父の3ヶ月 | 父の膵臓ガン闘病記ときどき登山

父の膵臓ガン闘病記ときどき登山

膵臓ガンで闘病中の父の事など日々の事を書いていきます
登山とカメラが好きです 載せている写真は自分で撮ったものがほとんどですが 私が写っている写真は旦那様が撮ったものです




ある日突然父に言われた
「健康診断で腸に異常がみつかって精密検査を受けることになった」

それを聞いて14年前の事を思い出した
14年前 母が甲状腺ガンを患った
どんどん痩せていく母を心配して検査を勧めるも どの病院でも診断は更年期ですね でした
その当時 大学病院の循環器内科に勤務していた姉が うちで検査したら?というので受診すると やはり異常なし…でもその時の担当医が
「なんとなく喉が腫れているようだから 診てみましょう」
その結果ガンがみつかり 即手術
幸いにも甲状腺ガンは転移の少ないガンで 安心して手術をしました
しかし その日の夜に かなり珍しい症例で 喉の血管が破裂して呼吸困難になり 緊急手術 生死の境を彷徨い長期入院となりました
あの頃は 母が亡くなるかもしれない…と思うと足が震え 毎日が辛かった
そして 今 父が病に…
祖父や叔父叔母をガンで亡くしている私
母は両親を幼くして亡くしているので 母の兄が親代わりで私が小さい時から凄く可愛がってくれていて その叔父が肺ガンで亡くなる少し前に 痩せた自分を見て欲しくない 元気だった自分を覚えていて欲しいと言って見舞いを断られた事があります
未だに葬式の日に 叔父があれほど見て欲しくない と言った姿を見てしまった事を後悔しています
ガンは人の外見を変えてしまう…
その恐ろしいガンに 父もか…

検査結果を1人で聞きに行った父
なかなか連絡をくれなくて 心配していると 午後になって
「ダメだった 大腸じゃなくて膵臓だった」
それからは あっという間の出来事でした
入院して 先ずは点滴での抗がん剤を約2カ月間 発見時に2センチのガンを なるべく小さくしてからの手術という事になりました
この頃の父は 本当に病人?という程に元気で毎日 病院の階段を上ったり下りたり 見舞いに行っても 大丈夫だから!と元気そのものでした

ただ 抗がん剤の副作用で 何を食べても甘く感じる というのがあって
「食欲が落ちて体重は4キロ 落ちたよ」と笑っていました
私の両親は2人暮らしでミニチュアダックスを飼っているんですが 物凄く溺愛していて 2時間以上は留守番をさせない…という程です
なので 病院に行っても早く帰れ早く帰れ 小太郎が可愛いそうだろ!が口癖でした

ただ 眠れない 家に帰りたいと行って たびたび外泊はしていました
そして病院食は不味いといって たびたび売店で買い食いを。
髪が抜けるという副作用はなく ただただ味覚障害の甘く感じるというのだけがありました
なるべく食べれる物を!と思って差し入れをしましたが 喜んだのは 梅しば と ミカンの缶詰でした
家の父は酒を一切飲まず甘いものが何より好き そんな父も 常に口の中が甘いという状況には さすがに嫌になったようです

この味覚障害は 手術後の今も続いています

そして 手術3日前
手術の説明と承諾書にサインをするために両親と私で医師に会いました
「Tさん 膵臓ガンは ガンの王様です
膵臓ガンは根治の難しいガンです なぜなら発見するのが難しいうえに リンパや血管を通って他の臓器に転移しやすいので 目に見えるガンがある時点で細胞単位でガンが移動している場合があります
なので前は手術をしても3年生存率は10%位でした でも今は 手術前に抗がん剤を使用することによって3年生存率も30%位まで上がっています

手術も かなり大掛かりなものになります 術後の合併症もありますが 乗り越えていきましょう

1番心配な事は 膵臓で作られる膵液は いろんな物を溶かす作用があり この膵液があるからこそ 人間は肉や魚が食べられるんですが これが体内に流れると 自分の臓器まで溶かしてしまいます 」

父の 手術以外の方法はないんですか? の問いかけには ありません と言われました
とにかく膵臓ガンは難しいガンです 手術が出来る人は2割から3割しかいません
ほとんどの方が手遅れの状態でみつかります

偶然ですが ずっと髪を切りに来てくれている同級生のお母さんも家の父より2カ月前に膵臓ガンと分かりました 手術は出来ません 抗がん剤も12回しか出来ないと言われ 今5回目の抗がん剤をやっています

最初 ガンなら切ったら治るでしょ?と思っていた私…でも違うんです
先生に 質問は?と聞かれても 何を聞いたらいいのかも分からず 言われるままに承諾書にサインをし あっという間に時間は過ぎました

そして2日後
朝8時半からの手術
少し早めに病室に行くと 不安そうな父
すると 執刀してくれる教授が来てくださいました

「Tさん体調は 大丈夫?
そうそう 言っておかなきゃいけないんだけど 今日は神経まで剥く手術になるから 難治性の下痢になるからね」
???難治性の下痢?
それって一時的に下痢になるってこと?位の考えでした
でも 後で調べたら 消化器系の手術では食物の吸収が術後に きちんと出来ずに食べてもすぐに出てしまい 栄養を吸収出来ない状態になる という事が分かりました

長い1日 手術は 9時間の予定でした

外は抜けるような青空で 病室からは日光連山が見えていました
予定では夕方6時頃には終わるはず でも一向に呼ばれません
不安がどんどん大きくなります
先生に呼ばれたのは7時半すぎ まず 執刀医の教授から
「Tさん 内臓脂肪が多くて大変な手術でした 思ったよりも症状が進んでいて1番太い血管に浸潤していました これが取り出した臓器です 手袋をして触ってください」
目の前に さっきまで父の体内にあった臓器がおかれました
いろいろ言われても 思ったよりも症状が進んでいた…という言葉が頭の中にこびりついていて ろくに質問も出来ずにいると
「今 縫合の処置をしているので あと2時間位お待ちください」
と言われICUの待合で母と2人 ただ黙って座っていました
そして9時近くに 今度は主治医から呼ばれ
「先ほど 教授から説明があったと思いますが 大変な手術でした 膵臓 胆嚢 腸 広範囲に切除しました 膵臓の縫合状態が不安定なので 膵液の漏れが心配されます 状態の説明もあったと思いますが この症例だと ほぼ確実に転移するでしょう」

転移?転移???今 手術したのに?
転移??
頭の中が真っ白…
「どの位で転移するんですか?」
「早い人は3カ月ですが 大抵は1年以内です まだ麻酔が覚めないので もう少しお待ちください」
その間 母と2人
「お父さんは 手術すれば大丈夫って思ってる だから確実に転移するって言われた事は黙っていよう そうじゃなきゃ 元気になろうっていう気力さえなくしてしまうから」
そんな話をしました
そしてスタッフの人が呼びにきて 父に会いました
荒く息を吐きながら苦しそうにしている父を見ているだけで涙が出そうになるのを必死で堪えて
「お疲れ様 明日 また来るからね」
それだけ言うのが精一杯でした
帰り道
「なるようにしかならない!頑張ろう」
母と2人 前だけ向いて家に帰りました

次の日 個室に移動した父に会いに行くと
「こんなはずじゃなかった」
そう呟く父
この日から3日間 父が口をきいたのはこれだけです
消化器系の手術は しばらくは水も飲めません しきりに口の渇きを訴えるので 湿らせたガーゼを口に挟んで渇きを抑えました
痛み止めは4時間しか効かず 微熱がでて痛い痛いと本当に辛そうでした
病室にいる時は なるべく普通に普通にと
返事は期待せずに たわいない話をして毎日帰りの車の中で泣く…を繰り返す日々

一週間がたちました
手術前は犬を心配して私達を追い返していたのに
この一週間は 一度も小太郎の事を口にせず 5日目に家に帰ろうとした 母に
「居てくれ 寂しい」
と言った父
それは 私達に初めて見せた父の弱音でした

このころになると 徐々に話しもするようになりました
私にも 少し心に余裕が出てきて 膵臓ガンについて いろいろ調べるようになりました
本当に これでよかったのか これから何をしてあげられるのか?
ただ漠然と手術しなきゃダメだと言われ手術をしたけれど 手術で痛い思いをして でも直ぐに転移したら?
今の弱った身体では 何の治療も出来ないのでは?
果たして手術して 本当によかったのだろうか?
食べるものは制限され 痛みと下痢と味覚障害…これからどうなるんだろう…

大好きな父には 1日でも長く生きて欲しい!
そう思う気持ちと 同時に 苦しんで苦しんで痩せていく父は見たくない…
そんな気持ちのせめぎあい…

一週間を過ぎても ほとんど口をきかない父でしたが 行きつけのパチンコ屋さんが 1年前に火事になり放置されていたんですが
「取り壊しを始めたよ 新しくなるかもね」と言ったら
嬉しそうに 本当か?と目を輝かせていて
私は パチンコ屋さんには興味がありませんが 父の為にも早く再建して欲しい!と思いました

だんだんと口を聞くようになった父は
「もう手術は したくない」
「延命治療もしないでくれ」そんなマイナスのことばかり言い
母が帰ろうとすると
「そうやって俺を見捨てるのか」と母を責め 側にいて欲しいと言うくせに 冷たい態度をとる 愛すべきワガママ星人になりました

8日目
「小太郎もM(姉)の家に預けられるようになったし 退院したら2人で どこかに行きないなぁ」なんていう前向き発言が出てきました
父は70まで働き 小太郎が可愛そうだから と言って外食に誘っても出かけない人でしたので

退院したら 絶対に 何処かに連れていく!これが今の私の夢です

12日目
前の日に主治医から話があるから娘さんにも聞いて欲しい と母が言われる
何の話かも分からず 悪い話だったらどうしよう…とビクビクするものの なかなか先生の手があかず…
結局2日後 不安だけが どんどん大きくなる
この頃 父も かなり神経質になっていて 私達の態度や言葉にも敏感になる
悪い話なら 私達が先ず聞いてから!と思っていたので病室を出るにも神経を使う…
お昼になって
父が 「2人で何か食べてくれば あっ 俺が食べてくるから 代わりに寝ててくれよ」なんて冗談を言いました
ワガママ星人でもある父は まぁ俺の苦しみなんて分からないだろうな…なんてイヤミもチクリといいましたが…
食べに行く口実で 母と病室を出ると ちょうど先生の手が空いて話を聞けることになりました
担当医とは 違う先生でしたが
別室に呼ばれて
「小丸1さん 今日は今の状態の説明をします
今は合併症が2つおきています
一つは膵液の漏れ これは徐々に収まりつつあります もう一つは胆汁の漏れです これについては 2週間したら お腹の中の管を調整して 腸に排泄できるようにしますが それでもダメな場合は再手術になります」
私が 「先生 胆汁の漏れが命にかかわるという事はないんですか?今の状態は 悪い方向に向いているって事ではないんですか?」
先生 「命にかかわるという事はありません 状態としては 良くも悪くも なっていなくて しいていうなら横ばいです」
そこまで聞いて 母と2人 悪い話を聞かされるのかと思っていたので ホッとして涙が出てしまいました
そういう話なら 本人にもしてほしい というと 先生は病室で 今の話を 初めてするかのように もう一度優しく話してくださいました

本人が1番 今の状態を知りたかったと思います 術後1カ月位で退院出来るだろうと思っていたであろう父
それなのに 12日たっても8本の管に繋がれ微熱が続き 食べ物さえ食べれない…
その状態は さぞや不安だったであろう…
先生の話を聞くと
「先生 俺は負けず嫌いなんだよ 病気には負けないよ 頑張るから」
今迄 後ろ向き発言ばっかりだった父から出た 負けない!の言葉
何気なく病室を出て 嬉しくて涙が止まりませんでした
沢山の管に繋がれていても どんなに痛くても 毎日病室の前の廊下を5周欠かさず歩く父 先生や看護師さんにも 驚かれるほどでした
口ではマイナスのことばかりでも 心の中は生きたい 負けたくない と思っていたであろう父 でも 術後の辛さに なかなか前向きになれなかったのが 経過観察を きちんと聞けて 少し落ちついたのだと思います
父は まだまだ大丈夫!そう思えてホッとしました
管を調整するのは それから4日後に決まり 食べ物は飴ならオッケーがでて 父がキャラメルが食べたいというので先生に聞いたらキャラメルはダメだ…というのでキャラメル味の飴を買っていったら 甘くて食べれない 持ち帰ってくれ と言われる それに苦笑い~
この頃 泊まり込んでいた母も限界になる
父は 夜が寂しいという…
でも 姉に預けていた犬も軽度のヘルニアになり… 初めて 父が小太郎が可哀想だから 泊まらなくていいよ と犬を気遣うようになる
少し余裕が出てきたようだ

術後20日目
管の調整をする 午後2時頃から5時までかかる
麻酔が効かなかったようで 涙を浮かべて かなり辛そう
次の日から
イチゴだのバナナだの のどろっとした飲み物がでるが 食欲もなく不味い…といって口にせず
そして この日から7度から9度の熱が出たり下がったりを繰り返す
日課の廊下を5周も 熱の為に出来ない
そして 最悪のタイミングで 歌舞伎の方が膵臓ガンで亡くなる…
しかし 熱の為に日課の新聞も読めない状態の 今で かえって良かったかも…
改めて 膵臓ガンは恐ろしいと思う…

24日目
相変わらず 熱が高く 蕁麻疹がでる
先生は 身体の中で血液が騒いでいるが 大丈夫です と言う

そして今日
術後26日目
相変わらず管だらけの父 熱も下がらず…
先生は「胆汁は うまく排出されていて いい方向に向かっています」と言いますが
さすがに ずっと熱が下がらず不安がる父
今日は歩く!というので
無理しないでね と言うと 寝たきりにはなりたくない!と言うので 2周だけ歩く

そして 私が売店に行っている間に 母に

「俺は 本当に元気になるんだろうか…」と言ったみたいです……



ある人のブログに ガンとは 周りの人にも伝染する…とあります
ガンが伝染するのではなく ガン患者の周りの家族は 常に電話やメールの音にビクビクし 常に気を張り 精神的な病人になります


ガンという病… もちろん 1番辛いのは患者本人です…
でも その家族や友人 恋人にとっても 本当に辛いものです
わかってあげたい でも わかってあげられない
頑張ってほしい でも 頑張って苦しんではもらいたくない
私達 家族にとっては まだまだ 闘いはこれからです………