朝起きると、体中が痛い。

腕も脚も腰も肩も。

ふと、翌日に筋肉痛?

大体、一日遅れでやってくるのに、
この時ばかりは翌日。

嬉しいのか体がバカになっているのか。

でも少しだけ若返ったような気がして嬉しかったりもする。笑。


そんな喜びもつかの間。

集合時間まであと30分。

朝ごはんは途中のコンビニで済ませるとして、
急いでホテルを出発。

到着したのが二分前。

この日は月曜だったにもかかわらず、
昨日よりも人が多く、おそらく60人ぐらいいました。

一番人手がいりそうな家に行く事になり、
横浜からきていた方の車に乗せてもらい、
また、旧警戒区域へ。

その日のお宅は納屋に溜まった泥と流されて壊れた家財道具の搬出。

体力の無さを痛感しながら、
泥を掬って、袋に詰めて、ネコ(一輪車)で空き地へ捨てに行く。

ほんの少し膨らんでいる程度にしか見えなかったのに、
いざ袋に詰めていくと、何十袋にもなり、
積み上げられた土嚢袋をみると、
復興の遠さを肌で感じます。

休憩は30分に一回。

一回の作業時間が短すぎるような気もするが、
初めてボランティアに参加する自分のような人間にはそれくらいで
ちょうどよかった。

というのも、
作業することに夢中になり過ぎるあまり、
休憩する事を忘れてしまうからだ。

実際、一日目なども適度に休憩があったものの、
自分自身の体力と相談しながら作業をしないと
ばててしまう上に、倒れてしまいそうにもなる。

そうはいっても、
やはり、なかなか自分ひとりだけ休んでしまうと言うのも
居心地が悪い。

だから、
小刻みにみんなで休憩する必要があるのだと思う。



休むたびにペットボトルを一本消費するような
炎天下での作業にも終わりが見えてきた。

腰を上げて周りを見渡せば
着た時とは全く違う景色になっている。

けれど、
達成感はどこにもない。

結局一件の家の出来る限りの作業が終わっただけで、
そこで暮らしが始められるわけでもないし、
それで後は自分たちで出来るわけでもない。

二日間で行った三軒の家の他にも
まだまだボランティアを待っている人たちがいる。

その他にも、
行政の力を借りなければ出来ないようなこともあるし、
街としての『これから』を『これまで』以上にすることで、
そこに住む人たちのモチベーションをあげていくことも必要だろう。

先が見えるようでまるで見えない。

だからと言って暗くなる必要はないし、
踏み出す足を止めるわけにもいかない。

淡々と歩き続け、
復興していかなければならない。

今回初めて参加したボランティアと言うものは、
私感でいえば、『人助け』ではない。

単純作業であり、それらを粛々と行っていく。

評価も労いも感謝も達成感も伴わない。

ひたすら目の前にある物事を片付けていくだけ。
そこにあるのは無常感に近いかもしれない。

ここら辺の言葉の整理はまだできていない。

けれど、
復興はまだまだだという事。
出来る事は微細でも構わないと言う事。

その二つを自分の中に確かなものとして
捉える事が出来ただけでも今回の行動は
起こしてよかったと言える。

この後。

どうする?自分?
阪神大震災の時も、昨年の震災の後も行きたいと思いながらも、
邪魔になるんじゃないかとか、結局自己満足なんじゃないかとか、
あーだこーだとうだうだ考えて、結局何もしないまま心のどこかが
モンモンモンと。

だったら、行ってみて、動いてみて、感じてみよう。

ということで、南相馬市へボランティアに行ってきました。

ボランティアを行う場所は旧警戒地区。

周りの人に南相馬市に行くと言っても誰も旧警戒地区だと知る人はいませんでした。

実際、自分も行こうと思うまでは知らなかったし、
『ないがしろ』になってきているんだなと痛感しました。

復興関係で驚きなのは、
コンビニでの募金は既に復興のための募金ではなくなっていて、
そりゃ他国でも大変なところは山ほどあるでしょうが、
やはり、一連の募金活動も一種の流行りに近いと感じざるを得ません。

現地のコンビニはやはり、復興の募金のままで、
その事に一層、現地と他の地域とではその意識にかなりの開きがあると
感じました。


たったの二日間でしたが、
その間に感じた事を見た事をつらつらと。


出発は11日。愛車のSRは久々すぎて調子が良いのか悪いのかも判断が付かず。

南相馬市にあるビジネスホテルに到着したのは、夜の9時。

感想はびしょぬれ。笑。

夏だし、高速だし、すぐ乾くだろうと思っていた
のが運のつき。

高速のほとんどは雨にぬれ、
土砂降りと渋滞とでインターを降りるころには
寒さで歯がなる程でした。

ちなみに私は基本的に晴れ男なのですが、
バイクに乗ると8割方雨にふられます。

特に長距離ツーリングの時は100%ではないだろうか?
と思い返してみたいところですが、
もし、本当に100%だったら取り返しのつかない事実を
知ってしまう事になるのでやめておきます。


さて、
次の日。

ボランティアセンターに集合時間の9時に到着。

思ってた以上にボランティア参加者が来ており、
その中には結構遠方からこられている方もいました。

皆が集まったところで、
その日お邪魔するお宅での作業内容が告げられ、
人員を振り分けていきます。

私は草むしり。

車で旧警戒地区へ。
この車はボランティア参加者の車で、
台数を増やさないためになるべく大きな車に
人数を乗っけて行きます。




普通に車は走っているし、
道もそんなに悪くない。

けれど、見えてくる風景は異常。


放置されたままの車。

アームのひしゃげたショベルカー。

一階の壁だけがない建物。

飴細工みたいに柔らかそうなガードレール。

そして、一面の緑。つまりは放置された田んぼ。


約一年人の手が入らなかっただけあって、
当時の面影、傷跡が生々しく残っています。

国道から横道へ入り、
さらに奥へと。

車は通るけれど、
人の気配は感じない。

屋根にかぶされたブルーシートが
いまだ、応急処置である事を実感させます。

到着したお宅は大きな農家。

被害はそれほどでもなかったらしく、
伸びきった庭の草むしりでした。

それでも、ライフラインは復活していないから
住もうにも住めない。

休憩の際には
ジュースをふるまってくれたり、
お昼には
おにぎりを作ってくれたりと、
自分自身の事だけでも大変なのに、
精いっぱいのおもてなしには
感謝の言葉しかありませんでした。

そのお宅での作業が午前中で終わると、
次は他のチームのお手伝いに。

その途中、トイレへ寄ったんですが、
水が来ていないから、当然仮設トイレ。

その仮設トイレは学校の校庭にあり、
校庭の草も伸び放題。

自転車が整然と並んだまま、放置されていたりするのをみると、
どうしても当時を想像してしまいます。


午後からの作業もまた、草むしり。

暑い中での作業でしたが、
虫さされもなく、
水をがぶのみして、
無事終える事が出来ました。

帰りも同じ人の車に乗り込んだのですが、
これが申し訳ない。

草むしりしてなんだかんだと泥だらけになって、
汗まみれ。

かと言って他に何かできるわけでもないので、
なるべく身じろぎしないでおとなしくのっている事に
してました。


久々の肉体労働に体は悲鳴をあげて、
それでも、まだ、暗くなるには時間がある。
少し海沿いまでと走ってみると、
一部の防波堤は崩れ、
道も崩れ、
流れ着いた家庭用品が砂で覆われた道路に散らばっていました。


国道沿いや、街中は見た目にはほとんど復興しているように
見えますが、
少し離れるとやはり、まだまだ復興は追い付いてないと感じます。

少し雨がぱらついてきたので、
ホテルへ戻り、
大浴場へ。

これが気持ちいい。

朝から汗水たらして、
7時位にお風呂に入り、
ご飯を食べて、
寝る。

こんな生活をしたのは本当、何年ぶりでしょう。

風呂上がりのビールも格別で、
飲んだら最後、瞼が朝まで空く事はありませんでした。


そして、二日目。



ちょっと長くなったので、
また後ほど。











岡本太郎が言わずとも知れた爆弾であるならば、草間彌生はこの本でも書かれている言葉を使えば、無私なのかもしれない。

私が好きだった草間彌生の作品はもうない。

それらは、ポップで、毒であり、芸術作品としてのどうのこうのではなかったからだ。

増殖と背景に消える個性、増殖する男根に埋れて、恐れを降伏しようとする試み。

ただ、作品を見ただけで、嫌悪と鳥肌がつきまとっていた男根で埋め尽くされたボートを改めて観た時、以前感じた狂気とは全く違うものを感じた。

それは、「もののあはれ」である。

恐怖を克服する手段として、恐怖そのものに埋もれる行為は、安らぎではなく、更なる苦痛なのではないだろうか。

だが、そうする事しかできない。
そうする事でしか克服し得ない恐怖とぴったりと寄り添う事にしか癒しがない世界。

なんとも、切なくて紙面上の写真から目が離せなくなった。

時にはそこが海となり、時にはそこが草原になる。色は鮮やかに、そして、無彩色に。その間も横たわる草間彌生は身じろぎ一つしない。

人間にとって恐怖の克服は人生の課題の一つであるだろう。

誰もが、恐怖に対して必ず選択している。
向き合うか、顔を背けるか、誤魔化すか、どれをとろうがそこにはもののあはれがあるのではないか。

ちょうど今、ルイヴィトンとの企画でショーウィンドーが草間彌生一色だ。

けれど、悲しいかな、そこには無私は
ない。
増殖もない。

私が今まで感じていた、奇抜さがあるだけだ。

増殖し、景色になり、自己が消滅し、世間に受け入れられた先は、ポイントに使われるアクセントになってしまい、その商品を持つ人間の個を際立たせることになってしまった。

けれど、それは、恐らく裏返りなのではないだろうか?

消滅が起こり、その現象は消えるというよりも、内側へ吸い込まれている。
内へ内へと入り込んで行く先に、また外が生まれる。
その外から観察される自身は決して景色には溶け込まず、存在だけで異端である。

だからこそ、そこからまた始める必要があるのかもしれない。

それは、下着からかもしれないし、カバンからかもしれないし、タオルからかもしれない。


草間彌生の作品は何度か生で観たが、また観たい。今観たい。






iPhoneからの投稿
流石に二徹は無理らしい。

風呂上りにと冷やして置いた発泡酒が冷やしすぎて凍ってしまった。

溶けたとこから飲んで行くのは冷えどころ一番で最高だが、
喉越しの飲み物ではいささか物足りない。

にしても、眠い。

これも歳を重ねたせいなのかと自問してみるも、徹夜開けで元気だった試しがない。

するとあまり関係ないのかもしれない。

が、少し懐かしい痛み。

ズキリと。

痛んで、ふと、この痛みは伝えるべき痛みなのだろうか?と考える。

本当に痛いなら多分身動きは取れない。
けれど、今伝えても、動けるし、ブログも書ける。

明日の朝は多分くる。

だから、伝える事でもない。

でも、

こないかもしれない。

なら。

でも、

なら、

でも、

と逡巡。

多分、倒れてみないとわからないんだろう。

告げる痛みと
告げない痛み。


心配をしてもらいたいんじゃなくて、

言葉を残したい。

だから、ここにきた。

あー、眠い。

痛みもなんだか和らいで、
なんだ、やっぱり、
明日はくるじゃないかと、
口元を斜めにあげてみたり。

だからこそ、

という言葉が万人に通じるものかは知らないが、

こないのかもしれない。

とにかく、
そんな収まりかけてる痛みより、
とにかく、
今は瞼の重さで身を沈めたい。





iPhoneからの投稿
忘れてました。

夢のカルテ。

友人が読み終えたと言う事で頂いた本なのですが、
このミス1位にもなっていると言う事ですし、
あの『ジェノサイド』(読んだ事はない)の作者でもあるので、
前評判での期待値はかなり高かったです。

最初の一章の終わりでは、
思わず目が丸くなるような展開が待っていましたが、
読み進めていくうちにまぁ、そんなことは気にすんな程度の
瑣末な事に。

最近の小説の売上?人気作品をみていると、
ライトノベルの作品が多くあるように思えます。

私が唯一読んだライトノベルと言えば、
『ロードス島戦記』でした。

それはもう面白くて面白くて、
でも、挿絵がちょっと恥ずかしくて
通勤電車の中ではそのページが来ると
ちょっと角度を変えて人から見えないようにしていたのを覚えています。笑。

その時はそれほどライトノベルと言うものは
子供が読むものとして扱われていたような気がします。

それを変えたのが誰かは知りませんが、
私の知る限りで、推測するなら『乙一』になるのではないでしょうか?

『夏と花火と私の死体』
この題名を見た時正直嫉妬しました。

さらには北村薫にも褒められていて、
なんだか意味もなく打ちのめされたような気がします。笑。

こんな題名のものがライトノベルとして
上梓されるとは!
と少しライトノベルを観る目が変わったのも事実です。

そして今となってはライトノベルという言い方が
ふさわしくないような作品もあるようです。

それだけ、書き手の質が上がってきたという事でしょうか。



とは言うものの、
この作品はライトノベルではありません。
私の感想は軽い小説だなと。

この時期の何かで言えば、
カルピスなんかが合うような気がします。

軽いからと言って良いとか悪いではなくて、
そういう作品なのだと思います。

夢に入り込める能力をもったカウンセラーの
ちょっとしたミステリー。



あー、男の自分が言えることではないですが、
もしかすると主人公の心の揺らぎが少し男から見た女性像過ぎたのかもしれません。

なんだか、北村薫の『空飛ぶ馬』を久々に読みたくなりました。




夢のカルテ (角川文庫)/角川書店(角川グループパブリッシング)

¥620
Amazon.co.jp

夏と花火と私の死体 (集英社文庫)/集英社

¥440
Amazon.co.jp

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)/東京創元社

¥714
Amazon.co.jp

あとがきに書いてあったんですが、
元々この作品の題名は「走れ平太」だったそうです。

読み終えたあとでは、
盛り上がりに盛り上がるクライマックスの余韻を強く引いてしまい、
なんだかしっくりきませんでした。

読み終えて、二日がたった今、これを書き始めるや否や、
良いな、その題名もと思うようになりました。

その心境の変化はのめり込んでいた小説の世界の熱が冷めてきたからかもしれません。

けれど、それだけでもやはり、元々のタイトルは芳しく感じない。

やはり、主人公が良かったのだとしみじみ思います。

若さと元気が取り柄みたいな主人公は読んでいる最中それほど感情移入できたわけでも無く、むしろ、談合課に配属させるよう辞令を下してきた上司の冴え冴えとした立ち振る舞いに痺れてました。

けれど、ふと振り返ると平太の姿がやたらとくっきりと思い浮かびます。


それにしても、
談合とは凄まじい。

この本ではそれほど深くは掘り下げられてはいませんが、ここに書かれている事だけでも、ゾッとしてしまう反面、まぁ、、必要悪なのかな?とも思ってしまいます。

この仕事を取らないと、ノルマが達成できないではなくて、会社が潰れて、下請けが路頭に迷う。

その全責任を負って、公共入札に挑む。

と書くとなんだか余り面白そうに思えませんが、
本の厚さが気にならない程面白い。


ハゲタカが硬質な物語だとしたら、
これはソフトに描いた作品といえるのではないでしょうか。

確かにシビアな業界の話ではあるのですが、
描かれている人間からほとばしる殺気のようなものは
感じませんでした。

だからこそ読みやすいし、だからこそ平太なのかもしれません。

鉄の骨と言うと
私は鉄骨造を思い浮かべてしまい、
さらには冒頭で、描かれた生コン打ちの場面では
少しだけ、?マークが浮かびました。

まぁ、あまり現場は知らないので、
そういう事もあるのだろうな、と。

それにしても、
建築の業界と言うのは
細分化していくとどのくらいの業種があるのでしょうか?

大きく分ければ
設計事務所、施工会社、ゼネコンといった感じで、
細かく分けていくと、
下請け業者が多岐にわたるし、
その上、大きく分けた3者からもさらに枝分かれしていきます。

今も大きなクレーンが空へ腕を伸ばして、
また新しい高い建物が建って行きます。

その中で、空間として新鮮なものはどれだけあるかはわかりませんが、
指折り数えてみて、少ないと思うのはきっと
そういう空間が必要とされていないだけなのかもしれません。

高層マンションから見下ろす東京の夜景は恐らく
大きな感動をもたらしてくれるでしょう。

けれど、その感動を味わえるのはほんの一握りでしかありません。

公共の建築もお金をかけ過ぎれば文句を言われるし、
斬新なものを提案したところで、
想像できないものを受け入れてくれる人はそう多くありません。

だからと言って、そんな事じゃ建築業界は駄目だというのではなく、
今までのものと共存し
これから先全く違う価値観で触れる事の出来る建築と言うものを
提案出来たらいいそう切に願います。


そんな事を考えていたら手もとには
ずーーーーーーっと気になっていたあの本が。

ちょっと読むのに時間がかかりそうですが、
なんとか読み切って感想をつづってみます。

では、次回は
バックミンスターフラー『宇宙船地球号 操縦マニュアル』です。

鉄の骨 (講談社文庫)/講談社

¥880
Amazon.co.jp

宇宙船地球号操縦マニュアル (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

¥945
Amazon.co.jp

久々にもかかわらず、

二冊の感想を乗っけてしまうもったいなさ。

まぁ、久々なんで、つれづれと。


初の宮本輝は錦繍にしました。

優駿と悩みましたが、ちょっと肩慣らしに短めのやつと。

これを読んで思ったのが、
私は往復書簡形式のものが好みだと言う事です。

そこに息づく生々しいやり取りを
盗み見ているような感覚と

手紙を読める程身近な人間の
自分の知らないやりとり。

それは恋人とか兄弟、友達ではなくて、
祖母程度の距離感を持った、
倫理観と背徳感の境界線に立っているような感覚に近い。

出だしから聞き慣れない地名が出てくると、
ふっと自分が見も知らない場所を構築して、
その場所にたたずんでいるような感覚に襲われます。

そこから先二人の手紙のやり取りは、
徐々に雪が解けて、春が近づいてくるような心持にさせてくれます。

この二人の距離感が、
この後に読んだ、
国境の南 太陽の西に似ているなと感じました。

ざっくり言うとこちらは面白かったけれど、
もう一度読む事はないだろうなと。

海辺のカフカに通じる部分をかすかに感じながらも、
ノルウェーの森で感じた斜に構えたような雰囲気になじめませんでした。

どちらも離れてしまった愛した人との邂逅を描いた作品ですが、
『母親』である事に誇りを持つ事と『父親』『夫』である事を
選ぶ事に落ち着いた事が決定的な読後感の違いではないかと思います。

どちらが良いとか悪いとか
そういう結論ではなくて、
毎日の満員電車でゆられている
大勢の人々のそれぞれの人生の深み。

その一部を切り取った秀逸な小説と言えるのでは
無いでしょうか。

あ、今気付きましたが、
多分、題名で期待したものの質が違っていたんですね。

てっきり、
旅をするものだとどこかで思ってました。笑。

さて、つぎは鉄の骨。

これも面白かった!!

業種が同じなのですが、
こういう世界があるんだなと。

交わらなければ一生交わらないであろう世界を
垣間見させていただいた気がします。

その感想はまた後ほど。

それでは。


錦繍 (新潮文庫)/新潮社

¥515
Amazon.co.jp

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)/講談社

¥540
Amazon.co.jp

猟奇殺人が頻発して、最後に・・・。


感想としては凄いな、と。

色んな知識がちりばめられていて、
読んでいる事を飽きさせない。

次どうなるの?というのではなくて、
単に読み進めてしまう。

面白い面白くないで言えば、
とても面白い。

けれど、
こう言った系統を読んだ事がないかと言われれば
『ある』。

猟奇的な話で言えば、
江戸川乱歩だったり、
残虐趣味?で言えば、
平山夢明
だったり。

ある意味オールマイティな作品過ぎて、
癖がないように思えた。

けれど、どこかで穿った読み方をしていたのは事実で、
それは期待の裏返しであると思っている。

この著者はとても頭のいい人だと思う。

だから、どういう風に書けば人が驚いたり、
感動したり、物語に没入するかが分かっているんだと思う。

だから、その企てが見えてしまうような気がしてしまう。

これだけの作品を書けるのだったらまだまだこれから良作を生み出していくのだろう。

この作家の10作目がどのような変化を遂げているのか
それは是非とも知りたい。

連続殺人鬼 カエル男 (宝島社文庫)/宝島社

¥630
Amazon.co.jp

流石は百田氏。

まだ、三作目ですが、その読ませる力量には
感心させられます。

様々なテーマに挑んでその度に
その世界へ上手に引き込んでくれる。

今回のテーマは『美容整形』

当然、本書の中でも語られていますが、
外見の美しさよりも内面の美しさの方が大切だという話は
この本を読んでしまうと、

確かに内面の美しさは大事だけれども、
とっかかりは外見に勝るものはないのかもしれない。
と思ってしまいます。

私もとある町で働いて、
通りすがるだけの美人さんたちを
余りにも多く目の当たりにしてしまったら
美人になれてしまうんだなと思いました。

慣れると言うのは
美人は美人だと思うけれど、
それ以上でも以下でもない。

ただ、美人であるだけだし、
逆を言えば、
ただ、ぶすであるだけ。

あとは好みの問題なんだろうなと。

この好みと言うのは凄く個人的な問題で、
実を言うとほとんどの人が自分の好みと言うのを
把握していないんだと私は思っている。

なぜならば、
芸能人とか、
モデルだとか、
ああいった人たちが常に美の基準として
『好きなタイプは芸能人で言うと・・・・』
という質問にそのまま置き変わる。

具体的に、
『目はこのくらいの大きさで、
鼻はこうこうで、
口元はこんな感じ』
と言える人はかなり少ないんだと思う。

恐らくは好きになった人の顔を
数値に置き換えていくと、
似ている数字、
同じ数字と言うのが見つかるのではないだろうか?

要はそれほど外見にこだわりはないと言える。

けれど、
見栄やテレビなどから受ける情報で、
洗脳近い状態にされ、

『この女優が美人である』
と言う評価を自身の評価と勘違いしてしまっているのではないだろうか。

本書によると
美醜の区別がつくのは
4歳以降だという。

その前の状態では美醜の区別がつかない。

つまり、美醜という価値観がない。

ならば、美醜と言うのは
あくまでも後付けなのではないだろうか?


だからと言って、本書の主人公のような容姿を
持つ人の励みになるとは考えられない。

それに社会で暮らしている以上
美醜の基準が故意に作られていようがいまいが
出来上がってしまった価値観についてとやかく言うのは
負け犬の遠吠えでしかない。

けれど、
それで鬱屈してしまうのも
なんだかもの凄く馬鹿らしい。

いや、難しい。
社会の価値観にさらされながら
自身の基準を持ち続けると言うのは
面倒くさいし疲れるし、
なによりも変人でしかない。

そんなジレンマを感じながら読む本書。
そして、物語の結末は・・・・。


そして、本書を読んで思い出したのは
小学生時代のあの子。

けれど、
当時から私は時々、
『そんなに気持ち悪いのか?』
と思っていた。

今思い返すと、さらにその思いは強い。

恐らく、小学生にしては
大人ッぽ過ぎたのかもしれない。

もしかしたら、
今頃はどこぞでちやほやされているのかもしれない。


そんな無駄な想像と同じように
結末は私の中ではどうでもいいものだった。

物語だから終わらせなければならないという
宿命に踊らされた感が強い。


モンスター (幻冬舎文庫)/幻冬舎

¥760
Amazon.co.jp

久々に。

信頼の浅田次郎。
けれど、あまりホイホイと手を延ばしたりせず、中原の虹の続編、マンチューリレポートの文庫化を静かに待っていたところ、こんな話を聞きました。

その人はもう定年近い年齢で、小説を卒業していたらしいんです。
けれど、ふとした事で読んでしまった浅田次郎で再び小説の世界に足を踏み入れたらしいのです。

その作品がこの天切り松 闇がたり。

書店で見かけるものの別に興味を覚えるでもなく通り過ぎていたこの作品。

けれど、そんな話を聞かされたら読まずにはいられません。

すぐに書店へ走り、一巻を購入。

読む時間が余り確保出来ず、暇をみては読みの繰り返しで二三週間かけてようやく読み終えました。


楽しみな小説はあらすじを読まないのでどんな話かもわからず、現代の日本で老人が牢屋に入れられるところから物語は始まります。

あとは作者の良いようにあしらわれ、心地良い小説世界へと旅立ちました。


古き良き時代と言いますが、今はもうないものへ対する憧れだけが、そう言わせるような気がします。

その時代時代に良いものがあるはずなのに、ノスタルジーにはなんとも言えない、そそられる匂いがあるように思えます。

要はその時代の苦い部分を包み隠さずあらわにしてしまい、それでもなお、今では失われてしまったようなものに自身の知らなかった心の琴線を見付け出す。

その発見に感謝と感謝したが故の手にとって確かめられないなにがしかをそっと心の余白において行ってくれる。

そんな物語。




iPhoneからの投稿