公文書館について | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

Archive nationale アルシーヴ・ナショナル 公文書館。

アルシーヴ、英語ではアーカイヴ、パソコンが普及してこの言葉にも親しみができましたね。

フランスでは、ドキュメント、図書、古文書、公文書と記録の性質によって保管され公開されている場所が違います。インターネットが普及する前は、現代の日々のジャーナルの記事は各新聞社、レアールのポンピドウー文化センター内でマイクロ・フィルムの閲覧ができました。書籍になったものと作家の書簡などは国立図書館、古文書に関しては、マレー地区のアルシーヴ・ナショナル(国立古文書館)でと、テリトリーが分かれていました。今も原則は変わらないと思います。


マレ

                   マレ地区にある一番古い国立古文書館↑

昨年末、日本の国会で阿部政権が、「特定秘密保護法」を強行採決で可決してしまってから、代議士さん自身の首を絞めることになるような、秘密の定義が無いあぶなっかしい法律を圧倒的多数で可決してしまったことに、唖然として以来、国や国体に係わる秘密文書を外国はどのように保管し、どの程度公開してるんだろうか? と興味をもちました。すると先週テレビで、昨年完成し公開された「国立公文書館」についての番組をやり非常に興味をもって観ましたので、公文書保管に関してのフランスの現状をご報告したいと思います。

たとえば、フランス大革命の時に、ヴェルサイユ宮殿にパリの民衆が押し掛け、ルイ16世とマリーアントワネットをパリに連れ戻します。マリーアントワネットは身の危険を感じ、愛人だったスエーデンのフェルセン伯爵にフランス脱出の手配を頼みます。王妃がフェルセンに宛てた暗号で書いた手紙が公文書館に収められ、手紙のところどころの文字が消され空白になっている部分の解読が進められ、ある程度復元できたそうです。明らかなラヴレターで、これだけでもマリー・アントワネットは有罪とされたでしょう。また、フェルセンが、マリー・アントワネットの愛情を受け入れて、国王一家に付き添って馬車に乗っていたなら、ヴァレンヌで正体を見破られた時もうまくやり過ごしてルイ16世とアントワネットは捕まらなかっただろうと言われています。

他にも、前大統領のサルコジのお爺さんがフランスに移住して国籍を申請した時の書類だとか、歌手のシャルル・アズナヴールの両親がアルメニアの虐殺からフランスに逃れてきて、不法滞在していたのですが、シャルルがパリで生まれ、出生地主義のためフランス国籍を持っていた幼い彼が両親に代わって、パリ警視庁に移民の手続きに何度も足を運びますが、「フランスには利益が無い」と冷たく拒絶された書類。その後ナチス・ドイツの占領下のパリでシャルルの父がレジスタンスに参加して活躍したので終戦と同時にフランス国籍を取得できたことなどを紹介して面白かったのでした。


アルシヴ
                  ピエルフィットに完成した新国立公文書館↑

昨年1月に新しい国立公文書館が開館し、ネットのホームページも公開されてるので、それを見ますと、使命が定義してあります。リンクを貼りますので興味ある方はご覧ください→こちら

使命と定義:
「国立公文書館は、国の中央行政の文書を保管し公開する(ただし防衛省、外務省を除く)。パリの公証人の書類、および国益に係わる私人の記録を蒐集する。」

上の定義の後半部分は、新たに出来たペルフィットの建物の役割ですね。

やっぱり、国の防衛、外交に関する書類は、だれにでも、いつでもって訳じゃないんですね。(あたりまえかな? でも期限が過ぎれば公開する)

新設公文書館を含めると現在フランスの国立公文書館は3か所になりました。
いちばん古くからあるのが、パリのマレー地区の古文書館。ここはナポレオンI世が公文書を一か所に集めよと命じて国会で決議されたフランス大革命により創設された「国立古文書館」です。あとでも少し詳しく歴史を振り返ります。

1972年にフォンテンヌブローのNATO が使用していた建物を改築して第2国立公文書館としました。

公文書の範囲を拡げ、どんどん貯まるものですから、この2つで足りなくなり、2013年1月にパリ西郊にペルフィットにモダンな建築の「国立公文書館」が開館しました。現在この3か所で、公文書の保管と公開がなされているわけです。

では、歴史をみましょう。

国に関する文書を一か所に集めて保管するという考えは、フランス大革命により出来ました。アンシャン・レジームでは個別の高等法院とか会計局とか外務秘書課とかで保管されているだけで一か所に集められていなかったのです。

1790年9月12日、国民公会が、その保管する文書に「 Archives nationales 国家文書 」の名を付しました。
4年後の、革命歴2年メシドール7日の法律により「国家文書」を中央の一か所に集めることを決めます。この法律は以下の3つを原則とし、これは今日も有効です。
*公文書の一極集中化
*市民に対して自由に閲覧(アクセス)させる。
*国レベルの文書保管網の必要性。この法律の補完として、革命歴5年、ブリュメール5日(1796年10月26日)の法律は、各県庁に文書保存課を設置することを決めた。

国立文書館は以下の文書を回収した。
*革命により廃止された中央制度に関する記録文書
*パリ司教区(僧院、教区、など)の宗教施設に関する書類
*移民および受刑者についての記録

1808年、ナポレオンI世がマレ地区のスービーズ Soubise 館という貴族の館を指定、古文書を一堂に集めた。
しかし、ここもすぐに狭くなり、防災(火災)対策と拡張工事が、ルイ・フィリップとナポレオン3世により施工された。

1927年には、同じマレ地区のロアン Rohan 館に、パリ公証人関連の文書が保管された。第2次世界大戦後は、企業、個人、家族が所有する公文書に拡大され保管が始まった。

1972年、フォンテンヌブローのNATO が使用していた建物を工事、地下4階(5階は秘密文書)に文書を保管。現代記録文書の保管の地とされ、各省庁の記録文書の保管が始まった。ここもすぐ一杯になり、文書のデジタル化をここで行い、かつヴィデオなど映像記録を保管する場所に特化された。

シラク大統領が「ヴェルデイヴ」記念碑の除幕式に際しておこなった、ユダヤ人大量検挙とアウシュヴィッツへの輸送はヴィシー政権だけでなく、ヴィシーを支持した数千万フランス人がいたのだからフランスという国全体の責任であるという歴史的演説のノーカット・ヴィデオなどが保管されている。

フォンテンヌブローのサイトは駅からも離れ、市民の閲覧に不便という理由もあり、狭くなったため、1995年に新館建設が計画され、2004年、シラク大統領とジョスパン首相が計画を遂行し、パリ西郊のピエルフィット・シュル・セーヌをサイトに選び、建築家のマシミリアーノ・フクサに設計依頼がなされた。
2013年1月21日、オランド大統領が、ヨーロッパ最大の「公文書館」の除幕式を行った。


あるしヴ2


この歴史をみてもわかるように、近代国家に不可欠なものとして「公文書館」を作り、市民に公開することを原則的に使命として掲げています。日本にはまだ、「国立公文書館」が無いようですね。極端な言い方をすると、フランス大革命以前のアンシャン・レジームにあると言っても過言ではないんじゃないですか。(注)

「特定秘密保護法」を拙速に強行採決し、秘密の範囲や定義もなされないまま1年後には発効してしまう。公務員の個人的恣意により秘密と定められたり、甚だしきは秘密文書をシュレッダーにかけて抹消したりすることなど絶対ないよう、100年200年後に国の歴史が誰にも調べられるように、物理的に記録文書の保管を義務づける制度を確立してほしいと思います。


(注:これは迂闊でした。日本には1971年(昭和46年)に総理府の付属機関として東京都千代田区北の丸公園内に「国立公文書館」が開館しています。2001年には独立行政法人化されましたが、2007年に政府はまた国の機関に戻すと決めたそうです。1998年には茨城県つくば市につくば分館がオープンしています。確認もせず、誤った主張をしましたことをお詫びします。めのお)


  ペタしてね 読者登録してね