知らない事なんて死ぬほどある。
と、思っている以上にあると思っている以上に…。
という、言い回しをいくらしたところで自覚している以上には知らない事はないと思ってしまっている。


そんな自分の無知さに迫る歴史物語。


アイヌは自然と共に生活している、ネイティブアメリカンみたいな存在。独特の文化を持って生きている人々。


その位の認識しかなかったが、これを読んで彼らの虐げられてきた歴史に愕然としてしまった。


北海道は歴史が浅いというものの、それは和人にとっての歴史であって、アイヌの歴史ではない。


当時の感覚を推し量れば、文明を持たない土着民を文明人がある部分では家畜として虐げ、ある部分では人として虐げた。


タバコや酒、そして貨幣と言った新しい価値観を組み込み、和人側に都合の良いようにシステムを作り上げて行く。


歴然とした武力の差でそれを受け入れるしか生き延びていく道がなくなってしまう。


けれど、不満は生まれ、鬱積し、いずれ爆発する。


何とも言えない物語。

無知である事が差別を増長していると気付かされたきつい一冊となった。




蝦夷地別件〈上〉 (新潮文庫)/船戸 与一

¥740
Amazon.co.jp

蝦夷地別件〈中〉 (新潮文庫)/船戸 与一

¥820
Amazon.co.jp

蝦夷地別件〈下〉 (新潮文庫)/船戸 与一

¥860
Amazon.co.jp

村上春樹は読まないと決めていた。

なにせ、面白いのだから。
そして、それらを面白いと思ってしまう人の輪の中に入りたくはなかった。

むしろ、村上春樹はつまらない。
そんな意見が聞きたいくらいだ。

けれど、聞いたところで何も変わらないけれど。

よく、冒頭の一行の様なことをいうと、

どうして?ときかれる。

そこでいつも、

いつ読んでも面白いのが分かってるし、自分の読み込みでは彼の深部に辿り着かないから。

と、答えている。

けれど、読んだ。
やはり、面白かったし、
予想以上だった。

ちょっと調べてみると、
誰それは何々を象徴していてとか、なんとか書いてあるのを容易に見つけることができるが、そんな事はさっぱり気にもしなかった。

そこはかとなくシュールで、でも、ファンタジーではない。
抽象的、象徴的な印象のまま物語は終わる。

先がどうなるのか?と言うよりも、どういった場面が現れるのかと言う方が気になっていたような気がする。

続きと言うよりも、終わり方が気になる。
けれど、決して印象深い終わり方ではなかった。

常に、なんなんだ?この物語は?と問いかけながら読んでしまう。
色んな不可解がすんなりと収まってしまう世界と読者が作る世界がまるでリンクして行く様な感覚すらある。

読み物としても当然面白いからかそなのか、独特な世界観なのか、それとも、誰かが解釈している様に物語の持つ象徴性が読み手をその世界へとひきずりこんでいるのかもしれない。

他にこう言う感覚に近いものは?と考えたら、映画だった。

観終えた後にブルースリーになり切ったり、冷徹な殺し屋のように表情を固めてみたり、煙草の吸い方を真似してみたり…。

それは、漫画も、そうだろう。

が、なりきることと自分のままその世界に入り込んで行くのは話が違う。

なり切る事には、力がいる。
それは、そうしたいと言う意志だったり、時間だったり、お金だったり、
真似してみたり。

あくまでも、自分は自分だ。

つまり、旅なのではないだろうか?

小説だから物語はある。
それを俯瞰してみている自分がいる。
そして、いつのまにか、その世界での自分は俯瞰する事が、今、こうしてiPhoneの画面をみている事と変わらない行為に相当しているのではないだろうか?

つまり、旅とはものの見え方そのものの事なのではないだろうか?

文化の違う国へ行けば、目に付くものが変わり、言葉が変わり、匂いや雑踏が違っている。

そうした、わかりやすい相違が自分は旅をしていると自覚させるのだろう。

言葉もわかり、価値観もそれほど違わない、けれど、確かに私は旅をしていたと言える。

つまり、既に旅する手段を手に入れたと言って良いだろう。

それが、価値観が変わったとか大げさなものなのではなく、単に旅したい時は旅すればいいじゃんというとてもシンプルな法則に気づかせてくれたと言える。

総評すれば、この物語は自由な物語なのかもしれない。

じゃあ、また読む?と聞かれれば読まないと答えるだろう。笑。










iPhoneからの投稿
浜田省吾の歌に、「君の名を呼ぶ」と言う一曲がある。

ふと好きな人の名前を呼びたくなる気持ち、恋しいとか会いたいとか切ないとかそんな瞬間瞬間を切り取ったスクラップブックのような歌だ。

シングルカットされているが、結構地味な部類に入るものではないだろうか。

勿論、ここに書くくらいだから私は好きだ。

人の呼び方と言うのは、ただ、名前を呼ぶだけでも数十種類あるのではないかと思っているし、あだ名とかを入れればそれこそ様々な感情を伝える事が出来ると思っている。

ここで音声にてそれらを表現すれば話は早いのだが、夜な夜な独身男性が女性の名前を、ランダムに選んだにしろ感情を込めて連呼している姿を想像すると寝つきが悪くなりそうなのでやめておくし、文字でも余り気持ちのいいものではないというか、むしろ気持ち悪いので控えておく。

なら、何を書くのかと言われれば首を傾げてしまうが、それでもまだ、書く事は尽きないらしい。

さて、話を戻す。

好きな人ができた時、呼ぶ名前を考える人と考えない人がいる。

私はどちらかというと考えないと言うほど考えなくはないが、気にしないようにしている。

そのまま、二人が知り合った時の余韻を残した呼び方が好ましい。

けれど、心の呼び名は付ける。
それは、たれめこちゃんだったり、悪巧みだったり、ぎぅちゃんだったり、こちらとしては120%の愛情を持って呼ぶにもかかわらず、それは声にしてはいけないと経験が囁く。

つまりは、呼ばれたい名前と呼びたい名前に深い断絶がある事になる。

この場合、呼ばれたい名前を優先することは言うまでもないし、呼びたい名前をごり押ししたいと言うわけでもない。呼びたい名前はあくまでも心で呼ば一先ずは落ち着く。



あなたの名前はあなたの名前である時点で既に魅力に溢れている。

そして、その実名は当然あなた自身であり、私が呼ぶ名前だ。

ただし、ここで一つの問題が浮かび上がる。

名は体を表すと言うものの、私の知るその人がもしも、その名から溢れていたらどうしたらいいのだろうか?

例えば、
こんなに愛しているの、愛しているじゃ伝えきれない、抱きしめても抱きしめたりない、と言った、ラブソングの定番とも言える心の動きにそれは等しい。

どれだけ名前を連呼しようとも、その気持ちは言葉になっていない。行間にすら収まっていない。
ただ、ひたすらに足りない。

その為に、考えてしまう事がある。

それは当然まれな出来事だが、そう言う事もある。

一人、声に出してみる。
語感や口馴染みの良い言葉を探してみる。
時には、ただ、静かに、唱えるようにあなたの名前を呼ぶ事もある。

そうして、落ち着いた心はストンと落ちて、ピタリとはまるように、馴染みのある言葉へと深化し、まるで、今までの逡巡が嘘のように、歴史を踏まえた上で当たり前の呼び方に落ち着く。

あなたの名前を呼ぶ時は喜怒哀楽の様々な感情を乗せてはいるものの、そう言ったまどろっこしい過程を経て、呼んでいる。

だからといって、心のあだ名が変わる事はない。
それが、たれめこちゃんだったり、悪巧みだったり、ぎぅちゃんだったり…。

けれど、せっかくつくった心のあだ名、声に出さないわけにはいかない。

その時、あなたの名前を呼ぶ時以上のプラスαの何かを感じとって頂ければ、私は更に言葉の力を信じる事が出来る。

呼び方を変えるのはこれからを変えると言う事に他ならない。

だからこそ、私は今日もあなたの名前を口ずさみ、心のあだ名を模索する。


iPhoneからの投稿
この本程、薄く長い読みたい気持ちが継続していた本はないだろう。

どうしてかと言われれば、何となく読む気がしなかった。
積ん読を繰り返し、引越しの度に売り払い、100円で見つけては積読本に再び、三度と繰り返しているうちに、積読本の王と言われるようになった。

が、そう呼ぶのがどこの誰だか私も知らない。

さて、感想は、
こう言うものが今の小説を作っているのかもと思う程ベーシックなものだった。

数多の恋愛小説はある意味この小説の亜流であるような気がする。

実際に自分が体験した事はないけれど、実際に体験したくない出来事ランキングではかなりの上位にくるのではないだろうか。

内容を書きたいが、これは私の中ではミステリーに属する程、ぞくぞくする感覚を味合わせてくれた。

以下、未読の方はご遠慮頂きたい。




























主人公は正直、自分で書いている程、主人公の周りの人々が認める程才能はないのでは無いかと思った。

そして、顔立ちもパッとしない。

そして、性格は良いのかもしれないがそれこそが彼を凡人として象徴しているような気がする。

頭角を表していく友人たちから彼に向けられる賛美の言葉がどこかで虚しく耳から抜けて行く。

が、これは後半に明らかになるのであって、前半部ではぎりぎりストーカーではないレベルを多少の浮き沈みを繰り返している片想いを保っている。

と、こんな事を書くと斜めから読みすぎだと言われるかもしれないが、少なくとも前半では彼を応援していた。

彼の見ているものを信じ、悩んでいる姿はいつかの自分を重ね、同情し、励ました。

そして、見事な友情で結ばれている姿には友でいてくれる事のありがたさを感謝したりもした。

けれど、
後半の手紙から全てはひっくり返る。

思われ人だった女性と友人の男性の一進一退の攻防。

これは、とてもわかりにくい例で言えば、ある宗教団体が掲載している(た?)漫画を思い起こさせた。

簡単に言えば、
一人暮らしをしている兄のとこへ上京してきた妹がさりげなく兄から勧誘をうけ、何度も軽く誘われ、何度も軽く断り、幾度となく繰り返される他愛もない問答の末、ついには入信を決めてしまうというものだ。

ここでは、その可否については問わないが、兎に角、友人はまさにその話で言う妹役で、彼女への気持ちを優先する事となる。

最後の一文では、主人公がこの事件をバネとして捉えて、明るい未来を目指そうというとても清々しい終わり方をしてくれる。

けれど、問いたいのは、友人の態度だ。

それを良しとする気持ちもある。
けれど、やはり、無しだろう、
流れては駄目だろうと思う。

わが親友に置き換えて考えると、
あいつは絶対に流されないだろうなという確信がある。

だが、ここで出てくる友人、大宮だって友情に厚い人物だ。
なのに、何故…。

それは、友情に厚かったからこそ、言葉を重ねた彼女とのやりとりに閉ざしていた心の扉が開いてしまったからだ。

一応のハッピーエンドを物語は迎えるが、現実はこうはいくまい。
そして、私が大宮だったなら手紙は書かない。来た手紙も読まない。
だから、扉は閉ざされたまま。

けれど、
もしかしたら、ここまで人を好きになったことが無いのかもしれない。

と、〆たい所だが現実はそこまでシニカルではない。
外事警察というドラマがあった。
今年、映画化されるらしい。

そのドラマが物凄く面白かった。
元は小説だが、ドラマから入り、それが面白かったものだから、読んでいない。

同じ著者の「ゼロ」を読んだが長過ぎたためか面白さよりも疲労感の方が今となっては鮮明だ。

そういった背景があっての本作。著者は違えど扱う「外事警察」の物語。


比べてしまわなければ、一層楽しめただろうという感想が一つ。

シリーズものの何番目からしいので登場人物が少し遠くなる。

そして、同じ様な殺し屋が出てくるのだが、前作には劣るであろう描写。

この三つが読んでいる最中ずっとつきまとう。

ならば、最初から読むかと言われれば「いつか」になってしまうだろう。

けれど、人気作家だ。
そうは問屋が卸さないだろう。

だから、その「いつか」をどこかで期待している。



iPhoneからの投稿
北海道からの帰りの乗り物の中で読んだ本。

初の作家で、尚且つ前情報があまりない作家と作品だったので、何も考えず、期待もせずに読む事ができた。

読書のパターンはいくつもあるが、これは何も期待しない、何も知らないまま読み進めて行くのに丁度好い作品だと思う。

そうして、物語に入り込み、気付いた時にはある種の爽快感を伴って読み終えることができる。

題名に漢字が多い作家だからか読みづらい作品が多いのかと勝手に思っていたが、そんな事はなかった。

題材は少々とっつきにくさを感じるが、そこは作者の力量で読ませる。

が、この筆力にして、もっともっと重厚な物語を期待するのは欲張りなのだろうか?

それはそのうち読むであろう、「警官の血」で判断する事にしよう。

iPhoneからの投稿
何気に初夏目漱石です。
学校で一部を読んだ事はあるものの、そこからきちんと読み直した事はなりませんでした。

昔のものはなかなか読みにくくて手が出ては引っ込め、
引っ込んだらそのまま。という取り返しのつかない場所へ行ってしまいがちだったので、
ひたすらに敬遠していました。

しかし、
これまた恥ずかしながら、
『智に働けば角が立つ。
情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。・・・・・』
という文句がこの草枕の冒頭だとは知りませんでした。

しかも、こんな調子で明察が進んで行くもんだから、
はっきり言って戸惑ってしまいました。

しかし読み進めていくとこれがもう言葉の豊穣、氾濫。

絵描きの話だからそう思ったのか、
一文を読み進めるごとにキャンバスにざざっと一筆で色が付けられていく。
もう一文読むとそこにさらに一筆加わり、
一段落読み終える頃には鮮明な一場面として完成されている。

一文の切れ味、一段落までの形式が描かれていく過程、
そして、鋭い洞察が為せる一つ一つの言葉の推敲。

あらすじにあった『東洋趣味を高唱』というのを読み切る事は出来なかったが、
それでも十分衝撃的な内容だった。

パラパラとめくり、
目に付いた文章と戯れる。

そんな読み方にも適している本ではないだろうか。

本文でもそのような読み方をして戯れる場面は、
この草枕もそのようにしてよんで見てくれと言う漱石氏のメッセージなのでは
ないかと勘繰りたくなる程だった。


流石、千円札になるだけはある!と
なんだか見当違いのような感動の仕方をしてしまったが、
意外と顔は知ってても、小説は読んだ事がないという人が抱く感想は
こんなものなのかもしれないなと
あまり好ましくない納得をしてしまった。


草枕 (新潮文庫)/夏目 漱石

¥420
Amazon.co.jp

さらりと読める人間観察的小説。

拙い感想で言えば、色んな人がいるよなー。と。

ただ、あまりにもさらりとしているので感情の起伏が少ない。
物語自体が平坦なのではなくて、受け手の私が平坦に読んでしまったからだろう。

ふと、名文は少ないなと思った。
併読している草枕と比べると文書にキレがないように感じる。
けれど、そういった切れ味を表現するようなものでも無いのだろう。

だからこその日常を描いているというところだろうか。
刺激的な何かを求めて読むのではなく、「あるある!」と共感しながら読んで行くような物語。

とりわけ、目を惹くような人々ではなくて、目を惹かない人々の知られざる内側とでも言えば良いのだろうか。

そこに共感しながらと言うのも変な感じだが、
誰もが主人公になれると言う事なのかもしれない。

それ程、大きな主題は恐らく読み取れない。
けれど、結果そう言う事になるような気がする。

缶コーヒーはどこでも飲める。けれど、その場所で味わう缶コーヒーは
決していつもの味とは違うはずだ。





iPhoneからの投稿
あと2日。
あの震災を受けて急遽発売された「神様2011」が読みたかったのだが、見つける事叶わず、それでもようやく見付けたこの作品。

2011の方は神様という短編のみが入っているらしいので、お得感で言えばこちらだろう。

神様というタイトル、震災を受けた事によってという二つの理由でどんな物語なのか気になっていた。

が、
一読して、ハテナと首を傾げてしまう。単純に私のその時のアンテナに引っかからなかったのだろう。

けれど、今、こうして言葉にしようとすると、ストンと腑に落ちる。

暖かい物語なのだ。
熊と私の物語は温もりに包まれている。

ディフォルメされた熊はモコモコとし、愛くるしい。それとピクニックに行ったりする。それだけで、何とも小春日和を感じさせる情景ではないだろうか。

でも、実際、この熊はただの熊でぬいぐるみではない。
変な言い方だけれど、リアル熊なのだ。

その事が私には余計にシュールに感じる。

そんなリアル熊との物語を始め、なかなか読み応えのある短編がずらり。

読みやすくも読みにくくもある川上弘美の世界を味わうにはもってこいの作品集だと思う。

iPhoneからの投稿
先週の土曜は楽しかったんだけれども、
色々調べてみたら、こりゃ困った事になっちまったなって感じで
凹みはしないものの、思い出すたび苦笑い。

要はBOOKOFF好きが起こした失敗。

どう反省するかって言ったら、
もう少し周りをみようねっていう。


罪滅ぼしに服とCDでも買いますか。苦笑。