こんにちは。YOKKAです。流れ星


前回の小話に続きまして、今日はそのお話の内容の深掘りをしながら、私なりに今現在理解しているOnenessやCompassionについて考えてみたいと思います。(少し、いやかなり長くなりますがお時間ある方はお付き合いください。昇天)


このブログの冒頭やプロフィールなどでもお伝えしましたが、このブログは今まで30年間ほどの私のスピリチュアリティーの学びの中で、今私がお伝えできることをまとめてみようと始めたものです。そして、今回のこのお話は、妙に私の中で最近引っかかってしまった出来事とそれによる自分自身の中の葛藤からおそらく徒然なく生まれたものだと思ってます。


前回の投稿の最後でもお伝えしましたが、今回の心優しいサラちゃんのお話は子供向けのように思われたかもしれませんが、このお話には私の葛藤から生まれただけあって、かなりシニカルな要素も含まれております。イヒ合格


でも基本的には、これから地球の次元が上がってきてそれに伴い人々の意識も高まっていき、そして自分らしい生き方ができる人がどんどん増えていく中で、サラちゃんがお話の中で経験したことは、今スピリチュアリティに携わっている人々の子供達、そしてお孫さん達が通っていくことが多い道なのかな〜なんて思ったりしてます。そして、このニーナ的な役割をある意味、私達世代のライトワーカーやスターシードの人達が担うべき役割なのかなぁと思うんですよね。


言うなればこのお話は私の祈りでもあるわけです。キラキラ


で、葛藤から生まれたシニカルな部分、ですが。。。にやり。。。そうですね。。。

サラを睨んだサラと年も変わらないぐらいの男の子ですが、あの男の子が言った言葉、「商売の邪魔しないで欲しいんだけど」について、皆さんはどうお考えになりますか?


"商売の邪魔"っていう部分、単にサラがジャムを買いもしないで彼らの前に来てウロウロしてきたからその場で何となく言った言葉だったと思いますか?そう受け取るのが普通かもしれません。


でももし、あのジャムがあの男の子達の家にいる病気がちの母親が作ったもので、本当に美味しいものであり、商品としても優れている上、あの日あの男の子達はあのジャムを売ったお金で夕飯を買わなければいけないような状態だったとしたら。。。どうでしょう???


サラの善意から行ったパンをあげるという行為は、サラの中にどれだけの善意があろうと、全く悪気のかけらなんて無かろうと、エネルギー的に見ると完璧なまでの"商売の邪魔”以外の何物でもないということ、お気づきでしょうか?


エネルギーって基本的に単に流れるものなので、こればかりはエネルギーに作用する物事が起これば、与える側に悪意がなかろうとエネルギーの流れは起こってしまう。。。


そうだとしたら、あの男の子の言い分、完璧に正しくて、サラの浅はかな行動に対してありがた迷惑である、っていう感じの冷たい態度をとってしまったこともある意味納得がいくわけです。


更にもしあの男の子が父親もいない家庭で、病気がちな母親とまだ小さい弟を抱え、生活のため日々頑張っているような子供だとしたら。。。と考えたらどうでしょう? あの男の子は幼いながらも自分達から搾取していく人達に対するエネルギー察知の能力は並外れて優れているかもしれません。ある意味彼を取り巻く厳しい環境が彼をそうさせた、そうせざるを得なかった得なかったという状況で育ったかもしれません。そういう大変な環境に育った子供達って、例えば大学で心理学を勉強した人達が得た知識ベースの能力より、遥かに鋭く人の本質を見抜く力を持っていることが多々あるだろうと私は思っています。そうでなければ、誰かに助けを求める事もできず自死を選んでしまう子供達の数がここまで多くなるはずはないからです。


そういうところまでこれを読む皆さんには考えていただけると嬉しいです。


で、ここからは私の今抱えている葛藤の部分で、ある意味Confessionalみたいな部分でもあるんですが、

皆さんはCompassionってどうやって育まれるものだと思いますか? 


Compassion って日本語では"慈悲"って言葉になるんですが、日本語での慈悲という言葉とCompassionではちょっと使われ方が違うような気がしてます。例えばサラちゃんのパンをあげる行為は慈悲深い行為だとは言えてもCompassion のある行為だとは言えない。。。とかね。。。わかっていただけると嬉しいんですが、ちょっとこれを話し出すと更に長くなるので今回は割愛します。


。。。Compassion とはつまり、自分を相手の立場に置いて物事を見ることが出来ること。。。私は自分に起こったことを振り返っても、自分自身が辛く悲しく大変な思いをしたり、失敗をしたり、人から後ろ指を刺されるような肩身の狭い思いをする立場に立つようなことを経験したりなどなど。。。そういう経験を通してようやく大変な状況に置かれる人達の気持ちをより理解出来るようになった。。。理解できなくても気持ちを察するということが少なくともできるようになったというのがあるんです。例えば、周りをぐるっと見渡してもスピリチュアル的に気付きを得た人々って、大変な病気を経験したり、大切な人を亡くしたり、金銭面ですごく苦労したり、信頼した人から裏切られ傷ついた経験があったり、または虐待やいじめや嫌がらせなどのターゲットであったりというような経験をしてたりしてる人多いですよね。私自身もトランスチャネラーの方のリーディングをアメリカにいた時に受けた時、あなたは自分がそれらを経験することで他人の人の気持ちがわかるようになることを選んでいる。。。って言われたんですよね。


でも、本来ならば、自分らしく幸せになるのに苦労や痛みを選ぶ必要はない訳で、特にこれからの時代はそうなって行くと思うんですよ。そして今後このサラのようないい子達がどんどん増えていくだろう中、いつもニーナのような人生の先生が周りにいるとは限らないわけで、そんな時、人はどこでどうやって人の痛みを理解できるCompassion を学んで行くんだろう。。。って考えたりしてたんです。


。。。でね、今回私がしばらく感じていた葛藤に対して得た答えの中で、あぁ、こうやって学んで行くんだ。。。と感覚的にですが、なんとなくわかったような気がしたんですね。


私は以前からこのCompassionについては結構口うるさく何度となく意見している部分なのですが、去年からのいろいろな不思議事が増えてきたことから今またようやくキチンと自分のスピリチュアリティと向き合おうとしている中、つい最近ね、うーーーん。。。と考え込んでしまうことがあったんです。


どういう内容かというのは、具体的に説明するのは避けようと思いますが、ある人が使ったある言葉、"単語"とその後に続いた言葉からその人が背後に持ってる観念がパッと見えたことがあって、すごくモヤっとした気分になったんです。その人からCompassionが感じられなかったんです。Compassionがあったならその状況でまずその単語は選ばない、選べない、って思ったんですよね。


日本語ってね、言霊っていう素晴らしい文化があるじゃないですか。これはある高次の存在からの情報ですが、日本語は他の言語に比べてテレパシーでコミュニケーションをとっている部分が多い言語なんだそうです。


多分それですね。例えばですね、私は誰かが大変な状況に置かれていたとして、その人に対して「お気の毒」という言葉を使うことはあったとしても「可哀想」という言葉では形容したくない、適切ではないのではないかと思う、っていうのがあるんです。今回私が嫌だなと感じたのもそういう類いのことです。人によってね、一つの言葉に対しての定義って違いますから、一概には言えない部分ではありますが、つまりは自分がその言葉を形容される人の立場に立った時その言葉を自分に対して使われて心地よいかどうかってことですね。


で、私は、っていうと、この人に対して、このお話の中のサラちゃんを睨んで冷たくあしらった男の子のような気持ちになった訳です。


その後、サラが男の子に冷たくされてしくしく泣きながら冷たくした男の子の事を責めるような言い方をしてたシーンありましたよね。


サラちゃんにはねニーナという素晴らしい人生の先生がいましたが、人間ある程度年を重ね、成功を収めたりすると、サラが男の子を返って責める、っていうこのステージで止まってしまうことって私は多々あることだと思うのです。


特にスピリチュアリティに携わってる人たちには特に幾度となくこういった試練、レッスン、リマインダーがあるはずなんです。


簡単に言い換えれば、私は批判をしたくなった、ってことなんですが、今回このお話が頭に浮かんできて、いろいろ考えてて、「私自身もまだまだこのステージにいるんだな。。。」って思ったんですよね。


最近は言葉でハッキリと、っていうメッセージをいただくことが増えてきて、ついこの間また神社を参拝してる時にあることを言われ、私は「えっ凝視びっくりマーク」ってなったんですよ。今の私は自分に出来ることがあるならやろうとは決めているんですが、このメッセージに対しての私の正直な気持ちは「今の私にはやれる自信がない'」というものでした。


。。。というのもですね、私自身がスピリチュアリティを離れたところから見ていた頃、スピリチュアリティの分野で成功してその後闇堕ちした方の例をいくつか目の当たりにしたことがあるんですよ。例えば、極端にひどい例から上げると、皆さんも地下鉄サリン事件を起こしたある宗教団体とかのことは覚えてらっしゃる方も多いとは思います。


私もアメリカにいた時、目の当たりにした時は、本当に「えっ?こんなことあるんだ」って驚きました。人ってホントFragileな生き物なんだな、と思わざるを得ないと言いますか。。。でね、タチが悪いのは、スピリチュアリティの場合ごまかしが出来ない、もしその人の中で驕りやエゴか強くなり、その人自体の波動が下がると、繋がる存在だけでなく、いつも繋がっている存在でも降りてくるメッセージの内容にまでそのエゴが反映されることがあるんです。


でもその反対に、人の方がしっかりとした健全な体と精神状態を維持していれば、へんな霊的存在が来ても影響を受けない、ということになります。


つまりは人の魂のレッスンは繋がっているスピリットの存在うんぬんより、更に大きなところで動いてる、ってことです。


私がすごく残念だったのは、私が知ってる例のいくつかはその人の人生自体最終的には破滅的なものになったものもあったのですが、その人達が実際教えていた内容的には、本当に人の為になっていたものもあっただろう、ってことでした。それがね、「自分は人々を救ってる」なんていう人間のエゴによって気づかないうちに自らを自滅の道へ導いてしまう。。。この”気づかないうちに”っていうのが怖いところなんです。


私がいつも

“実るほど頭を垂れる稲穂かな"

"初心忘るべからず”

ってモットーを掲げてるのはそのせいです。


。。。神様のメッセージに対して、「自信がない」と、自分が思っている、っていうことを認識した時に気づいたんですよ。「あぁ、私もまだまだサラちゃんが文句言ってるステージなんだな。。。私もあの人(私がモヤっとした人)と一緒だな。。。」と。


。。。長くなりましたが、これがね、私の中でのOnenessに対する新しい考え方で、人が苦労や悲しみの出来事を人生に招かことなく人に対するCompassionを育んでいく方法です。


キリストの言葉の中に、


Do not judge others, or you will be judged in the same way you judge them. 

他人を判断してはいけません。さもなければあなたも同じように判断されますよ。


という言葉がありますね。

自分の中にないものは他人の中に確認出来ない。。。これもスピリチュアリティの教えですが、私はこれ、100パーセントその通り、って思ってるんですよ。つまりOnenessって全ての人を分け隔てなく愛すること、なんてよく言われますけど、例えば意地悪してくる人達を容認しろとか、そういうことじゃないですよね。Oneness という一つの大きなエネルギーの中で、他人から学び自分も客観的に省みることが出来るかどうか。。。そうすることによってCompassionって育まれて行く。。。Oneness ってそういうことなんじゃないかな、と実感として感じたのです。


長くなりましたが、聞いてくださってどうもありがとう。照れ

ま、神様からのメッセージについては、自分に出来ることはやっていこうとは決めてますんでね、その"自信がない"部分も徐々に自分の中で消化できて行ければと思ってます。私の場合、"自信がない”ぐらいの方がハンブルでいられていいのかもしれませんが。ニコニコ晴れ


去年から夢や瞑想内で出てきた神社仏閣など、延ばし延ばしにして行けてなかった所も最近行き始めましたので、またその時の事なども今後お伝えしていきますね。歩くスター


神奈川でも彼岸花が咲き始めました。秋らしくなってきました♪もみじ


許します!ありがとう!感謝します!嬉しい!楽しい!大好き!愛してる!よかった〜!幸せ〜!ついてる〜!

そして私は決断する!!真顔キラキラ

 

それではまた〜UMAくん音譜


YOKKA流れ星