突っこんで何かしている。ウエイトレスも、その囲いのなかに入って、客に水をはこびながら、フードのなかをのぞいている。

彼らが入ってきて床に落とした雪がじきに解けはじめ、あかりに反射してひかっている。5人組の男たちがカウンターに居すわるころ、べつの席の男がもどってきて、

「どうも、とうぶんダメなようだ」といっている。

長距離列車は、さっきの地震で、ほとんどのダイヤが乱れているらしい。

あてのない列車を待ちくたびれた客は、しびれをきらしたように重い腰をあげて、しかたなく店を出ていく。あきらめきれない客だけが、時間とにらみ合ったまま、居すわりつつづけているのである。

北国のいちばんおおきな駅は、つぎつぎと旅行者を吐きだしている。そして、入れ替わり店に入ってくるが、満席をたしかめると、つぎつぎに出ていく。そしてまた入ってくる。そこにいるのは、ずっと居すわりつづけている客ばかりである。

空腹の客にはつぎつぎと食事がはこばれてくる。彼らはただ、じっとすわっているだけしか用はないというふうに、新聞を読んだり、雑誌のページをくったりしている。あたらしい客があらわれると、ものぐさそうな客の注意を、ちらっとあつめるだけである。

そのうちに、ガタンという音がして、フードのなかの換気扇が唸りはじめる。

ウエイトレスがせまい店内をあるきまわって、食器を片づけたり、食事をはこんだりしている。

「都会にゃ、女の姿が、やけに目につくなあ」と、なかばつぶやくように専務がいう。

ウエイトレスが、わたしのむかいの席におかれた荷物を見て、わたしに向かって、

「ご相席(あいせき)、よろしいですか?」ときく。

「ええ、……」といって、わたしの口がしぶっていると、若い男がわたしの顔をみて、荷物を通路においた。通路はどこも、満員列車みたいにところ狭しとおかれている。わたしの向かいの席に、高級料亭の女将(おかみ)といったふうな、和服の女がすわる。

ふんわりとした狆(ちん)みたいな毛でおおわれた、派手なショールを肩からおろし、膝のうえにそっとおいて、ちらっと、わたしに視線をあわせた。

「どちらまで?」ときけば、遠いどこか、いなかの話が聞けそうな、話好きな風貌をしている。

専務が「都会の女」の話をしたのは、きっとこの女の姿を見たからだろう。

店の客たちは、おたがいの顔に見飽きて目をそらし、座談のはずんでいる席のほうに視線をなげ、そのうつろな目をぱちぱち動かしている。ひとしきりレコードの音響が鳴って、無愛想な慰藉(いしゃ)をあたえる。

部長はすっかりだらけきって、窓辺に寄りかかったまま、暗くて何も見えない外を見ている。すっかり酩酊(めいてい)してしまったようだ。レコードだけが依然ロマン派の系譜をくむ重苦しい弦楽の音を鳴りひびかせている。

専務の声が、また聞こえてくる。

「――だから、そういう鬱勃(うつぼつ)の気風のある、わが村の草創のころのことをだな、おれはちゃんと考えてみたいんだよ。村おこしのころのことをよ。村の人間はへるいっぽう。農家をたたんで出ていくやつらは、みんな負け犬みたいだ。どんな連中も、おれにいわせりゃ、負け犬ってとこだ。だが、のこった連中がなんとかやっていけても、おれたちのほうがはるかに憂鬱だろうよ」

「そうでしょうか」

「そうだとも。……憂鬱なきぶんを断ちきれない、妙なあいだがらになっちまったようだ。しかし、農家の親父が、都会へ出ていって、いったい何ができるっていうんだい? 心棒がぬけちまったみたいになるだけだぜ。そうだろ? 部長」といって、眠った子を起こすようにいう。

若い男がいう。

「ぼくも、飲んでいいですいか?」

「いいとも! 飲みたまえ」といった。

部長は窓ガラスに額をくっつけるようにして、目をつぶっている。

「部長にゃ、もう飲ますな」といって、若い男に顎でしゃくって見せる。

「部長は、つかれているんですね、……」と、若い男は説明するようにいう。

「部長、そうなのか? 起きろよ! たのむぜ、しっかりしてくれよ。おれたちは仲間じゃないか。しゃべっちまいな。胸んなかにあるものをよ。部長? 垣根をつくっちゃ、世間はますますせまくなっちまうぜ。都会にゃ垣根が見えないかわりに、信用のおけない誘惑がおおい。だが、おれたちはべつだ。――なあ部長、母ちゃんのことなら相談にのるぜ。――もういっぺんいうが、母ちゃんのことなら、おれは喜んで相談相手になってやるぜ。……酒屋の母ちゃんのこともな。なに、考えてるんだい?」

専務は、部長の頬づえをついた、肘(ひじ)のあたりをつまんで、男の目をひらかせる。部長は眠そうにつぶらな目を開く。

「ぼくなら、だいじょうぶですよ、専務。ちょっといろいろ、……」

そういって、目のまえのスーツのはしに落ちたたばこの灰を、膝のあいだに落とし、尻が痛くなったという顔をして、きちんとすわりなおした。北海道の冬は暮れていった。 

「ぼくのことなら、もうだいじょうぶですから、……」と、念を押すようにいう。

「何がだいじょうぶなもんか。おれは心配してるんだ。女のことは、慎重にやってくれよな!」という専務の声が、和服の女の耳にも入ったらしい。

女は、窓を見るようなしぐさをしてから、男たちのほうをちらっとながめる。

女は男たちの視線とあって、あわててコーヒーカップに視線をもどし、おもむろにそれを口にもっていく。そして、バッグのなかからティッシュを取りだし、口もとをぬぐうと、それをバッグのなかに入れる。留め金のパチンという音がして、女は窮屈そうに腰をうごかすと、男たちの視線から解放される。

そして、自分の小さな腕時計を見ると、女はまだまだ時間があるというふうに、ふたたびコーヒーカップの取っ手に指を入れ、もちあげた。

名のある昭和初期の華冑界(かちゅうかい)からぬけ出してきたみたいな、どこか、ふるめかしい艶冶(えんや)な空気が、香水のように匂っている。ふとくて、黒々とした眉が、情のふかさを証明しているように見える。

またひとり、店に入ってくる。

玄関からながめる座席はどこもふさがっている。それでもあきらめきれないように突っ立っている。ドアのすきまから、待合室の騒音が勢いよく入ってくる。なにか火急(かきゅう)の情報を流しているようすだ。店の客がいっせいにドアのほうに顔をむけた。客のひとりが大急ぎで出ていく。

「見てきましょう」といって、若い男も出ていく。

やがて彼のしろい顔があらわれ、

「やっぱりダメなようです。北海道の全線がストップしているそうです。列車は、ダメなようですよ、専務」

「なんだって!」

「復旧のみこみは、ないといってます。……」

「チケットを買ったのにか! じゃあ、バスは?」

「国道230号線も、ふさがっているそうですよ、専務」

「ほんんとかよ! だったら275号線は? きみはすわってろ! おれが行ってたしかめてくる」といって、大柄な専務は腰をうかす。からだをおおきくゆすって、店を出ていく。

ずっと居すわりつづけていた客の何人かも、専務につられて、あわただしく出ていく。カウンターの5人組の男たちのひとりも出ていく。落ちつかない店内に、しんみりとしたマーラーの「5番」が流れ、深遠静謐(せいひつ)なアダージェットを奏でている。

専務がもどると、

「おい! 荷物をまとめろ。クルマにする。110キロ、2時間、いや2時間半として間に合うかな? ヘタをすると遅刻だ。クルマのまえに、もうならんでるぞ!」と叫ぶようにいう。

「ぼくがいって、ならんでいましょうか?」

「いっしょに行こう。……さあ、クルマ屋と交渉だ!」

3人が、おおきなみやげ物らしい荷物をぶらさげて、せまい通路を、車両のなかをかきわけるみたいに、ぶつかりながら出ていく。そこを出ると、3人はいそぎ足でコートをなびかせながら駅前のクルマ寄せのほうに歩きだす。おおきなからだの専務のすぐうしろに、若い男が小走りについていく。部長はちょっと遅れて、足もとをふらふらさせながら歩いていく。

3人は、やがてクルマのまえで横に立ちならぶようなかっこうで、ドライバーの顔を腰を折ってのぞきこみ、何か話している。

そのうちに専務が、キッと顔を反らして、べつのクルマのほうに歩きだす。ふたりが後についていく。

ふたりの荷物が重そうになり、雪のうえをほとんど引きずっている。

専務が手まねきをすると、ふたりはコートの裾をなびかせて、子どもみたいに駆けだす。くろい3人の影がクルマのなかに吸いこまれると、ヘッドライトが灯って、ながい行列を組むタクシーのクルマだまりのわきを、雪煙をあげ、おおきく円を描いて消えていった。

3人がいたテーブルのうえに、うっすらとしたたばこの燃えきらない空気が浮かんでいる。そのすぐそばに、小びんの箱がぽつんと立っている。やがてその席がべつの客でふさがる。

おおきな窓ガラスは、外の景色を見せなくなって、そのくろい画面に、店のあかりがはっきりと映しだされ、旅行者たちの単調なうごきや、見あきた彼らの顔が、画面いっぱいにひろがるのである。わたしは、リズミカルに車体をゆすって走る列車のなかにいる。そのなかでいま、和服の女と同席して、どこか、北の街に向かおうとしている。――そうおもうことにした。