ふるさと北海道・北竜町で同期会開催。

8年ぶりの会。一生一別ふたたびまみえ難し。

 

北海道・旭川で小松茂樹さんと歌う。

 

無事に帰り着きました。旭川から飛び立つ機内で、偶然、滝本光男さんに会いました。満席でしたが、事情をいってアテンダントのお嬢さんに彼との同席を頼み込み、1時間半、たっぷり彼とおしゃべりしながらの帰途となりました。この天の采配に感謝しているところです。

川田浩二さんには旭川まで送っていただき、とても嬉しく思っております。「三浦綾子文学記念館」に訪れることができ、ぼくには望外の歓びでした。

ありがとうございます。

ふるさと北海道・北竜町での同期会開催。――秋は小走りに南下し、ひさしぶりにひんやりとした田園の空気を吸い、丘から丘へと連なるなだらかな裾野を見ながら、北海道はいいなあと心から思いました。はるか向こうに見える山並みは、神々の遊ぶカムイミンタラの出現かと見まがう絶景。

恩師・渡辺晋一先生(86歳)

 

ぼくは札幌からバスに乗って、丘陵や平野を突っ走り、北海道の田園の風景に目をうばわれ、車窓からながめる道行く人びとの姿をぼんやりと見つめていました。北緯44度線はどこも日向路は夏の終わりを迎えていましたね。

ぼくは札幌で、両親や伯母の墓参りをすませ、後ろから迫ってくる10号台風の行方を気にしながらバスに飛び乗ったのです。滝川で乗り替えると、客は自分ともうひとりの客人だけになり、ぼくは運転手さんにたずねました。

「このバスは、北竜温泉の近くに行きますか? どこで降りたらいいでしょうか?」と。すると、運転手さんは、にこっと笑って、

「このバスは、北竜温泉に停まりますよ」といいます。

それを聴いていた客人はぼくに声をかけてきました。

「ぼくも、そこに行きます」とその人はいったのです。

「失礼ですが、北竜町の方ですか?」

「ええ、元は北竜町の人間でしたよ」

「ええと、お名前は?」

「川本です」

「もしかしたら、恵岱別の川本さんですか?」

「ええ、そうです」とその人はいいます。

「川本佐津子さん、ご存じですか?」

「ええ、佐津子はぼくの妹です」といった。

そしてぼくは、北竜町で中学校の同期会があるという話をし、「佐津子ちゃんと会えますかね?」というと、「佐津子はもう行っているはずですよ」といいました。ぼくは嬉しくなりました。川本佐津子さんとは高校時代もいっしょでした。彼女はきれいな人で、みんなに好かれていました。いい寄る男子たちを袖にして、ぼくらの知らない別の人と結婚されました。けれども、73歳の川本佐津子さんをぼくは想像することができませんでした。

「川本佐津子です」と名乗ったその方は、いまもきれいな方で、ぼくは彼女にぬけぬけとその話をしたものです。彼女は、ぼくには永遠の女性です。小説のモデルにしたことがあります。

北竜町のサンフラワー・パーク。

 

サンフラワー・パークホテルの受付で出会った最初の寡黙な男、北清正昭さんはわかりませんでしたね。58年ぶりの再会でしたからね。それはそれとして、渡辺晋一先生にお目にかかったのがいちばん嬉しく思います。お顔はちっとも変らず、58年の旅のなか、途中でどこかで出会ったとしても、たぶん先生だと気づくでしょうね。86歳とは思えない物腰で、その立居振舞いには品があって、年季の入ったお姿。お顔が白く、髪も白くて、黄色い花弁をつけ、まるで北海道の可憐なエゾコザクソウ(蝦夷小桜草)のようでした。白い花弁なら高山植物のチングルマ(稚児車)といったところでしょうか。

そういう意味では、みんなも人生の旅の途中にあり、ぼくもいま、その旅の真ん中にいる、という気分です。すでに旅を終え、天に召された方々もいて、――112名中28名、――さびしい気分に襲われました。北竜町竜西では吉岡さんという女性とお話をする機会を得ました。彼女は数人で、道路端の広い畑で仕事をなさっていて、亡くなられた畏友森茂さんについて語っていただきました。ぼくは、感情惻々となり、残された人びとも、We‘re all in the same boat.おなじ船に乗った運命共同体という気分になりました。

「故郷(ふるさと)は夕虹のさき馬走る」と詠った北竜町の田中北斗さんの句を想いだします。みんなの顔をおもい浮かべながら、同期会で出会った方々の写真を見ているところです。

ふと、柳瀬康治さんのことが想いだされてきました。彼は奥さまの手術をひかえ、2日目の朝、そうそうに帰られました。そんな折りによく来てくれたと思います。広島県呉市からは、からだが不自由なのに、滝本光男さんも来てくれました。また片桐さんという女性のお話、ぼくはその彼女の酪農に取り組む、あまりにも過酷な労働の話を聞いて、なんともいえない切ない気持ちになりました。彼女もまた多忙な折りに来てくれたのですね。二上肇さんには、こういわれました。「東京の幸光さんのお宅に泊まったのに、おもい出せないなんて!」と。往時茫々の荒野となりました。「グッバイを鞄に詰めて冬の旅」(吉田類)。

「ハナニアラシノタトエモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生サ」(井伏鱒二)、宇武陵の「人生 別離足る」を井伏鱒二さんはそう訳されました。これまで何1000人と会っているのに、「また会おう」といって一度も会うことはありませんでした。空海の「一生一別、ふたたびまみえ難し」はほんとうのようです。

けれども、ぼくらは58年ぶりに会ったのです。奇跡のようです。

 

 旭川空港にて。

 

このたびの同期会は、ぼくにとってまことに記念すべき、忘れられないイベントとなりました。それを企画された発起人の方々の労を心からねぎらいたいと思います。ぼくは蝶のように、――むかしタタール人がふるさとを追われてカラフトに亡命したときのように、蝶もひらひら大海を超えて渡ります。ぼくも、この人生を美しく渡りたいなあと思っています、北緯45度線の美しい島に住むパピオンのように。

川田浩二さんもどうか、北竜町のために、町民のために、同期の仲間たちの果たせぬ夢を実現してくださることを切に願います。このたびは、たいへんありがとうございました。