んな、むかしの。1

展示会場は空いていた。上松千菊さんの南画が2点架()かっていた。かなりの力量である。中国人の王凱(おうがい)という画家の描いたという絵がそばに架かっていた。それはすばらしいものだった。

だれか知らないが、いろいろ解説してくれるおじさんがいた。

「筆の墨の濃淡が、気持ちよく描かれているでしょう? この濃淡が決め手です。これを描いた先生は、王凱(おうがい)という中国人のりっぱな先生です。……南画のいい見本です」という。

「ははーん、そういうもんですか」

「王凱先生は、中国の杭州(こうしゅう)市のご出身で、日中国際絵画校友会の会長さんでしてね、武蔵野美術大学の先生をなさっておいでの方です。もしも興味がございましたら、ご紹介させていただきますが、南画にご興味、ありますか?」

「ええ、南画の描き方がわかれば、いいですね。……この筆の線は、すてきですね」といって、王凱先生の描かれた絵の一部をゆび差した。

「ここが、先生独特のタッチです。輪郭の線を描かないことがコツです。……輪郭線を描く人は、けっして上達しません」

「へええ、そういうもんですか。……すごいことを勉強させていただきました。すばらしい!」

ぼくはえらく感動した。

受付の女性が、ちらっと自分のほうに視線を投げた。その顔は、和服の似合う人のように見えた。背丈は165センチぐらいか。スラックスを履いたお尻のラインは魅力的だった。――きょうのヨーコは、絵の展示会もあまり興味を示さなかった。見終わると、受付の椅子に腰掛けて待っていた。

われわれはそこを出てから喫茶店に入り、男女兼用のトイレに入り、コーヒーとパンを食べた。ヨーコは不動産の話をしきりにしていた。

「コロコロちゃんは、またこころ変わりするから、何をいっても、わたしは平気よ。あなたは、いつもそうなんだから、……木星人は、自分では何も決められないのよね。いつもコロコロ変わるから、……」という。

喫茶店では、おもしろくない話を長々と話した。コーヒーにも、話にも飽きて、われわれは隅田川沿いの歩道を歩いた。

「桜の季節には、ここはきれいだわね。また来てみたいわ」とヨーコはいった。

なるほど。ぼくは浅草のことは、ぜんぜん知らない。その散歩道が気に入った。また来てもいいとおもった。――それからわれわれは準急電車に乗り、帰途についたが、ぼくは車内では座れなかった。ぼくは立って本を読んだ。ドストエフスキーの「罪と罰」のページにすばらしいことが書いてあった。

草加につくと、たこ焼き店に入り、やけどするくらい熱いたこ焼きを食べた。古本屋でフランソワ・サガンの「悲しみよこんにちは」を買った(新潮文庫200円)。1968年に朝吹登水子さんが訳されたものだ。これにはおもい出がある。

これは1964年、ぼくがパリに行ったとき、原書で読んだ。1954年の作である。

サガンはまだ18歳ぐらいのときだった。ぼくは21歳だった。うかれ騒ぎが絶望に変わったり、幸せはぞっとするものになったり、喜びはむなしくなったり、女たらしの父を見て育つ、女のやるせなさが描かれている。税務署に財産を差し押さえられたり、スッカンピンのぼろぼろの生活を切なく書いていた。可愛い怪物と評されたサガンのはじめての小説である。これを読んで、ぼくのこころも、むなしくなった。

マルメラードフの場合は、やるせない気持ちを酒で紛らわすという、ロシア社会独特の9等官の暮らしを代弁している。男の切ないものがふつふつと感じられる。

マルメラードフは、むかしは志が高く、堂々としていた。

ところが、ロシアの社会制度の大きな壁にぶち当たり、彼は酒を飲みはじめた。彼の娘であるソーニャはまだ18歳だが、娼婦の象徴である「黄色い鑑札」を持ち、それで一家をやっと支えているのである。父親のマルメラードフは、ソーニャにはすまないといつもこころに念じながら、酒を飲みつづけている。ありがたいともおもいながら、……。

このような人には、生活信条というものが必要だ。だが、マルメラードフの生活信条は打ち砕かれた。後戻りのできないところまで落ちたが、ソーニャのことをだれよりも愛し、自分を救済する神のように娘を見ている。

飲んだくれのマルメラードフは、学生のラスコーリニコフにいう。

「貧しいというのは、悪徳ではない」という。

働かなくて貧しいのは悪徳だが、働けない者にとっては悪徳ではないという。マルメラードフはついこのあいだまで最低の9等官だったが、病いがもとで働けなくなった。そういう人びとに国家は何もしてくれないという。

「分かるかね、学生さん?」という。

「おまえは豚じゃないと断言できる勇気をお持ちかな?」とラスコーリニコフに尋ねる。これを悪霊というらしい。悪霊になっていた男から出た悪霊が、豚の群れに乗りうつり、ガラリヤ湖に落ちて沈む話をする。

そして最後に、「主よ、御国(みくに)をきたらせたまえ」という。これは聖書のことばである。

よくよく考えて見れば、マルメラードフのこの長い話は、すべて聖書の話になっている。マルメラードフ自身、最後には馬車に轢(ひか)れて死ぬ。ドストエフスキーの考えがマルメラードフに乗りうつって吐き出されるのである。「罪と罰」のすばらしさは、そこにあるとおもう。

捌()け口のない社会。――出口のない社会。それを痛烈に描いている。

文学が拠って立つスタンスは、こういうところにあるとおもう。Sさんをモデルに書けば、ひょっとしたら、おもしろいものができあがるかも知れないとおもいはじめた。男の夢を捨てては、男は生きられない。夢は若者だけの特権ではない。

ぼくには「銀座時代」というのがあった。ずっと昔のことである。数えてみると、もう50年も前である。――年があらたまって、むかしのことをしきりにおもい出されてくる。北海道の田舎から出てきたばかりの頃のことだ。知る人もなく、大学を受験するために上京した。

しばらくは文京区のたしか「文教館」という旅館に逗留し、受験にそなえたのである。大学は明治大学だけを受験した。お金がなかったから他の大学を受験することができなかった。もしも不合格になったら、ただちに田舎に帰る約束で出てきた。数週間はその文教館に寝泊りし、合格発表を待った。

最初のうちは、他に受験志望者もなく、ひとりで2階の広い部屋を使っていた。そのうちに数人ずつ逗留組が増えていき、食事が終わった夜は、賑やかになった。当時は寝泊りする大部屋に食事のたびに膳が運ばれてきたから、そのままお互いに打ち解けた感じで話し合った。

北海道の網走から出てきた仲間がひとりいた。ぼくは、こんなふうにして都会でひとり暮らしをした経験がかつてあった。高校生のときである。

ぼくが通った高校は、全部で3校ある。といえば不思議におもわれるかも知れないが、ほんとうである。田舎の農業課程専門の「北竜高校」と普通課程で受験校の「沼田高校」、そして通信教育課程の「札幌南高校」の3校である。

ふだんは北竜高校に通い、日曜日には、ディーゼル車で45分のところにある北空知の沼田高校へ通った。そこは札幌南高校の通信教育課程にいる学生を対象に日曜日だけ教える地方の受け皿校である。夏にはまとめて通信教育のスクーリングに出席するために札幌に行く。札幌南高校へ通学するのである。

夏の約2ヶ月間は札幌でアパートを借りてひとり通学する。だからぼくは毎日勉強していたことになる。

教科書は全部2種類ずつあり、なかには専門的な農業・畜産関係のテキストもあり、覚えることは多かった。しかし興味のある教科書は、手に入れた頃から読んでいた。国語、社会、歴史などはほとんど最初から読んでいた。それぞれ教科書が違ったので、おもしろかった。

ぼくは、親の膝下を何の抵抗もなく自然に離れていくことができた。大学生として東京で暮らすことは親がいうほどの心配も感じなかった。適当なアルバイトをして日用の糧を得る方法はいくらでもあった。旅館の窓から都会の風景を眺めていて垣間見たものは、新聞配達員の姿だった。夕刊を配っていた。若い女性だった。学生なのだろう。

さっそく朝日新聞社に電話をして、担当者に聞いてみた。

「あす、来られますか?」という。

「寝具はありますか?」

「チッキで持参しております」とこたえると、

「結構です」というような返事。

翌朝、有楽町の東京本社に顔を出した。東京本社の地下にその部署があった。すると「いま専売所の方が来ますから、面接してください」という。

あらわれたのが星野龍男さんという、当時35、6歳に見える柔和な感じの男性だった。いろいろ話し合った上、銀座の専売所にこれから行って「おやじさんに会ってくれますか?」という。おやじさんというのがそこの社長さんなのだとおもった。

専売所について、1階の広いフローリングの床にある椅子に腰掛けていたら、目の前のトイレから、前のチャックを閉めながらおやじさんらしい人が出てきた。この人が社長さんなのだなとおもった。当時60歳くらいに見えた。

両親は北海道で農業をしていて、将来は農家をたたむので、長男だけれど進学するために上京したというと、合格した。勤務先が決まったことで、旅館を早々に引き払うことになった。3日後に配達人のひとりが辞めるので、その後任に自分が当たることになったのである。

辞めるのは川道さんという人だった。なぜ今もってその人の名を覚えているのだろう。運がいいのか悪いのか、ともかく決めてしまったのである。

旅館にもどって、ひとり夕食を食べ、みんながどこかへ姿を消しているのを見て仲居さんに尋ねると、全員引き払ったという。久しぶりに自分ひとりになって、大部屋を占領することになった。

翌朝、妙な夢をみた。目が覚めると、ぼくは男の自然現象を起こしているのが分かった。というよりも、強烈に気持ちいい快感がからだじゅうを突き抜けた瞬間、目が覚めたという感じだった。

下着も浴衣も濡れて、布団にも汚れが付着していた。自分で始末することができなかったので、布団も浴衣も自分でたたんで押入れに突っ込んだ。

時間になって朝食を運んできた仲居さんが、何かいいながら、「あら、お布団、入れてくれたのね」といって、果たしてちゃんとたたんで入れてくれたのかどうか点検しはじめたのである。

浴衣は布団の間に適当にはさんでいたから、彼女はそれを引っ張り出して、手で浴衣の皺を伸ばしはじめた。手にぬるっとした感触があったのだろう、彼女はその部分を鼻に持ってきて嗅いだのだった。

「これ、お洗濯しておきますから……」といって、ついでに、

「下着、出してくださっていいのよ。遠慮しなくっても……」というのだ。

下着の始末も頼んだのかどうか、もう記憶にない。彼女はしかし、平然として動ずる気配もなく対応してくれた。こころのなかで、ぼくはすまないとおもっていた。こんなことが、住み込みのアルバイト先でイヤというほど経験することになる。