こんにちは、こころの湖水です。

 

前回の続きです。

まあそんなわけで数学のテストででたらめな答案を書きあげるのがショッキングなのだと思うわけですが、では私はどうして夢を見たままぼんやりと死んでいくのが嫌なのだろう。どうして人生の最後に後悔するのが嫌なのだろう。

数学のテストとこの問いで、何が対応しているかを考えます。まず、数学のテストではいい点を取るために今まで一生懸命努力してきたが、根本的な間違いをしてしまうことで、今までの努力がすべて無駄になり、その問題は0点になってしまうからということでした。人生では、よい人生にしよう、幸福な人生にしようとして努力するが、その人生をかけた努力がすべて無駄になり、0点になってしまうということを恐れているのかもしれません。しかも人生にはマイナスがあります。一生懸命やっていたとしても、戦争を促したり、人殺しをしたりするような人の命を奪ったり、人に大きな迷惑をひたすらかけ続けてばかりいる人生はマイナスの点になってしまうように思えるのです。

では、どうして人生が0点やマイナス点になってしまうことを恐れるのでしょうか。数学のテストで言えば、その先に志望校合格などのさらなる目標があるからでした。承認欲求などで定期テストの数学を頑張っているケースもあるかとは思いますが。あとは、自己実現とか?より優れたより価値のある人間になろうとしているのかもしれません。数学のテストでよい点を取る自分でありたいのかもしれません。

それを人生に対応させるとどうなるでしょうか?よい人生にすることの先に、目標があるのでしょうか。なぜ良い人生にしようとするのだろう。良い人生とは何だろう。

良い人生とは、人によってさまざまだと思います。自分が幸福になること、歴史に名を残すこと、後世に何か残すこと、自分の大切な人を幸せにすること、できるだけ多くの人を幸せにすること、自分と他人を幸福にすること、、、その先に何があるか。なぜそれを求めるのか。それらはすべて人類の発展に寄与する性質ですから、それらの人生を「良い人生」と思い、良い人生を求める生物だから私たちは生き残ったということだと思います。つまりは、本質を知らないままにするのを恐れるということを突き詰めていくと、より生き残りやすく生きようとするという私たちの性質からきているのだと思います。これが私にとって、とりあえず今現在の、「私はなぜ本質を求めるのか」の答えです。

 

やはり、まだ私はこういった哲学的な問いを、生物学的に考えることしかできません。でも、やはりそれだけではない気がするのです。ただの理論上の無味乾燥なものではなく、命と言ったら温かみがあると思います。宗教や霊的な意味ではなく、やはり「魂」みたいなものがあると思うのです。生物魂。そう思いたいだけかな。そう考えるほうが面白そうだから、そう考えようとしているだけでしょうか。