北海道のいなかの旧友に送る手紙。

のなかに眠るの物語。

北竜村の前身「やわら」は、明治26年、千葉県・埜原村(やはらむら)からやってきた21戸の農民たちだったと資料(昭和30 年発行「北竜町農業協同組合十周年記念誌」)には書かれています。「埜原」と書いて「やわら」と発音していたと千葉県庁市町村課の担当者はいいます。

 
  げんざいの千葉県印旛郡(
いんばぐん)本埜村(もとのむら)がそれであり、新利根川の南にあります。

やわらは、石狩平野の北端、暑寒別岳(しょかんべつだけ)の北東部に位置し、北海道でもっとも広い、肥沃な大地をかたちづくっています。

石狩川水系の雨竜川と傍系の恵岱別川は、ともに二級河川ですが、ぼくたちは、田んぼのすぐ裏手にある川べり行って、泳いでいました。――その川は、年々大きく蛇行しては姿を変えていき、ときには田畑を侵食して、手がつけられないほどあばれまわります。その恵岱別川が、隣りの村とをへだてています。

ぼくが子どものころ、水田の一部が濁流で無惨にも削り取られ、濁流が押し寄せてきたときは、一時はどうなることかと思いました。

水田はみんな水没し、家畜小屋に閉じ込められた動物たちは、水を見て、おどろいたように鳴いていました。

ときにはオオカミのように激しく荒れ狂う河川と、眠った猫のようにおとなしい河川の姿があります。ぼくらは、自然の驚異のまえに、立ちつくすばかりで、それでも、川には感謝の気持ちを持ちつづけるわけです。川が近くにあるから、団長は「よーし、ここに決めるぞ!」といったのでしょうか。

渡辺農場、三谷農場、川端農場、板谷農場、広瀬農場、岩村農場、恵岱別農場(阿蘇農場)というふうに、それぞれの農場は、第一次入植たちの名前をとって名づけられていきました(「恵岱別」は地名ですか?)。

父がむかし、恵岱別にあった吊り橋が切れて、婦人が川に落ち、濁流に飲み込まれて流された話をしてくれました。昭和30年ぐらいが最後の砦でしたね。当時を知る人びとがまだ生きていたからです。十年誌には三谷農場を代表して、富井直さんが文章をお書きになっています。それから、昭和42年に亡くなられました。

やわらをつくった名もなき人びとの記憶は、もう父の頭からも記録からも、どこからもすっかり消え失せてしまい、記憶をつめ込んだ人びとはみんな亡くなって、やわらの口承史は昭和30年を境にぷっつりと途絶えたように見えます。村という社会では、ひとりひとりは脇役で、ときには舞台にさえのぼらない人びと一般となって、主人公にはならないけれども、家にあっては、それぞれが主人公で、無数の舞台があります。

ぼくは、歴史というのは、そういう人びとのほうにこそあるのだと思っています。

吉植圧一郎団長の名前はあがっても、21戸の家族たちのそれぞれの名前が口の端にあがることはありません。舞台の外にいる多くの人びとのために、農具や生活の小道具、それらをしつらえようとした苦心の跡がどこかにあるはずです。

娘が畑仕事を、あるいは納屋や家畜小屋で仕事を手伝おうとして靴につけた糞や泥、髪にはわら屑をいっぱいつけ、髪を振り乱して、ビートやじゃがいも掘りなど、収穫の仕事に精を出した働く女たちの記憶が埋めこまれています。

ふたたび春になれば畑の畝(うね)を掘り起こし、ふたたび種を植え、家畜のために食糧を確保し、ニワトリや豚や、羊を飼い、ある日とつぜんのように結婚して子どもをつくり、子孫をずっとつないできました。――そういう物語はゴマンとあるはずです。

牧草地の牛たちは、土手の曲がり角をまわって小屋に帰るころ、夕闇が押し寄せ、恋も知らない生娘が、ある日とつぜんよそ者がやってきて、彼女をさらっていくようにどこかへ連れていった物語だってあるでしょう。

人間は、物語を語らずにはおられない動物です。

彼女たちの恋の行方も、きっとどこかに残そうとしていたはずです。ぼくはそういう記憶を描きたいと思っているんです。想像だけでもいい、物語らずにはおられないのです。でも、みんな忘却してしまい、歴史の回路は遮断され、航路標識のブイみたいに、意味もなく朽ち果てたまま取り残され、道のわきの草むらに、ひっそりといまも転がっているかもしれません。

そのむかし、いってみれば北竜は、まだまだ歴史の見える村でした。その痕跡は、あちこちに点在していたはずです。

北海道は、はるか6万年のむかしから、アジア大陸と陸つづきだったころ、恐竜たちがやってきたように、北海道の地に流れついていた人びとがいてもおかしくありません。現に、歴史が浅い、アメリカでさえも、ネイティブ・アメリカンが1万年もむかしから住みついていたというりっぱな口承史(口伝による物語史)があります。

北海道に、ネイティブ和人がいても、けっしておかしくはありません。そういう北海道の、ずっとずっとむかしの地を、われわれのはるかむかしの先祖は、この未踏の地を開拓し、書きことばなきネットワーク社会が形成されていたはずです。恐竜しかいなかったという説には、ぼくはどうしても納得できないのです。もしかしたら、北竜町の地の下深くに、祖先の骨が累々と残っているかも知れません。

数年前、アメリカ・サウスダコタ州で、化石ハンターのヘンドリックソン女史によって、6500万年まえの恐竜としては過去最大のサンプル「Sueスー」の化石が発見されました。もうだいぶ前になりますが。スーの頭は、完全なかたちで見つかり、オークションにかけられて、なんと30億ドルという桁外れの値段がつき、話題となりました。

化石までが商売の対象になるアメリカは、ちょっと考えられませんけれど、土地を所有する地主によるオークションと聞いています。不動産がオークションの対象になったというはじめての例です。アメリカでは化石は不動産と見なされるようです。ふしぎです。

 ――そんな村であることなんか、ちっとも考えなかった子どもたちは、泳ぎながら、過ぎていく夏は、あっという間に過ぎていくことだけはちゃんと知っていました。ただ、いまは懐かしむだけです。