「ねぇ、補聴器なおして」



今朝、事務所でコーヒーを飲んだ。

香味焙煎のコーヒーは、やはりうまい。

すると、Hママ(77歳)がやってきた。――通販で補聴器を買ったけれど、どうすれば使えるようになるのか、見てほしいという。

スイッチのON・OFFの切り替え、低音・高音域の調整、電池の入れ方など細かい取扱説明書がついている。

それを読みながらママに説明した。説明しても、補聴器自体が小さいので、そこに書かれた文字があまりにも小さくて、ママには読めそうにない。虫眼鏡で読まないとダメだろう。

仕方がないので、自分ですこし調節してみた。

「きのう、5時半すぎにきたんだけど、事務所は閉まってたわね。……どこかに出かけたの?」という。

「ぼくの勤務は5時までです。あとはぼくの自由ですよ。……まあ、きのうはヨーコと外出して、食事をしてきました。帰ってきたのは8時近かったですよ」

「どこへ出かけたの?」ときく。

「草加です。マルイの8階。きのうは《黒酢あん》という料理を食べてきました。鶏肉が入っているやつ。うまかったですよ」

補聴器の説明書を読みながら、そんな話をしていた。

「この補聴器、いくらしました?」

「左右で、1万円。ふつう、3万円とか4万円とかするでしょう。安かったからテレビショッピングで買ったのよ」という。――さあ、できた。

 ママの耳にセットしてみた。

「テレビの音を聴いてみて、……ママ、どう?」

ママはしばらく黙って聴いていたが、よく分からないという。

「ママ、右側の補聴器は?」

「あるよ、部屋に置いてきました」という。

「ママは、どっちの耳が聞こえないの?」

「どっち? ……どっちかしら?」という。

「ママは電話をするとき、受話器は、どっちの耳で聞くの?」

「受話器? ……そうね、左の耳だったり、右の耳だったり、……そうね、両方ともするわね」という。

 どっちかが不自由ならば、よく聞こえるほうの耳に受話器を当てるはずだが、ママはそうでないという。

 それがないというのは、ママの場合、両方とも悪いのかも知れない。

「補聴器は、両方ともするといいかも知れないよ。……ママは左右、おなじぐらい不自由らしいね」

「そうなんだ。ははははっ、……だったら、そうするわ」といって、淹れたての香味焙煎のコーヒーを飲んだ。

「このコーヒー、おいしいわね。……しばらくこのコーヒー、飲んでないわね」という。ママの好きなコーヒーは、砂糖を2本も入れる。中味はほとんど砂糖だ。

「ママ、日本に喫茶店ができたのは、いつごろかご存じですか?」

「喫茶店? そうね」

「日本初の本格コーヒー。……」

「さあ、若槻礼次郎の時代かしら?」という。

「なんですか、その若槻礼次郎というのは。……彼は第2次大戦前の、昭和恐慌のころの人ですね。そのころの総理大臣でしょ?」

「首相になったのは、いつころだったかしら? シナ事変のあとかしら? ところで、若槻礼次郎は、島根県の生まれで、わたしのおじいさんとおなじ年なのよ。それで覚えているのよ」という。

 古い話だ。

1888年(明治21年)4月13日、日本初の本格珈琲店が東京・下谷にできた、とある本には書かれている。

「へぇ、……明治21年なの。わたしは、まだ生まれていないわね」

「ママは、昭和6年ですよね。……」

「そうよ。……その昭和6年には、若槻礼次郎の第2次内閣が成立して総理になったわ。首相の浜口雄幸が、きゅうに病気で倒れちゃって、総辞職して、……」という。

「これもまた、古い話だなあ」というと、

「古い話よねぇ……」といってママも笑った。ママはむかし、京都の先斗町でクラブを経営していた。70歳ぐらいまでそこで仕事をしていた。だから、いまもおしゃれだ。

明治21年に珈琲館ができたというのは、ほんとうだ。

店の名前は「可否茶館」といった。

「可否茶」と書いてコーヒーと読ませたのだろう。カナで書けば「カウヒイ」と書く。そのときの宣伝のことばが残っている。

「欧米の華麗に我国の優美を加減し、此処に商ふ珈琲なり。珈琲の美味なる、思はず鰓えらを置き忘れん事、疑いなし」

「鰓を忘れる」とは、いまは聞かない喩えだが、「ほっぺたが落ちる」ということだろう。ともかく、うまそうな香りただよう広告である。

この店ではコーヒーだけでなく、国内外の新聞や雑誌をそろえ、知的で自由な談論風発の場を提供する洋館だったようだ。

ロンドンのサロンにも似た雰囲気だったかも知れない。

それで思い出したが、「コーヒー・カンタータ」という曲がある。

これはバッハの曲だけれど、資料によれば1732年ごろに作曲している。当時流行したコーヒー熱を風刺して書かれた曲らしい。一般には俗に「コーヒー・カンタータ」と呼ばれるようになったと書かれている。

「コーヒー・カンタータ? 聴いたことないわ」とママはいう。バッハの曲ですよというと、

「バッハって、音楽家のバッハ?」

「そうですよ。ヨハン・セバスチャン・バッハ。……彼のカンタータはたくさんあるよ。フォイエル・バッハは哲学者。……」

「そんなの知らない。――でも、この人は知ってる」といって、そばにあった新聞の切り抜き記事を引き寄せた。

 佐藤忠男さんの顔写真だった。

映画評論家の佐藤忠男さん(78歳)である。彼が、新聞の「私だけのふるさと」という欄に出ていた。

彼は1930年に新潟県の信濃川左岸の河口近くで生まれている。そこは造船所や小さな町工場が集まる下町だったらしい。父親は漁船の船員屋をしていたという。

この「船員屋」というのは、船員が寝泊りする簡易旅館のようなものだろうか?

「ママ、知らない?」

「船員屋? 聞いたことないわね。雑魚寝して、ひと晩泊まる安宿という感じかしら?」

「雑魚寝ねぇ、……。松本清張さんの小説に出てくる」

「なんていう小説?」

「短編ですよ。……佐藤忠男さんはまだ元気そうだね。淀川長治さんが亡くなって、いまでは、双葉十三郎さんと佐藤忠男さんしかいなくなりましたね」

佐藤忠男さんは子供のころ、2軒の貸し本屋をすべて読破したという。

むかしは貸し本屋というのが繁盛したらしい。――自分がうまれた北海道の北竜村にはそんなものはない。貸し本屋はおろか、映画館も、写真館もない。何があったのかといえば、郵便局と金物屋と、農協の店があったきりである。その「やわら」市街は小さな町だ。――ママは出て行ったかと思うと、またやってきてパンを置いて行った。

「すこしだけど、食べて。……」という。



京都の鴨川を写した写真家の写真がある。

下鴨神社のそばと書かれている。――ああ、あそこには中原中也が住んでいたなと思った。

中原中也は、山口県山口市湯田温泉で医師の長男として生まれている。神童と呼ばれたが、文学にのめり込み、中学を落第した。世間体を恐れた父は、京都へ転校させた。

彼は山口から出てきて、京都の鴨川近くの「スペイン窓のある家」に住んだ。そこで知り合った3つ年上の長谷川泰子と同棲した。

その家は、賀茂大橋を渡ったすぐの家というから、鴨川からほんの30メートルぐらいの距離にあるらしい。1923年(大正12年)の暮れ、立命館中学3年の中原中也が、泰子と新しい住みかを見つけていっしょに住んだ家だ。

彼女は女優をしていたが、撮影現場で、同僚とケンカして部屋を飛び出した。いくところがなくて、鴨川の畔ほとりでたたずんでいたら、中也がやってきた。泰子は、彼の詩を読んだことがある。意味は分からなかったが、ただすごく勢いのある詩だった。

「おもしろいじゃないの」といったのがはじまりだった。

「どうしたの?」と、中也はきく。

 泰子は元気なく、しょんぼり鴨川の流れを見ている。

「わたし、行くところがないの、……」というと、中也は「ぼくの家にくればいいよ」といって誘ってくれた。

のちに泰子は、このときのことを振り返って、「婦人公論」に原稿を書き、「京都の暮らしはふたりがいちばん静かな生活を味わったときでした」と書いている。

中原中也と長谷川泰子の話は、この日記にも詳しく書いたことがある。

中也は、当時話題になっていた高橋新吉の「ダダイスト新吉の詩」という詩集を読んでいた。中也が本格的に詩を書きはじめたのは、この本を読んでからだったという。詩人の富永太郎の影響でフランス象徴派の詩に傾倒し、1934年にはじめての詩集「山羊(やぎ)の歌」を出版した。

前年には、遠縁の上野孝子と結婚した。

亡くなった翌年の1938年に「在りし日の歌」が出版された。


泰子は広島生まれで、広島女学校を出ると、女優を志して19歳で家を出た。若いころの泰子は、このときに撮った写真が1枚あるだけである。なかなかの美人である。

やがて彼女は、関東大震災に遭って京都へ逃れた。そこで中原中也と出会い、1925年に中也と別れ、小林秀雄と同棲したが、1928年に離別。1936年に富豪の中垣竹之助と結婚したが、その後、夫は亡くなる。――泰子はさまざまな男のもとを渡りついだが、いつも前向きで、昭和の終わりまでひとり生きぬいた。


昼、30分仮眠した。

ヨーコはきょうから気分を変えた。夏の透けすけルックのコスチュームから秋の装いに替えた。いっしょに仮眠した。子供のころ、子守りのナターシャに添い寝をされた記憶が甦る。


夏の午後こめ俵たわらの部屋で添い寝する

ナターシャはいまどこにいる?


ナターシャのでっかいお尻のすぐそばで

猫もいっしょにすやすや添い寝。


北国の夏の午後には鉄腐り、

土壌の色と見まがうばかり。


堰堤(えんていの放水路のどじょう生き生きと、

笊にすくわれ町に売りゆく。


たわむれに女の子のズロースに、

どじょうを入れて泣かせたむかし。


ナターシャも「なにやってるの!」とやってきて、

竹ぼうきでわれを打ちをり。


女の子泣き止んでから笑う堰堤に、

大人たちもやってきてどじょうを掬う。


平成22年7月23日、H子ママは、亡くなられた。がんが身体じゅうに転移して、入院2ヶ月目に、静かに天に召された。シャンソンを歌わせたら、ピカいちだった。ご冥福をお祈りする。