なし。

  Sさん。

「啄木のは、貧乏人の歌じゃないか」と父はいいました。

父のことを尊敬していましたが、啄木を嫌う父は好きになれませんでした。西東三鬼についてはほとんど知りませんが、ぼくの新聞投稿の選者をやってくださって、いつも励まされていました。

――高浜虚子、飯田蛇笏、正岡子規、芥川龍之介、中村汀女らの俳句は、よく読んでいたほうだとおもいます。俳句作家のほとんどは、男性で、女性が俳句をつくるようになったのは、明治のころからでしょうか。

 Sさんの描いた絵「赤いピアスの女」。

  女性は、俳句ではなく、短歌をつくるものと、むかしから相場が決まっていたようです。戦後、わが村・北竜町には、北海道を代表する俳人が3人もいます。

田中北斗、宮脇龍、山田雅風さんの3人です。あとひとりいましたがおもい出せません。みんな、ぼくより年齢が10歳以上で、とうに大成した作家たちにおもえました。高校の国語のテキストに、いくらかの俳句は載っていましたが、ぼくはそのころ漢文に興味を持っていて、熱心に俳句を読みませんでした。

いとこの豊島静子さんのいる江部乙町の母方の本家には、りっぱなお経本があって、仏壇もりっぱでした。母の上の姉は、札幌の沖本家に嫁ぎ、風呂屋を経営していましたが、子供が生まれなくて、幼い子を養子にし、やがてその子は嫁をもらいました。

母の下の妹は、東京・大井町の下村家に嫁ぎましたが、53歳のときに亡くなっています。札幌の風呂屋に嫁いだ姉が、ぼくの学資金を出してくれた叔母です。叔母は平成元年に亡くなりました。亡くなるまで、ダンス教室に通っていました。

事務所にSさんがやってきて、

「~どこまで行ったやらという例の句、……どうも気になりましてね。考えはじめると眠れなくなりましたよ。上の句は、何でしたかね?」といいます。

そういえば、きのう、そんな話をしました。

「あれは、だれの句だったか、思い出しませんか?」とききながら、彼は椅子に腰掛けます。分からない。

そこでしらべてみた。

「蜻蛉(とんぼ)釣り今日はどこまで行ったやら」だった。この句は、加賀千代女の作であることが分かりました。しかしこれには、余人が勝手につくった贋作であるという説もあるらしい。

「朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらひ水」がたいへん有名な句ですね。「朝顔や――」と置くこともあるようです。そうすると「切れ字」になって、もっと俳句らしくなります。

この人は加賀藩の表具屋の娘だと書かれています。どうも、都会的なセンスの持ち主という感じがするので、おそらく江戸の加賀藩邸に関係する仕事をしていたのではないかと想像します。父親は表具職人。

彼女は安永4年(1775年)に73歳で亡くなっています。このころの73歳というのはかなりの長寿です。つまり江戸末期の人です。翌年の1776年には、アメリカ合衆国が誕生しています。そのころの人です。

ちょうどそのとき、彼女の句が載っている本をデスクの上にひろげていました。そのページに、金子兜太の句が載っています。金子兜太さんはぼくの先生でもあります。

「華麗に墓原女陰あらわに村眠り」という句があります。「女陰」ということばが目にとまって、Sさんは、「ここに、田中さんみたいな句がありますねぇ」といったんです。その隣りには、

「おちんこも欣欣然(きんきんぜん)と裸かな」(相馬虚吼)という句もあります。「欣欣然」というのは、歓びでいっぱいという意味。われながら、おかしさがこみ上げてきます。こんな句が俳句辞典に載っているのです。

きょうも、Sさんとおしゃべりしました。
 

てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。

  (安西冬衛「軍艦茉莉」より。昭和3年

 

図書館から借りてきた塩田丸男の「日本詩歌小辞典」(白水社)という本に、安西冬衛のこの1行詩が載っている。

だから借りてきたのだが、この詩にはじめて触れたのは、中学3年生のときだった。安西冬衛は、昭和3年(1928年)に創刊された同人誌「詩と詩論」の同人になっている。彼は奈良の生まれらしいが、官吏だった父の転勤にともなって満州の大連に移り住み、ここで青春を過ごした。

そのころ、滝口武士の「屋根の上にあかしやの枝が折れてゐる」という句もあるが、1行詩といえば、この「てふてふ……」がもっとも有名だろう。韃靼(だったん)というのは、モンゴル部族のひとつ、タタール人のことである。

この海峡を最初に発見したのは、タタール人だった。それでむかしは、「韃靼海峡」と呼ばれた。英語では「タタール海峡(Strait of Tartary or Tatar Strait」」と書かれる。

サハリン北部とシベリアとのあいだにあるこの海峡を、「韃靼海峡」といい、おなじくこの海峡を発見し、サハリン(樺太)が島であることを確認したのは、江戸後期の探検家間宮林蔵だった。そういうことで、現在は、「間宮海峡」と呼んでいる。

安西冬衛は、この海峡を最初に発見したタタール人の勇壮な夢を、詩に託した。しかも、蝶々が海峡をひとりで「渡って行った」といい切るのだ。

この詩集をぼくは中学校の図書室で見つけ、この1行詩を読んだ。蝶のような、小さな生き物が羽をひろげて海原を飛んでいく姿を想像し、えらく勇気ある行動に、びっくりしたものである。安西冬衛の「軍艦茉莉」という詩集は、しかし読んだ記憶がない。この1行詩だけを読んだのかも知れない。それからずっと、この安西冬衛という詩人の名前を忘れずにいた。

 

鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふべし

  (三橋鷹女「白骨」より

 

この句をぼくは、「鞦韆(ブランコ)は漕ぐもの愛は奪うもの」と覚えていた。

季語は「鞦韆」で、季節は春。中村汀女、星野立子はよく読んだほうだが、この作者、三橋鷹女についてはほとんど知らない。――そうだったのかとおもう。これには「――べし、――べし」と命令形で書かれている。ブランコは漕ぐものに決まっているが、愛もまた奪うべきものだというのである。奪われた愛は、すごいだろうな、とおもう。女の力づよさと、したたかな願望が伝わってくるようだ。

 

妻をめとらば才たけて

顔うるはしくなさけある

友をえらばば書を読んで

六分の侠気(きょうき)四分の熱

 

恋のいのちを たづねれば

名を惜しむかな 男の子ゆゑ

 (与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」より

  

これは、明治32年(1899年)12月5日、与謝野鉄幹が「伽羅(がら)文庫」に発表されたものだという。当時は「友を恋ふる歌」という題がついていたらしい。

ほんとうは女房をほしがっている女々しい歌なんかじゃない。

鉄幹は、山口県で教師をしていたとき、教え子を犯して子供をもうけている。教え子に手をつけるなんて、とんでもないというわけで、ふたりの結婚はゆるされなかった。彼は上京し、この詩が発表になってしばらくして、まさに詩に書かれたとおり、こんどは妻・晶子と結ばれた。事実婚として世間は、この夫婦をみとめたが、ふたりの籍は別々だった。

鉄幹は、この長い64行にもおよぶ詩でいいたかったのは、女の悲しさだったろうとおもう。「人を恋ふる歌」というのだから、遠い山口に残してきた教え子のことを思って書いたのかも知れない。

                       ♪

ここまで書いたところで、Sさんがふたたび事務所にやってきた。空気入れを貸してやり、「どこかにお出かけですか?」ときくと、

「ちょっと、本屋まで」という。

きのうは、えらくパチンコで儲けたらしい。図書館へ行けばいいのにと思ったが、いままで読んでいた白川道の小説「天国への階段」(文庫本で全3冊)をちょうど読み終えたので、こんどは別のものを買ってくるという。読書は娯楽である。人をうきうきさせる。

ぼくが借りてくる図書には、ろくなものがない。「日本の詩歌」全集の別巻「日本歌唱集」が手元にある。それを読んでいて、明治大学の校歌を発見した。

ギター奏者の伴さんの話では、この校歌は世界の3大校歌のひとつになっているというではないか。知らなかった。「日本歌唱集」には、この校歌と法政大学の校歌しか載っていない。

 

白雲なびく 駿河台(するがだい

眉(まゆ)秀(ひい)でたる 若人が

撞()くや時代の 暁(あけ)の鐘かね

文化の潮(うしお) 導きて

遂げし維新の 栄(はえ)になう

明治 その名ぞ われらが誇り

明治 その名ぞ われらが母校

 (作詞・児玉花外、作曲・山田耕筰

 

これは大正9年につくられた。この歌のリズムがむずかしい。

譜面でみると、覚えていたものとは違っていた。最後の1小節が原曲と違っていたのである。最後の「~その名ぞ われらが母校」は、1オクターブ下がったところからクレッシェンドするように書かれている。

たまには、こんな詩も読んでみたくなった。