世の中知らなくていい事ってたくさんある。
「まぁまぁ、一杯」
 作り方の雑なコーヒーの味とか。
「あ、砂糖か。お前砂糖ないと飲めないもんな~」
 甘ったるい砂糖のざらりと溶けていく瞬間とか。
「ミルク、か?」
 何だかんだ私に甘い、こいつの優しさとか。
「なんで?理由が知りたい」
 好きな人の、苦しそうな笑顔とか。

 全部全部、知らなくていいなら知らなくていい事だと思う。

 付き合い始めた当初は楽しくて幸せでしょうがなかった。毎日が大切で堪らなかった。普段はお互い素直になれないけど、それでも言葉の裏で思い合う感じがわかっていて、それが嬉しかった。
 じゃあいつからおかしくなった、なんて明確で。
 目の前のこの人が何一つ悪くないなんて事もわかってるわけで。
 だからこそ、上手く言葉が出てこないし、はやくこの場から逃げたい気持ちでいっぱいだった。

「お前ジンクスとか気にする感じなの」
「ジンクス……」
 そういやそんなものもあったっけ。『付き合っても一ヶ月で別れる』的なやつ?信じてなさすぎてすっかり忘れてた。
「え、まじ?」
「……」
「黙秘か」
 口を開けばボロが出そうだから、縋ってしまいそうだから、頑なに黙り込む。そんな私を見て目の前の彼は色んな表情で悩んでみせた後、衝撃的な発言を投げて寄こした。

「結婚すっか!」

 その言葉に思わず泣きそうになる。それを止めようとグッと鼻に力を入れたら、代わりに口が開いた。
「バカじゃないの……、ほんとバカ」
 一度緩めばそれは閉じる事はなく。
「はぁ?」
「マジでバカ、バカすぎて引く、やばすぎ」
「ちょっ」
「正真正銘のバカ、バカ」
「何回バカっつった?」
 そんなの知らないよ。
 最後の言葉だけはグッと飲み込む。本当に目の前のこの人はどうしようもないバカだ。だけど、だから、好きだ。
 どうして運命は私達に味方してくれないの。
「……そのコーヒー飲み干せたら、追いかけてきてもいいよ」
 ポカンとする相手の顔を最後に、私は家庭科準備室を後にする。ドアを閉めて、そのまま背にして立ち竦む。
 相手は律儀に飲み干そうとしているらしく「うぇっ!」という声が聞こえてきた。

 そう。あんたはそうやってずっとブラックコーヒーなんて飲めなきゃいい。いつも私がこっそりとあんたのコーヒーに砂糖を足してた事、知らなかったんでしょう。コーヒーってそこまで苦くないのな、って初めて飲んだあんたが笑った時、この上なく滑稽だったよ。でも、そんな姿にほんの少しの優越感か独占欲を私は抱いていたの。
 バカなのは、どっちなんだってね。
 スマホを出して走り出す。『パスポートとスーツケース、受け取りに行くよ』という母親からのメッセージに既読をつけ、わかったと返信する。そのまま靴箱に行けば、荷物を家庭科準備室に置き忘れた事に気づき。
 あぁもう。ほんとヤダ。何もかも、上手くいかないじゃん。
 私の名前を呼ぶ声と、ドタバタとうるさい足音。やがてその音達は私の目の前で止まる。私の鞄だけ持ってきたバカにもう何も言葉が思いつかなくて。
「マジ、なんなの……」
「……ごめん」
「別れるってガチ?」
「……」
「俺は嫌なんだけど」

 もう降参だ。私の負け。

「引っ越すんだよね」
「は?……それで別れるって?別に会いに行けば、」
「海外に」
「……は?」
「三年間くらい。全く会えなくなる。それに、生活リズムも合わなくなるよ」
 だから別れよ。
 何回も練習した言葉は今日で何回言えたんだろう。さながら呪いの言葉のようだ。言う度に、心が悲鳴をあげる。
 助けてほしいし、放っておいてほしい。
 すると突然目の前で相手が崩れ落ちたから驚いた。そんなに気分が悪くなったのか、そもそも体調が悪かったのか、パニックになりながら自分もしゃがんで相手の肩を支える。
 見えたのは、安心したような、悔しいような、不思議な笑顔だった。
「んだよ……良かった……」
「え……?」
「俺の事嫌いになったとかでは、ない?」
 問われて、首を縦に振る。そしたら更に感情のわからない笑顔を深めた。やがてガクンと項垂れ、両手で顔を覆ってしまう。
 どうしてらいいのかわからないまましばらく手持ち無沙汰になっていると、ようやく相手がゆっくり顔をあげた。
 私の知らない目をした好きな人。
「三年なんてあっという間でしょ。俺は全然待てるけど、そっちは無理?」
 言葉をゆっくり噛み締めて、理解していく。
「……ほんとに待てる?」
「バカみたいに結婚の提案するくらいには余裕ですかね」
「はぁ~……なるほど」
「何が『なるほど』なんだよ理解出来る言語で喋れよ」
「あ、日本語わからないか」
「あいきゃんとすぴーくじゃぱにーず」
「脳筋」
「はぁー?バカじゃないわ」
「さっき自分でバカって言わなかった?」
「記憶にございません」

 手を取り合って立ち上がる。そのまま柄にもなく手を繋いで家庭科準備室まで行く。道すがら、行く予定の国の話や課題の話をグダグダとしては、くだらないこの時間がずっとずっと続けばいいのにと思った。だって私達はきっと永遠に話し足りない。

「あ、そうだわ、今度コーヒーの淹れ方教えて」

 互いに、まだまだ知りたいことがたくさんあるのだから。