一方で教会に残されたノネムはたった一人、どうすればいいのかわからないまま立ち尽くしていました。今日はずっと初めての事ばかりで頭がパンパンになりそうになり、ふらふらともう一度座席に座り込みます。
 自分のピアノが災いをもたらしているかもしれないこと。疫病神と呼ばれていること。神の使いがいること。怪物がいること。それらは本当のことなんだろうか。そういえば自分は何の為にピアノを弾いていたのかすら、朧気で。
「ノネムは迷わなくていいんだよ」
 そんな考え事をしていると、不意に隣から声がしました。ノネムが顔を横に向けると、そこにはアンと同じ、もしくはアンより少し透き通った黒色の髪の人が座っていました。こじんまりとした姿はどこか幼子のようで、けれど表情は大人びていて、ノネムはなんとなく懐かしい気持ちになります。
「ボクは、迷っているの?」
「たぶんね。全部はリロもわかんないけど!」
「リロ?」
「リロってのは名前だよ〜」
「リロ」
「うん!リロ!」
 リロは楽しげに足を揺らしながらケラケラと笑いました。それにつられてノネムは少し頬を緩めます。ほんわりしたリロの雰囲気をノネムはとても気に入りました。
「リロはどうしてここにいるの?」
「ノネムに会いにきたんだ〜」
「ボクに?」
「うん!とある神様に言われてね」
「神、様……?」
 今日、やけに聞く単語にまた出会い、ノネムは首を傾げます。
「リロも神の使いなの?」
 その問いに、リロは嬉しそうに頷きました。
「うん!そうだよ」
「アンも神の使いって言ってたけど、知ってる?」
「ううん、リロはリロ以外の神使いにはここじゃ出会ったことないなぁ」
「そっか……」
 リロは立ち上がるとふわりふわりと歩きます。やがて中央祭壇の前に立つとノネムを誘うように手を伸ばしました。つられてノネムも立ち上がり傍に行くと、リロは頭上にあるステンドグラスを眺めました。
「ねぇノネム。過去のないノネムにできることは、未来を見ることだよ」
 視線をノネムに戻すと、ゆっくりとノネムの額に手をかざします。途端、ノネムの頭の中にひとつの部屋の景色が浮かびました。それはこの教会の聖具室で、アップライトピアノが置いてありました。そして、なぜかそのピアノの前には自分が座っていて楽しげにピアノを弾いているのです。
 やがてその景色が見えなくなり、いつの間にか閉じていた目を開くと、もうリロはどこにもいませんでした。そのままノネムはふらりふらりと歩きだし、初めて来た場所にも関わらずはっきりと目的地へと足を進めます。やがて辿り着いたのは聖具室で、ためらいなく扉を開けると意外にもすんなりそこはノネムを迎え入れたのでした。
 当然のように鎮座するピアノは、まるでノネムを待っていたかのように爛々と輝いているように見えました。吸い寄せられる体に従順にならえば、ノネムはストンとピアノの前に座ります。
 ひとつ。鍵盤を押して鳴った音はノネムの体を駆け巡り、初めての感覚にノネムはとても動揺しました。とても泣きたくなるようなその音はなぜか抱き締めたくなる音で、ノネムは両手を鍵盤の上に置き、いつものようにメロディを奏でます。するすると部屋を埋め尽くす音はやがて教会全体を満たし、村にもほんの少し響き渡りました。
 ノネムはこのピアノと自分が段々と融合していくような感覚を得ていました。いつもの森のピアノを弾く時と同じ、けれどどこか新しい、感覚。それは胸の奥底にある『楽しい』という感情を呼び起こしていて、気づけばノネムは笑っていました。このままこの時間が永遠に続けばいい。そう、思っていました。
 だからノネムは気づかなかったのです。自分がいる部屋にヒビが入り始めていることに。ヒビはやがて大きな音を立てて崩れていきました。崩壊したのは聖具室の一部分の壁のみでノネムには被害はありませんでしたが、綺麗だったはずの聖具室は煙たくなってしまいました。
 勢いよく扉が開きます。開けたのはアンでした。
「やめて!」
 そんな叫びはノネムには届きません。笑ってピアノを弾き続けるノネムを、アンは悪魔のようだと思ってしまいました。震える息を飲み込んで、大きく一歩踏み出します。もう今までのように戸惑っているだけの自分ではダメだと思ったからこそ、踏み出せた一歩でした。そして強くノネムの腕を掴むと、ようやくノネムはハッと現実に意識が戻ります。それと同時にやっとピアノの音が止まり、辺りはひび割れた壁のピキピキという残響だけが鳴っていました。
 掴まれた腕の方を向くと、息切れしたアンがしかめっ面でこちらを見ていて。自分は何かやってしまったのかと考えた瞬間、背後からパラパラと壁が少しだけ崩れる音がしました。振り向いて、崩壊した壁を見て、ノネムは途方に暮れます。
 どうしてこんなことに……?
 次いでやってきたタンタは崩壊した壁を見るや否やノネムを捕らえようと躍起になりました。それを慌てて止めるアン。ノネムはそんな二人の喧騒を聞きながら、足元に落ちていた折り畳みナイフをゆっくりとした動作で拾い、ぼんやりと眺めました。
 どこからやってきたのかわからないナイフは、やけに冷たく、こっそりズボンのポケットにしまえば、得体の知れない感情が胸の中を支配して。
 ノネムは、確かに変わっていく心に恐怖を抱いたのでした。