【伝統】の定義を考える。

 

過去の遺物、滅びた文明、過ぎ去りし日々(歴史)や栄光、、、どれもそれだけでは、伝統ではない。

新しい、変化していく時代に対して、しなやかに、柔軟に対応し、適応していくことで、歴史(過去)は伝統に変えていくことができる。

伝統をもち、継承していくには、言葉をかえると、まだ見ぬ未来に対しての飽くなき変化への挑戦が求められる。

歴史(過去)への敬意と、変化に対する意欲。そのバランス感覚が重要である。

 

そして、経験で問われるのは、量ではなく、質である。

 

長く、同じ場所にいると、その大切なバランス感覚を失い、過去や歴史、自分の経験(量)に対しての敬意を過度に求めるようになる。

経験は、量ではなく、質が重要であるのに。

えてして、それは個人のエゴであり、組織の伝統を紡ぐことにつながるわけではない。

 

常に自分に問いかけている。

この決断は、エゴではないか?(私心なかりしか?)

組織の伝統を紡ぐことにつながっているか?

みんなが大切にしているものを、自分の手のひらにいれて、自分のポッケにしまおうとしてないか?

 

追伸

こんなこと考えてたら寝れんようなった。

しらんけど。

 

 

大人になればなるほど、アンラーン(学習棄却)が難しくなる、がそれがより重要になると思ってる。

自分の人生を振り返ると、なんどか、アンラーンできた機会がおもいだされる。

 

サッカー選手を引退してから、何をして生きていけば良いかわからずに途方に暮れる時間をすごしながら、とにかく頼まれる仕事、目の前にある仕事は好き嫌い問わずなんでも取り組んできた。だいたいが、「元サッカー選手」「元浦和レッズの選手」ということでいただいた仕事だった。そんな期間が何年あったかなあ。

そのなかで、サッカースクールのイベントを企画し、運営し、めちゃ大変な思いをしながら、多くの人を巻き込んで参加してもらって無事にイベントが終わり、一組の親子が「楽しかったね」という言葉を交わしながら帰って行く後ろ姿をみて、感激したことを思い出す。サッカーをプレーしたり、元サッカー選手として指導する以外の仕事で、やりがいを感じた出来事だった。仕事するってこういうことなんだって実感できた。

”(元)サッカー選手”という鎧を、一つ脱ぐことができた機会だったと思う。

 

もう一つは、社会人向けの講座のファシリテーターとして仕事をはじめて、2年くらい経ったとき。

大学の教職も長くやっていて、人に何かを伝えるという仕事は慣れていた。

あるミーティングで、「おまえのファシリは、30点だよ」って言われたとき、頭を10キロくらいの鉄アレイで、ガ〜〜〜ンって殴られた気分になった。実際にそうだとおもったし、はっとさせられた。

そこから、大人が学ぶということについて、より深く考えるようになったし、インプットも大量にしたし、ただ、講義で前にたって話すだけでなく、準備、コースデザイン、効果的なフィードバック等について学び実践するようになった。学びを提供する側が、学んでなくてどうすんねん???って気がついた。
それまでは、言い訳たくさんで、やらされている仕事だったが、自分事としてその仕事に取り組むことで、仕事がより楽しくやりがいがあるものになった。

 

ほかにもいくつかあるけど、こうした機会がもてたのも、おそらく、とにかくいろいろなことにチャレンジし続けてきたからだとおもう。

ほんまにいろいろやってきた。

寄り道だらけやった。

失敗だらけやった。

でも、結果、いまの仕事と人生にめちゃくちゃ役に立ってることは間違いない。

 

寄り道してええんやとおもう。できるだけ若い内に、たくさん。

 

しらんけど。。。。

 

「ガチ対話」のわかりやすく、これだ〜〜〜っていう説明がみつかったから引用してみる。

 

「現実に向き合うなかで直感した本質を錬磨するためには、同調圧力を避け、みなが知恵をもちよって、徹底的に対話しなければならない。共通善の実現のためには、異質な主観、思い、意見を持つ他者と、自己のエゴを超えた無我の境地忖度も妥協もない、命がけの熟議をしなければ、善後策は見えてこない」

(野性の経営 野仲郁次郎著 より引用)

 

【命がけの熟議】できてますか???(自分への問い)

読書会で、「データでわかる2030年地球のすがた」夫馬賢治著 を題材としてみんなで話した。

 

読書会では、一人で本を読むよりも、いろんな気づきをもらえる。

 

なんとなく、今の社会と経済の延長で8年後とかかんがえてるひとが大多数かもと思うけど、気候も人口もGDPも、食糧事情や水の供給すらも大きく変わることが予想される。そんななか、現在の延長で考えていては、目指すべきところとはまったく違う着地点にたどり着いてしまうという危機感を持つ。

 

そのほかにも、、、

SDGsのバッジつけてるけど、本当に理解して、アクションとれているか?

いままでのように、媒体を中心とした広告型セールスで良いのか?

Jクラブの社会に対する発進力ってどれほどパワフルなのか?

REDSが目指す姿(Big Picture)は?

REDSが人々にとってのライフラインになるためには?

などなど

 

「ガス・水道・電気・浦和レッズ」にはめちゃ笑った。ええや〜〜ん〜〜〜って。

 

個人の想いや意志と、組織やある意味公的な立場としての想いや意志。

びたって、一致してればこんな楽なことないけど、やっぱりなかなかそうはいかんし。

 

こういうときに、読書を通じた著作引用はめっちゃ役に立つ。

 

”いまある世界は、偶然このように出来上がっているわけではありません。どこかで誰かが行った意思決定の累積によって今の世界の風景は描かれているのです。それと同じように、未来の世界の景色は、今この瞬間から未来までの間に行われる人々の営みによって決定されることになります。であれば本当に考えなければならないのは、「未来はどうなりますか?」という問いではなく、「未来をどうしたいか?」という問いであるべきでしょう。”

”未来というものは、予測するよりは、むしろそれをビジョンとして思い描くべきモノだ”

(アラン・ケイ ”A personal computer for children of all age" ・「武器になる哲学」山口周著より引用)

 

ビジョン描いて、その実現に必死になって進めば、それが未来を創り出す!(勝手な自己解釈)

 

もとい、、、

ビジョンを描いて、多くの人を巻き込んで、その実現にむけて力を合わせて必死になって進めば、それが未来を創り出す!(更なる勝手な自己解釈)

 

ここのところ、こんなこと考えてる。

人をポストにつけるだけじゃなく、そこで、いかに多くの人を巻き込んで力のベクトルを合わせていけるか?

 

(自戒もこめて)、クラブ経営、強化責任者の仕事が問われてる。

 

 

職場で、読書会という形で、自主勉強会をスタートしてみた。

目的は、スタッフ達が、自分の力で学ぶ機会を創出することと、一緒に学ぶコミュニティをつくること。

 

機会は、待っていて与えられるものではない。

これからの時代は、自分の手と足を動かし、頭を働かせ、アクションを起こしていく必要がある。

そういうスタッフがふえれば、組織自体もいまよりももっと「学習できる」体質に変わっていくと思う。

 

読書会は、相互理解の深まりも得られるというメリットもある。

実際、やってみて、知的刺激を得られたし、なによりもいろんな個性がみえて、楽しい時間となった。

 

継続は力なり

 

まずは続けてみる。

札幌戦での事象(ロスタイム:相手チームが蹴り出したボールを返す返さない問題)について。

 

いろいろな意見もあるし、少し整理させてもらいたい。

 

【そもそものルール】

競技規則の主審の職務等が規定されている第5条において
・競技者の負傷が軽い場合、ボールがアウトオブプレーになるまでプレーを続けさせる。


・競技者が重傷を負った場合、プレーを停止し、確実にその競技者を競技のフィールドから退出させる。

 

→ 重傷・軽傷の判断が審判の主観にゆだねられているので、ゲームを止める止めないについては、審判の判断がすべて。

 

【サッカーにおける紳士協定(慣習)的な不文律】

痛んでいる選手がいて、審判が試合を止めてない場合、選手達が自主的にボールを蹴り出して意図的に試合を止める自由はある。その後は、ボールを保持していたチームへボールを返すことが慣習であり、マナーとされている。

 

以上がルールであり、慣習的なマナー。

 

一方で、その上に、個別の様々な事象、状況が関与してくるので、ルールとマナーだけでは判断も評価もできない。

チームの置かれている立場・状況

試合の流れ

審判の判定に対するストレス(これはいつでも多かれすくなかれあるもの)

時間を稼ぎたいチームと早く進めたいチームとの駆け引き

等々

 

こうしたなかで、現場ではベンチも選手も自分たちで考え、時間が与えられない中で決断し行動している。

相手選手が脚をつっているなか(しかし倒れ込んでいるわけでもなく、その後ピッチから出ることもなかった)で、相手チームが蹴り出したボールを返さずに試合をはじめたことについては理解、そして納得できる。そもそも、フェアなプレーと姿勢をもとめるのであれば、求める側もフェアなプレーと姿勢で試合に取り組まなければならないと思う(返報性の法則)。

はたしてこの試合がどうだったか?

一方で、その結果、もし勝てたとして、気持ちよく胸をはって勝ち点3を手にできるかと言われれば、意見はわかれるだろう。

 

その後のリスタートで、ボールを返させたベンチも含めたチームの判断はすばらしかったと思う。

あの状況(相手ベンチの)とスタジアムの雰囲気からは、他の選択はなかったと言えるし、最善の判断だったと言える。

西川選手が相手ベンチをなだめにいったことも、彼の立場ならではであり、彼にしかできないすばらしいリーダーシップとゲームへの貢献だった。

(ゲームを壊してほしくないという強いメッセージに私には受け取れた。)

 

勝ちにこだわる姿勢は、間違いなく、個々の選手もチームとしてももてている。

一方で、勝ち負けとは違う軸で、大切にしなければならないこともある。

 

大切にしなければならないことを失わずに、かつ、勝ち続けることができる、偉大なチームにならなければならないと思う。

 

追伸

選手として、チームとして、クラブとしてのみならず、リーグとして考えるべき課題も含まれるとおもう。

良いチーム(Good Team):どんなチームにでも勝てるチーム

偉大なチーム(Great Team):どんなチームにも、どんな環境下でも負けないチーム

 

7節を終えて、2勝1分け4敗。

 

去年に比べれば、格段に良い(Better)チームになっている。

しかし、まだ偉大なチームにはなれていない。

 

やるべき事はシンプルに二つ。

日々のトレーニングの質(基準・スタンダード)を上げ続けること。

日々のチーム内の対話の質を上げていくこと。

 

そして、相変わらず気になることは一つ。

勝ったあとの、チームやクラブを取り巻く空気の緩み。

プロだから結果はもちろん大事。

やけど、チームの成長課程にあるいまはプロセスもめちゃ大事。

こないだの4−1の勝利に満足してええんか??

倍は得点できた。

その1点に、なんど泣いてきたか??

勝ったからオッケーちゃうで。

SNS等でたくさんのお祝いメッセージ、ありがとうございます。例年によって、まとめてのお礼ということで失礼します(ほんと失礼 ごめんなさい)。

改めて、本当にたくさんのひとに出会い、仕事をし、飲んで笑い、そうした出会いと人があっての今の自分だということをしみじみと実感する毎日であります。

人生に無駄な事や出会い、経験なんてないと、本気で思っています。

 

50を過ぎて(51になりまして)。

おそらく、ばりばりと仕事ができる時間は徐々に限られてきていると感じてます。10年なのか?15年なのか?わからんけど。

その自分に与えられている時間と、自分がやりたい事、やることを期待されている事、やらなければならない事を考えると、焦りしかありません。時間がない。

最近の読書に割ける時間とスピードを考えても、死ぬまでに、後何冊読了できるのか?(おそらく、せいぜい数百冊)

どれくらい、脳みそから煙をだすくらいフル回転させられるのか?

あと何回くらい、絶望の淵まで追い込まれて、そこから盛り返す経験できるのか?

 

やばいやばい!時間がない。

 

楽しみしかないぜ。

 

浦和レッズが創立30年の記念日を迎えた。

 

あらためて、クラブとしてどこへ向かうのか、考える。

 

 

外国籍選手獲得活動の際につかったスライドの1枚。こうした野心に共感して選手が来てくれている。

 

みんなで本気で考えてみませんか??

 

10th March 2022 was the 30th anniversary day for Urawa Red Diamonds FC.
It is good timing to think again about its vision and what to be as a professional football club in the future.

Can we think and create its future together??