TsukunaDou の書庫のなかの記念物たち
  • 14Apr
    • 大原社会社会問題研究所初代図書主任 文学士・森川隆夫(京都帝大卒)について

       以下は私が『中之島百年』に書いた文章の下書きの一部で森川隆夫を紹介したものです。 1919(大正8)年4月、京都帝国大学附属図書館に勤務していた森川隆夫が図書主任として採用された。森川は事務長でもあり、幹事の高田慎吾、庶務主任の鷹津繁義(高津は『日誌』で書記と書かれることもある)らと研究所の予算事務も担当していた。森川は1920(大正9)年4月に研究員となる。森川は1874(明治17)年生まれ。広島県出身、採用当時34歳。京都帝国大学文科(言語学)を1915(大正4)年に卒業した文学士であった。京帝国大学附属図書館(1897(明治30)年創設)には1915(大正4)年8月31日から1919(大正8)年3月31日まで勤務した。 森川は1927(昭和2)年11月に結成された青年図書館員聯盟創立者の1人であった。青年図書館員聯盟は、神波武夫、鞠谷安太郎、國澤照光、間宮不二雄、森川隆夫、中島猶治郎、中尾謙吉、城野雄介、鈴木賢祐、田村盛一たち阪神近傍の有志によって、図書館職員教養の向上、図書館管理法準則の確立などを綱領に掲げ結成されたものである。(『青年図書館員聯盟十年略史―一九二七―一九三七』大阪 青年図書館員聯盟本部 昭和12年)また森川は、大阪図書館協会の創立調査委員として選挙され同協会設立(1924(大正13)年12月)後も役員として活躍した。諸所に森川に対する期待大であったことが伺える。森川は昭和7年11月に死去した。

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  • 08Apr
    • 佐藤隆一さんと前田純孝との出会い、『明星』と『白百合』と前田純孝で意図したこと

       佐藤先生と純孝との関係についてはこの著書のまえがきに紹介されている。純孝の評伝『虱の歌』の著者弓削豊紀氏が調査のため佐藤先生が勤務する大阪府立夕陽丘高等学校に来校したことを契機として、純孝が東京高師の先輩であり且つご自身が勤務する高等学校の初代教頭であったことを知る。そして若き純孝の顔写真にご自身を見る思いがしたと書かれてる。 なるほど佐藤先生は米寿になられてもハンサムボーイの面差しである。若き頃の先生の写真は未だ拝見はしていないが、著書の巻頭に掲げられた純孝の写真を見るといかにも納得するところがある。 佐藤先生といえば、まず浮かぶのはスピーチの名人ということである。 大阪城南女子短期大学の様々な公式の場で話されたスピーチは、聴くものを魅了せずには置かなかったはずである。 どうしたら先生のようなスピーチができるのだろうかと考えて見たことがある。 そして得た結論は自分には全く無理だということであった。そのようなことを考えること事態時間の無駄であった。 先生は長く国語の教師であった。 教室という場で日々生徒に言葉で伝える、教えることを実践された。 ではその中で磨かれた話すことの技術なのか。 いや技術ではない。 そのテクニックというのではない、テクニックで聴くものを感動させることはできなかろう。 それで得た結論は以下のようなことである。 佐藤先生の生来の品格に加え、豊富な読書量によって蓄積された人文的教養。それを背景として選択された語彙の的確、知的で洒脱、ゆったりと円やかな声音によるそのスピーチは、気品と香気を伴奏に共鳴させながら我々の耳に届く時、聴くものをして感動させずには置かないのである。  その佐藤先生が前田純孝と出会い純孝研究をご自身のライフワークとされた。 この著書の I−1 ”『明星』・『白百合』と前田純孝”で純孝が「近代文学の史的記述において」「ほとんどその名がとどめられていない」、評伝の相次ぐ出版やNHKの「新夢千代日記」の放映があったにせよ、「真価の再認識を促すことは容易ではない」「小稿は、主として歌人の『明星』から『白百合』への軌跡を裏づけ、その発掘と評価の一資料とするものである。」と結ばれている。 確かにこの論考は、私が興味を持つ純孝の境涯の詳細な記録や歌人論や短歌批評はほとんどないといってよい。それよりも前掲のごとく、「発掘と評価の一資料とする」ために純孝の歌題、その短歌の雑誌掲載年月日等が詳細に記されている。これを頼りに純孝の短歌に目を通すことは十分可能である。 また純孝の短歌が、夕陽丘高女赴任以前に純孝が同人たちと短歌を研鑽し、続けて雑誌『明星』誌上に登場しさらに評価を持って迎えられた時期やその時の雑誌の掲載号が記述されている。その後相場御風、前田林外が『明星』から離れ、新たに『白百合』を創刊したが、その誌上に発表された純孝の短歌や掲載号が記され、さらに音楽的才能も兼備していた純孝を紹介もしている。 この論考を読めば、これはあくまで序の口であってさらに純孝の全生涯と短歌人生を視野のうちに収めながら深く未開拓の森へと歩みを進めて行くことになろうことが予想されるのである。 

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  • 06Apr
    • 加藤勝美さんの著書『愛知大学を創った男たちー本間喜一、小岩井淨とその時代ー』を読む その3

       大阪市立大学経友会のインターネットホームページ上に「加藤勝美(S41経)さんのページ」があり、『愛知大学を創った男たちー本間喜一、小岩井淨とその時代ー』について以下の紹介がある。「愛知大学を創った二人の人物像を見事に浮かび上がらせた。だがこの本のすごさは、大学創設にかかわった二人の人物像の再現にとどまることなく、その人生航路に明治、大正、昭和と移る時代の流れを巧み重ね合わせ、日本の近現代史の断面をほうふつとして描き出しているところである。その結果、本書は単なる個人の伝記という域を超えた、一種の歴史書の趣を有するところとなった。」「愛知大学は本書をもって、公式の大学史や、建学の精神に関する100の弁舌を超えて、歴史に根差したアクチュアルな典拠を得たといえるだろう。」 この本の第1部第1章で加藤さんは本間喜一の姿を順を踏んで捉えようとしている。「冬空にかかった虹に導かれ」加藤さんは本間喜一の小学校にたどり着き学籍簿で本間(当時は小池)を確認した。 次の小見出しは「本間の生家の歴史と祖父」である。「小池家文書」で小池の家の歴史を略述し、5代目の小池次右衛門・亀吉(1830文政12-1896)が登場する。喜一は亀吉に抱かれたこともあるはずだとしながら、喜一の祖父亀吉の回想を紹介している。 喜一曰く「じいさんの棒術を見たことがある」こと。     「僕の家は上杉家の櫻田辻番(*武家屋敷の辻に自警のために置かれた      番所)で、毎年、百日だけ江戸へ来る。」という話から始まり、亀吉     爺さんが、逃げてゆく怪しい者を追いかけたが、石に躓いて転んだ拍子     に持っていた「投げ棒」が男の「股に挟まってひっくり返り」「それで     上杉の投げ棒が非常に評判になった」とエピソードを紹介している。 この祖父亀吉の話から喜一の父6代次右衛門・熊吉の話に移っていく。熊吉については戊辰戦争に参加したことが時代背景として紹介されている。  では第二の主人公ともいうべき「小岩井淨」についてはどうか。 祖父小岩井浦吉(1844(天保14)年-1911(明治44)年)が同じように紹介されている。浦吉は孫の淨を連れ歩き、淨を感化したことが紹介され、淨が神童と呼ばれたことが記される。 小岩井淨編というべき第2部での加藤さんの書き出しは、第1部の書き出しのこれから始まる調査への緊張とやや沈鬱な表情を伴ったものとは違い、次のような文章から始まる。 「信州にも南北戦争があった。それは小岩井淨(通称「小岩井じょう」。以下本文では 「・・・浄」で表記)の父宗十(筆者注:「そうじゅう」とルビがある)の人生に決定的な影 を落とし、結果としてその息子浄の生き方に、本人も気づかぬうちに、深い刻印を押 すことになった。」 そして浄が書いた父宗十との別れの作文が紹介され、小岩井家の蔵に残る浄が読んだ雑誌や本、個人文芸誌までもが紹介されるが、ここで加藤さんは浄の個人文芸誌『福壽草』の「悟り」の心境を書いた文章と抒情性があふれるという「朝の雪」という文章を取り上げ小岩井浄の特質を以下のように書いている。  「この二つの文のうち、前者は小岩井を律するある種の精神主義(覚悟の表明)  であり、後者はそれだけでは満たされない抒情性ないし感傷性とでもいうべきを  象徴しており、彼のその後の人生はこの両者のあいだを揺れ動くものとなる。」 本間喜一の紹介に比べ小岩井浄編はいきなり浄という人物の本質に迫る緊張感を抱えながら始まる。それが小岩井浄の人生を暗示しているのだろうと思いながら読み進めることになる。そして信州の南北戦争である。激動と変化の到来である。     

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  • 05Apr
    • 川崎巨泉とおもちゃ(郷土玩具): 落語・言葉遊び・とんだりはねたり・ちょん平さん

       川崎巨泉(1877-1942)は自分の大好きな郷土玩具(おもちゃ)の絵を販売することで生活した人、生活ができた人とも言える。 巨泉はいわば画家、浮世絵師、デザイナー、趣味人、好事家、郷土玩具愛好家、郷土玩具研究家、道楽者、粋人、版元(出版者)などであった。 落語が大好きだった巨泉は<言葉遊び>が大好きだった。 落語好き、だから、<巨泉と笑い>というテーマが考えられる。 それに郷土玩具にも<笑える郷土玩具>があるだろうと思う。<なまえ>の可笑しさ、<由来>の可笑しさ、<姿、形の可笑しさ>などがあるだろう。 まず<言葉遊び>は大正10年に出版した個人誌『人魚』第一号の記事にその一端を見ることができる。 上掲の写真の人魚第一号の五ページに「おもちゃ、縁起物、数え唄」、十二ページに「春興取りづくし」がある。 前者は、「一位彫の鶏  飛騨高山」「二見の蛙  伊勢」「三春駒  磐城」などとそれどれ頭に一から十の文字が付くおもちゃ(郷土玩具)を並べ、百は「百まなこ 江戸時代」、千は「千木箱  芝神明」、万は「万灯  神田祭」と並べている。 後者はどういうものかというと最後に「とり」が付く。 「早起きの一番鶏」「売薬のあざ取」「模様の色取」「言葉の尻取」 「真中へ陣取」「好事家の絵馬取」(これなど好事家を皮肉っている) 「大工の手間取」「ぼろ家の只取」(これも皮肉) などという楽しいもので、全部で74も並べている。 <可笑しさ>と<おもちゃ>であげて見ると。 巨泉が書いたタイトル「雷に関する玩具」(『郷土趣味』第3巻第1号 大正10年10月)に<江戸浅草のとんだりはねたり>という記事がある。 まず<とんだりはねたり>に可笑しみがある。    <続く>        

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    • 佐藤隆一著:「『明星』・『白百合』と前田純孝」を読む  その6 啄木に触れて

       さて12章では、1906(明治39)年3月に純孝が東京高等師範学校を卒業し、この年に創設された大阪府立島之内高等女学校の初代教頭として赴任するため東京を後にした。筆者(佐藤氏)はその時の純孝の心境を次のように書いている。「もとより芸術の都で創作活動を続けたいとの未練も強かったはずだが、一方、教職を約束された高師生にとっては、日露戦後の澎湃たる女子教育要望の気運の下での新設校経営は、決して忌避すべき職務ではなく、とりわけ純孝の場合には、学校創設に当たって御影師範から転じた恩師伊賀駒吉校長から三顧の礼を尽くして迎えられたものであり、その上、任地は生母の住む大阪だった。」 生母うたについては、論文の第2章で「生母うたは、前田家を去って二年後に再婚、小学校教員高村正澄の妻として、やがて大阪に住むことになる。」と紹介していた。 同時期の石川啄木はといえば「三十九年四月、二度の上京に挫折した啄木が、病苦と家庭苦の生活難に喘ぎながら、故郷渋民の代用教員として糊口をしのぐことになる」のに比べれば、純孝ははるかに恵まれていたといえるのである。」と述べている。 明治39年の出来事につてドナルド・キーン著「石川啄木」第三章(『新潮』2014年8月号)を見ておきたい。ここでは特に代用教員についてキーン氏の記述を参照したい。 「明治三十九年三月、啄木と家族に対する救いの手が思いがけないところから差しのべられた。義父の堀合忠操は、義理の息子のためでなく自分の娘の窮状を哀れに思ったのか、政治的な伝手を使って、啄木がかつて通っていた小学校の代用教員の契約を啄木のために世話した。月給はわずか八円で、五人の生計を支えるには十分ではなかった。」 氏は啄木の代用教員生活を「最も大事なことは、啄木が子供たちを教えることで幸福だったことだった」「教師としての仕事の重責に対する畏怖感は、教師であることの感謝の気持と綯い交ぜになっていた。誤って怪我をして右の足が自由に立たなくなった時でも、啄木は1日も休まずに授業に出た」。そして啄木が詩の朗読を始めたことを紹介し、「教師としてうまくやっていることが認められたのか、高等科の地理、歴史、作文も担当するように依頼された。」ことも紹介している。 さらに「腹の立つことは多々あるにもかかわらず、故郷に対する啄木の愛情は、啄木を渋民村に引き留めた。渋民村で、啄木は数多くの小さな楽しみを満喫した。」とも書いてる。 筆者(佐藤氏)が言う糊口を凌ぐための代用教員生活の内実がキーン氏が指摘するようなことであったとしたら、純孝の教頭生活こそどのようなものであったのだろうか。愉快で充実した教員生活だったのだろうか。 

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  • 04Apr
    • 佐藤隆一著:「『明星』・『白百合』と前田純孝」を読む  その5  啄木に触れて

       筆者(佐藤氏)はこの論文の5章と12章で石川啄木に触れている。まず5章。『明星』第7号(1902(明治35)年12月1日)に純孝の短歌が掲載されたのに続いて「石川白蘋<はくひん>(東京)の三首が目をひく。十七歳の白蘋(啄木)はこの年十一月一日初めて上京、九日には憧れの新詩社集会に出席する。」とし、明治35年に啄木が新詩社の集会に出席した様子を日記から引用している。 この集会についてドナルド・キーン著の「石川啄木」第二章(『新潮』2017年4月号)を見たい。 「鉄幹は啄木を牛込の城北倶楽部で開かれた詩人の会に招待した。啄木は若いにもかかわらずそこで先輩歌人たちと対等に渡り合うことが出来て嬉しかった。出席者の多くは今日では忘れられたか「二流の歌人」として知られているが」「啄木は出席した歌人たちについて、皮肉な言葉を書きつけている。」と書いている。 キーン氏が言う「忘れられたか「二流の歌人」」とは誰か、純孝も含まれるのか。筆者(佐藤氏)が引用した日記の中に見える歌人たちを列挙してみよう。 平木白星、山本露葉、岩野泡鳴、前田林外、相馬御風、前田香村、高村砕雨、平塚紫袖、川上桜翠、堀越夏村、そして前田翠渓である。 この集会の時、純孝22才、啄木17才であるが、引用された11月19日の日記には「雑誌は相馬君川上君前田翠渓(欠)君等にて編輯」とあり、純孝と啄木はこの日には出会っていない。 筆者(佐藤氏)の関心とは別に純孝と啄木はいつ、どこで最初に出会い互いにどのように感じていたのかが気になるところである。また筆者(佐藤氏)が目を引くと書いた白蘋(啄木)の短歌も気になる。

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  • 03Apr
    • 加藤勝美さんの著書『愛知大学を創った男たち』を読む 加藤さんの生身の温もり

       加藤さんはこの本の書き出しで、自らが川西町玉庭に本間喜一の出身小学校を訪ねる場面から始めた。季節は冬である、そして師走の13日のことである。痩身の加藤さんがコートに身を包み帽子を被り一人不安げに歩く姿が浮かんでくる。 書き出しから警察官、バスの乗客、郵便局員、農作業をする男性が登場する。小学校の玄関で「お邪魔します」と声をかける。そして応対に出た人物、山路弥さんが実名で登場する。 本間喜一を学籍簿の中から発見する前には菅美登(かん・よしのり)校長も登場し、その瞬間は「何冊めかに「アッター」」と書いた加藤さん。さらに「取材で”現場を踏む”ことの大切さを改めて感じ」「学校近くのそば屋で地元産の野菜をふんだんに盛ったそばも食べることが出来た。」と書いた加藤さん。 ここまでを読めばこの本が単に本間喜一や小岩井淨や大学史を事実に基づいて淡々と記述している本ではないことが伝わってくる。人に出会い、アーカイブを自身の目で確認し、その発見の喜びや感動をそのまま生の形で表現する加藤勝美さん。それは加藤さんの物書きとしての姿勢、そして加藤勝美さんの生身の温もり、その生き様までもが行間から浮かび上がってくると言っても過言ではないだろう。

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    • 加藤勝美さんの著書『愛知大学を創った男たち』を読む 加藤さん玉庭小学校を訪ねる

       取材を開始した加藤さん、JR米沢駅前の旅館に宿を取り本間喜一の出身小学校玉庭小学校を探しに出る。駅前の交番の警察官に聞くと、バスで口田沢郵便局で降りてあとは歩くしかないと教えられる。親切な郵便局員に御伊勢町まで車で送ってもらった加藤さんであったが、不安であった。そこで玉庭小学校前のバス停を発見、なんとか小学校に到着した。小学校で学籍簿の閲覧を申し出て見たもののこの日は本間喜一の名前は発見できなかった。 「本間喜一の娘、殿岡晟子」さんと落ち合った翌日、再び小学校を訪ねて今度は本間喜一の名前を発見した。本間喜一、当時は小池喜一の名前と成績優秀であったことを確認した。玉庭尋常小学校には1897(明治30)年9月1日に就学し、1901(明治34)年3月28日に卒業とあった。

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  • 02Apr
    • 佐藤隆一著:「『明星』・『白百合』と前田純孝」を読む  その4  少し石川啄木のこと

       ここで純孝の誕生から東京師範学校予科入学までを纏めておきたい。 純孝が生まれたのが1880(明治13)年4月。 『日本文学年表』(市古貞次編 桜楓社 1976(昭和51)年)で純孝の誕生年の前後を見ると、1879(明治12)年には正宗白鳥、長塚節、山川登美子、長谷川時雨、河上肇、永井荷風が誕生し、1881(明治14)年は森田草平、小山内薫、会津八一、岩波茂雄、またその1年後の1882(明治15)年は川田順、生田長江、小川未明、金田一京助、斉藤茂吉、鈴木三重吉、野村胡堂、有島生馬、野口雨情、橋本進吉、種田山頭火が誕生している。 そして石川啄木は1886(明治19)年に誕生した。同年には木下利玄、平塚らいてう、岡本一平、谷崎潤一郎。萩原朔太郎が誕生している。   純孝は1887(明治20)年4月  諸寄尋常小学校入学     1891(明治24)年3月   卒業     1891(明治24)年4月  鳥取県師範学校附属小学校入学                     *ここは高等小学校である     1895(明治28)年3月  高等小学校を首席で卒業 純孝の生母うた(筆者はうたと表記。但し筆者が参照した葛原滋編『翠渓歌集』では母は「うた子」と表記)が離縁したのが、純孝4才、11才で叔母の家に寄寓して高等小学校に通ったので、継母ゆきとの生活は7年間ということになる。この7年間の生活について筆者(佐藤氏)は詳しく触れていないが、前掲書『翠渓歌集』を引用した中に「純孝氏は祖母に養はる。」という文がある。気になるのが純孝は誰の影響で歌を読み始めたのだろうか、ということである。父純正か祖母か、或いは叔母なのか。  偶々、ドナルド・キーン著の「石川啄木」(『新潮』2014年6月号)の連載第1回目を読んだが、そこで啄木の生い立ちに触れつつ「啄木の歌を読むと、たとえば父と啄木が親しい関係でななかったことがわかる。」としながらも、「啄木が詩歌に目覚めるにあたって」父の影響があったのではないかと推測している。父禎一は「四千首近い短歌を残し」、「数種類の短歌雑誌を毎月購読していた」と説明している。 またもう一つ気になったのが「渋民村での少年時代は、だいたいにおいて幸福だった。啄木は母親に極めて大事にされたし、友達もたくさんいた。」という指摘である。 筆者のテーマはあくまで純孝の短歌の問題であるから、この第1章の論文では純孝の歌への目覚めを意図せざるところで影響を与えた人物とは誰なのかについては触れていない。この問題は純孝の伝記的な作品があればそこに描かれているのかもしれない。ヒントなるのは父純正は池田草庵に学んだ知識人と紹介されていることから、父の周辺には和漢書があり、生活力がない父純正ではあったが、歌心はあったのかもしれない。これも筆者は触れていないが、父純正と純孝との親子関係はどうであったのだろう。早く就職をして家計を扶けることを期待していた父純正ではあったが、愛情深く純孝に接したのか、或いは疎遠であったのだろうか。また純正の母(純孝の祖母)も同居していたとすれば、あるい近くに住んでいたとしたら、祖母が歌を読むような人ではなかったかとも考える。 啄木が母親の愛情を独占できたことに比べ、純孝には4才以降思春期にかけて母の愛情のひとかけらも感受できる立場にはなかった。ここは対象的である。       

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  • 01Apr
    • 加藤勝美さんの著書『愛知大学を創った男たちー本間喜一、小岩井淨とその時代ー』を読む

       加藤さんのこの本、どんな方が興味を持つのだろう。タイトルが愛知大学である。そもそもこの本は「愛知大学創立六十周年記念事業の一環として企画された」(「おわりに ー編集委員からー 藤田佳久著から引用)ものなのである。一般向けの書物ではない。加藤さんから恵贈されたこの本をどう読んでいいものか、正直迷っていた。何か切っ掛けがなければ本は読めない。その切っ掛けをつくってくれたのが佐藤隆一先生の前田純孝論であり、本間喜一が教授を務めた東京商科大学(現一橋大学)関係であり、大原社会問題研究所であった。 加藤さんが悪戦苦闘したこの本、取材の開始が2004年の11月、2009年末に原稿が出て、出版が2011年3月という本である。私もまだ完読していない。兎も角も「第一部本間喜一 閨閥の庇護を拒んで」の「第一章生まれ育ちと東京府立四中時代」から読んでいきたい。  目次の後のページに加藤さんは次の言葉を掲げている。  「愛知大学創設にかかわったすべての人たちの涙と汗に捧げる」 第1章 生まれ育ちと東京府立四中時代 は  冬空にかかった虹に導かれ という小見出しがあって「冬の寒風にさらされながら歩いているここは、山形県東置賜郡川西町玉庭、2004年12月23日(月曜)午前10時ごろ、かすかに雨の匂いがする。」という書き出しで始まる。

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神奈川県
自己紹介:
 先ずは川崎巨泉。大阪は堺の生まれ本名は末吉。浮世絵師でありデザイナーであり大正5年からはおもちゃ絵...

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