レイト・スピリットのラゴン。

 

 

夕闇のせまるお寺の林のなかから飛び出してきたものがいた。黒っぽい姿をしていて、すばしっこく跳ねていた。宿なし猫だった。ぼくらはもう「帰ろうか」といっていた。ひろい境内でぼくらは縄跳びをしていた。ひとりはもう帰っていった。

浅野さんの洋子ちゃんの家は、すぐ向かいにあり、彼女のお父さんは鍛冶屋をしていた。朝から晩までふいごを操って、蹄鉄や鍬(くわ)の刃なんかつくっていた。ちょっとおっかないおじさんで、大きな声で、もう帰れ! っていうんだ。ぐずぐずしないで、もう帰れっていうんだ。

「おじさーん、猫がいたよ」というと、

「そいつは、放っておけ! うちで生まれて、出ていっちまったやつだ。出ていったやつは、ひとりで生きる」っていうんだ。

「いいから、もう帰れ!」

そのころの村のおじさんたちは、みんな父親みたいに、ぼくらを叱るんだ。あぶないことをしていても、叱る。転んでも叱る。駆けても叱るんだ。

ぼくが小学校にあがるころのことだ。

真竜小学校といって、ふるい2階建ての木造の校舎で、グラウンドの入口に大きな石が置いてあって、何かのおまじないみたいにデンとかまえていたんだ。子供たち5人がのっても平気だった。その石は、ただの石だけれど、真竜小学校にはなくてはならない石だった。

卒業するとき、6年生はみんなそこで記念の写真を撮った。先生たちもそこで撮った。村では大切な石だった。グラウンドで運動会をするとき、一等賞の賞状をもらうのは、なぜかその石の前でだった。ぼくは先生に石のことはいちどもきいていない。でもわかったんだ。みんなたいせつにしてきた理由を。

いまは校舎は移転し、そこにはもう石がないけれど、ぼくのイメージのなかでは、いまもでっかくて重そうな面構えで、デンとかまえているんだ。

そのころ、体育館には第1期生の名前がかかっていた。父田中員夫の名前もあった。恵岱別に小学校ができるずっと前のことだった。

真竜って、世にいう、セブンスドラゴンシリーズに出てくる最上位のドラゴンとは何の関係もない。そのドラゴンは人類の大敵なんだ。「真竜の目覚め(Forge of the True Dracos)」なんていうんだけど、それとも何の関係もない。福井の真竜ラーメンは有名だけど、それも何の関係もない。なぜ「真竜」と名づけたのだろう。

村から暑寒別岳が見える。初夏になっても、てっぺんの白い雪が解けずに見えた。キリマンジャロの雪みたいに。

そこには、平野みたいに平らになったポーランドの「ポー(平らな)」みたいな土地があって、大小700もの沼があるんだ。それが雨竜沼だ。

沼には島があり、なかには、見せかけの浮き島というのもあり、母たちといっしょに雨竜沼で一泊したときは楽しかった。

ミズバショウがきれいで、ショウジョウバカマ、エゾノリュウキンカ、イワイチョウ、シナノキンバイ、チングルマ、エゾノシモツケソウなどなど、……。書ききれないほどの植物がある。ウソだとおもったら行ってみるといい。

7月にはエゾカンゾウがオレンジ色に咲きみだれ、艶やかに湿原を彩るんだ。

母は、そういう自然に見惚れて、浮き島とは気づかずに島に飛び乗った。すると、静かにゆっくりと沈んでいったんだよ。ははははっ、ぼくはおもわず笑ってしまった。夏とはいえ、水温は低く、母は寒いおもいをした。

そう、そこは「太霊(グレイト・スピリット)の山」っていうんだ。――つまり万物の聖霊が地上に手をさしのべたところが暑寒別岳であり、雨竜沼だというのだ。聖霊の5本の手の指が大地にくぼみを残し、そこに淡水がたまっていまの雨竜沼ができた。太古の話だ。支笏湖もおなじような伝説を持っているんだ。

だから、村の第一次入植者たちは、その山を見て、偉大なる山にこうべを垂れ、「真竜」と名づけたんだ。ほんと、グレイト・スピリットのドラゴンみたいなやつだ。無敵を誇るように、村の風景のなかにずっと君臨している。人類はやつを倒すことができない。ときどき村人に悪さをして襲う。でも、村人は永遠にやつのことを尊敬しつづけている。北竜村の守り神になったからだ。だから美しいのだ。

すばらしい大地と沼と、沼に写る紺碧の空。白樺林が絵に描いたように写って、人をうっとりさせる。

そこは、なにもかもが新鮮で、この美しさに魅せられたのは、人間だけではない。小鳥たちも昆虫たちも、あるいは、はるか1万年むかしには、熊と格闘できる野生のオオカミの親子も魅せられたにちがいない。縄文人はきっとそれを見ただろう。

そんな話をしてくれる鍛冶屋のおじさんを、ぼくらは父のように慕った。おじさんはいつもいっていた。

「おまえらは、村の子だからな」って。その意味は、大きくなるまでわからなかった。洋子ちゃんは大きくになる前からブラをし、背が高くて大人びて見えた。大人になると彼女は学校の先生になり、お嫁さんになって、ぼくの知らないところへ行ってしまった。けれども、洋子ちゃんと遊んだグラウンドの石を想いだすだけで、ぼくのこころは満たされる。いまでもそうだ。

  ぼくは大きくなって、キーツという詩人の書いた詩を読んだ。「烈しい気まぐれな風は」っていう詩だ。Fitful,gusts are whisp'ring.っていうんだけど、「さえる白銀(しろがね)の光も、楽しいわが家の/寝床の遠さも、いまは感じない」っていうんだ。ふるさとのグレイト・スピリットも遠いけれど、遠いとは感じないんだ。