この60年をして。
 
  子供のころの思い出は、だれにとってもきらきら輝いて見えるようだ。

アガサ・クリスティは、自叙伝の冒頭に、「人はだれでも、子供時代は幸せであった」と書かれている。だが、彼女はそうではなかったと書いている。

ぼくの場合、ごたぶんにもれず、子供時代は幸せなほうだったとおもっている。幸せとはどういうものか、何も知らなかったのに。

親の世代、おじいさんの世代を考えると、ぼくは戦時中にこそ生まれてはいるのだが、戦争の記憶はほとんどない。子供のころ写真館で撮った写真を見ると、飛行機の絵柄のあるボタンをした洋服を着て写っている。まだ戦時中であることを物語ってはいるのだが、ほとんどそのころの記憶がない。

写真は、だれか知らない女の人といっしょに写っている。のちにわかったところによれば、ぼくを育ててくれた子守りのお姉さんだった。彼女は1617くらいに見える。

毎年春先になると、北海道の田舎の家のまわりは、雪が解けて、パドックが泥んこになり、おまけに雨が降ると、でこぼこ道の堅い雪が半分解けて、黒ずんだミートローフみたいにごろんとした形になった。学校の行き帰り、それに脚をすくわれて、女の子が転んだりした。それを見た仲間のだれかが大声をあげて、何かいっていた。

道の真ん中の、馬糞の乗った雪はなかなか解けない。ごろんとした塊が一列になって、馬の背のように盛り上がっているのだ。いつまでも解けずにいる。雨でいくぶんかは解けても、その下にある雪は信じられないくらい堅くしまっていて、人びとの脚のじゃまをした。

ぼくが育った北海道・北竜村は、これといった特徴のない村だが、大人たちは、ぼくら子供を見て「わらす」といった。村には「わらす」がいっぱいいた。農家には次男、3男、4男、5男、……よくもこんなに子供らが生まれたものたと思うほど、いっぱいいた。長男をのぞいて、みんな学校を出ると、村から出ていく。そういうふうに運命づけられていたかのようだ。

ぼくのすぐ下の弟とは3つ年が離れていたが、村の人たちは、「おんぢ、泣いてるぞ!」といって、ぼくに注意をうながした。

ぼくは弟のめんどうをみていたという確かな記憶はないのだが、何かしていると、いつもそばに弟がいた。いちばん下の弟はまだ赤ん坊で、子守りのお姉ちゃんの背中におぶさっていた。

春の雪解けころの三谷街道を、まっすぐに歩いていくと、恵岱別にたどり着く。タオルで頬かむりをして帽子をかぶり、日に焼けた青年たちが、腰に幅ひろの皮のバンドを締めて馬を追っている。これを「馬車追い」といって、北海道独特の光景だろう。女性たちは、角巻を頭から羽織って、顔を隠すようにして道を歩く。

一本道で、馬車同士がすれ違うとき、一頭の馬は、道を外れて待っている。これが北海道の馬追いのやり方だ。荷物を満載した馬に、道をゆずるのだ。

恵岱別には同級生がふたりいた。

ひとりは男の子で、もうひとりは女の子だった。女の子とは口をきいたこともなかったが、男の子とは仲良しになり、中学校からはおなじ学校へ通った。

次男、3男坊は、長男のお下がりを着ているか、みんなツギのあたった服を使いまわしして着ていた。ボロを着ていても、一向に平気だった。暮らしは楽ではなかったが、みんな赤い顔をして元気に振る舞っていた。

赤ん坊が生まれて亡くなったことはなかったし、病気になった者もいなかった。いたって元気な子供たちばかりだった。同級のMくんとは、スキーをやっていっしょによく遊んだ。

恵岱別の街道から入ると、そこには恵岱別川が流れていて、その橋をわたると、営林署で働くおじさんの家があった。桂の沢は狭い土地で、山間にできたわずかばかりの土地があり、その山裾にへばりつくようにして開墾した田畑を耕していた。

おじさんは、営林署に勤務していて、毎日山の仕事に追われていた。

ぼくは父とともに、ときどきその家に行き、そこから山に分け入ったところにある木々を伐採した。伐採の仕事は冬の仕事だ。雪が解けはじめると、もう山の仕事はなくなる。伐採した丸太をバチと呼ばれるソリに積んで、馬で運ぶ。雪がなくなると、もうそういう山の仕事はなくなり、田んぼの開墾の仕事に追われる。温床をつくって、稲の苗を育てる仕事がはじまる。

そのころは、冬休みも終わり、ぼくらは学校に通学し、新学期を迎える。

新学期を迎えると、生徒らの組み換えがおこなわれ、3教室のメンバーが入れ替わる。でもふしぎなことに、おなじ「田中姓」を名乗る親戚の子とはおなじクラスになったことがない。おなじクラスにおなじ田中姓の生徒がふたりも3人もいては、めんどうだということなのだろうか。

女の子のТ子ちゃんは、中学校を出るとすぐ結婚した。そしてすぐ子供が生まれ、彼女の家でご飯をご馳走になったとき、彼女はすっごく大人びた女に見えた。

従妹の男の子は、じきに札幌の水産加工会社の店で働きはじめ、もう付き合いはなくなった。恵岱別の親戚の人間たちは、そうして中学を出ると、社会人になり、大人の世界へと行ってしまった。ぼくだけが村の高校へ通い、農業の後継者としての勉強をはじめた。

そのうちに、ぼくは、これからの北海道の農業ということを考えるようになり、漠然とだが、とてつもない機械化がはじまるらしいことを知り、これからの農業後継者の苦難を思い知らされた。いままでのような農業は、早晩すたれていく。ついていけなくなるだろうと考えた。

そのころ、ぼくは大人びたことを考えるようになった。農家人は、経済に明るくなければやっていけない、ということだった。何をおいても、農業の生産性をどうやって高めていくか、戦後日本の農業が歩きはじめた近代農業改革の路線は、大人たちが考えるほど、生易しいものではないということを、だんだん知るようになった。

農業高校で知り得た知識は、そういう不安をあおるようなものばかりだった。ちょうどそのころ、ぼくはある先人の物語を知った。北竜村を創設した吉植圧一郎という人物の存在である。彼が生きた時代は、疾風怒濤の時代で、そういうおりに、千葉県から移民団を結成して、北海道に上陸し、このやわらに橋頭保を築いた。それが北竜村である。

そういうことをはじめて知ったぼくは、知り得るかぎりの史料をあつめ、吉植圧一郎という人物を知りたいと願った。ところが、どこを探しても、だれにきいても、吉植圧一郎の人物を正確に描いている人には出会わなかった。これはどうしたことなのだろうと考えた。北海道に新天地を求めてやってきた先人たちの足跡が、ほとんどわかっていないことに驚いた。

これからの農業人は無知であってはならない、言論を活発にして、アメリカ農法、オランダ農法を研究する必要がある。そのために彼は、言論の場である新聞社を創設した。そして、これからの農業人は、経済的にも他の産業同様に、資金をみずから投資して、そこからインカムをはからなければならないとして、彼は、貯蓄銀行をつくったのである。

北竜村をつくった人びとは、村をつくると同時に、経済的にも言論的にも、他の産業に敗けないよう自分たちの足腰を強くした。

ぼくは高校を卒業するころ、このままの農業に見切りをつけた。そういうことよりも、もっとやりたいことがあった。昭和30年代の日本は、あきらかに戦後の新しい改革路線を歩みはじめていた。国は工業立国を標榜し、北海道やその他の地方にたむろする次男、3男、4男や、若い女性労働者を、工業の先兵にした。戦争で男たちの人口は激減したけれど、都市部を離れた地方には、食うや食わずの将来の先兵たちがうようよいた。それが奇跡の復興を成し遂げることのできた大きな要因である。

ぼくはそういう先兵になりそこねたが、大学に入り、何をやっても成功する奇跡の時代にめぐりあった。それから45年、日本は一度も戦争せず、ひとりの人間の命を失うこともなく、国土を少しも失うことなく、エレクトロニクス産業の成長ある市場を興し、日本経済は世界を席巻した。

この時代は、だれにとっても、いい時代だったとおもいたい。こうしてぼくが、寧日の日々を送っていられるのは、まことに奇跡のようにおもうことがある。このような時代は、父や祖父の時代にはなかった。いま、国は幾多の問題を抱え、頭を悩ませているけれど、戦争とはくらべようもない問題である。

ぼくの子供時代は、いま、いろいろとおもい出され、引き綱のようにたぐり寄せることができる。