フラメンコ関連の本をいろいろ読んでいて、
こんな本にめぐりあった。
レビューというより、メモ書き。
「極説 三島由紀夫―切腹とフラメンコ」
板坂 剛:著
夏目書房/1997.6.1/1800円
その死から四半生記を経てもなお「仮面」を
かぶりつづける人間・三島由紀夫の高貴と卑小を暴く!
異端のフラメンコ舞踊家が世に問う衝撃のノンフィクション。
<帯より>
著者はフラメンコ舞踊家であると同時に、
プロレス評論家で三島由紀夫研究家。
この本は、三島がどれほどフラメンコに憧れていたかということを、
彼の言葉や作品から引用し、読みとって行く。
「詩人の顔と闘牛士の鎧、これが理想だ」と、
三島由紀夫は言った。
それは「フラメンコ」のことだと、著者は解釈する。
被差別民族から生まれたフラメンコは、
非力である者が獣性と対決し、危機一髪で回避する。
その闘牛士の流麗かつ無駄のない動きが、
フラメンコの踊り手の受動的でありながら、
攻撃的な気迫を含んだ身体の捌き方にも、
影響を及ぼしているのだと。
昭和38年に三島は偶然誘われて観た女性舞踊家の
踊るフラメンコに感動し、すぐに楽屋に直行し
「フラメンコを教えて」と申し入れたという。
その時は夫人に反対され、夫人だけがフラメンコを習った。
三島のフラメンコへの想いは「舞台」に行く。
創作フラメンコとして舞台化しようとしていた作品があるそう。
シノプシスまで出来上がっていたという作品は、
「近代能楽集」の短編「班女(はんめ)」に近い内容だっと
夫人は語った。
愛する男をひたすら待ち続け、おかしくなっていき、
その男が表れてもそれを認識せず、待つことをやめない女を
描いた「班女」。
これは「待つ」という行為がフラメンコ的ということか?
この作品、私も 昔やっていた劇団で演じたことがある。
愛する男を待ち続ける花子ではなく、
老嬢の画家役だったが……。
これはレズビアン的要素のある話である。
迫害されることで人は強くなっていくので、
ジプシーの幼児教育では、暴力の恐怖心を無くすため、
子ども同志を殴り合いのけんかをさせるのだとか。
それを三島は
「たくましく育ったジプシーは、
けっして自殺することがないという」と語っている。
三島がフラメンコをやっていたら、
自殺をしなかったのではないかと著者は言う。
三島は『映画芸術』の編集長であった小川徹にこう語ったという。
「満月の夜なんかに、美しい男が独りでフラメンコを
踊ってたりしたら、絵になるだろうね。
……僕はね、もし小説ってものがなかったら、
フラメンコ・ダンサーになっていたかもししれないんだよ」と
スペイン風建築の中庭でフラメンコを踊る美形の男を
想像する三島の感性を著者は「同性愛的ナルシズム」と言うが、
彼がフラメンコを習っていたら、
フラメンコの創作舞台をどう演出しただろうか……。