ロマン・ロランが人生の最後の日々をヴェズレイで送り、そこで没したことは知っていたが、埋葬されている墓地がどこにあるかが分からなかった。
むろん作家とその読者にとって最も大事なのは書いた作品であり新聞に掲載された反戦のメッセージであり、生前の活動だから、墓がどこにあるかは2次的な問題といえる。墓を訪ねたところで何が変わるわけでもない。
しかし、思春期にその作品を読み、のちの人生が変わるほど感動した場合は、その作品を書いた作家の痕跡を追ってみたいのは自然な欲求ではあるまいか。
生前、一度だけ握手を交わし、声を掛けてもらい、同じカフェーのテラスでその傍に30分ほど居たことのあるサルトルの場合は、葬儀の列に加わることが出来たし、むろん墓も訪ねた。だが、ロマン・ロランの作品にあれほどまでも感動し、その先の人生の生き方を決めたほど、深い縁を感じる作家の晩年がどうだったかについて調べたことがなかった。時代がロランが生きた第一次大戦と人民戦線の頃と変わり、米ソ二極対立が激化し、核戦争による第三次世界大戦勃発の瀬戸際まで行ったキューバ危機や、アルジェリアなど植民地の独立、ヴェトナム戦争など、アポカリプス的な人類の存続自体が問われるような深刻な時代を迎え、ロマン・ロランは過去の作家として忘れられていた。
しかし、EU統合が特にフランスとドイツの連携により強力に進められたこともあり、「ジャン・クリストフ」というドイツ人を主人公とする作品が見直され始めた。
そんな中で、「ヴェズレイ日記」が出版された。70歳を超えてなお書く意欲旺盛であり、晩年の6年間にわたる日記だけでも1000ページを超える。
ブレーヴ村の教会と横の墓地
さて、「ヴェズレイ日記」によりロマン・ロランがクラムシーの近くの小さな村ブレーヴ( Breve )の村の墓地に埋葬されていることが分かった。カミサンとまずはブレーヴの村を訪ねた。拙宅からクラムシーまで約50km、田舎道を走る。クラムシーは素通りしてヴェズレイ方面へ県道951を7.5km, ドルヌシー(Dornecy )という街まで行き、そこからコルビニー( Corbigny )方向への脇道D985に入る。ドルヌシーはカミサンのよるとジャガイモの産地でたまにしか近所のスーパーで売ってないが、特別旨いという。クラムシーの町にはヨンヌ川が流れているが、ドルヌシーからは支流のアルマンス川という小川になる。ほんの1kmも行かないところにブレーヴの村はあった。
日記の編集者ジャン・ラコストの解説によると、1944年12月30日にロマン・ロランがヴェズレイで没すると、作家のルイ・アラゴンとフランス作家委員会は、ス・スワール紙に「ロマン・ロランの遺体をパンテオンに埋葬すべきだ」とキャンペーンを張った。パンテオンはソルボンヌ大学の南側の小高い丘、サント・ジュヌヴィエーヴの頂に立つ丸いドームの建物でフランスの偉人を祀る霊廟となっている。ここには、ヴォルテール、ジャン・ジャックルソーはじめヴィクトル・ユゴー、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デユマ(父)、アンドレ・マルローなどの作家の他、ピエール&マリ・キュリー(科学者)、ジャン・ジョーレス、ジャン・ムーラン、ジャン・モネ(政治家)、ベルグソン(哲学者)が祀られている。
アラゴンらの主張は、ロマン・ロランはシャルル・ペギー、アンリ・バルビュスの友人であり、「ファシズムに反対し、フランスのために聖なる同盟の象徴となるべき」というものだった。シャルル・ペギーはロマン・ロランの教え子であり、彼の発行した個人雑誌「カイエ・ド・カーンゼンヌ(半月手帖)」にロマン・ロランは「ベートーヴェンの生涯」と大河小説「ジャン・クリストフ」を掲載した。ジャンクリストフは1912年に脱稿し、この小説によりロマン・ロランは1916年(50歳)に1915年度のノーベル文学賞を受賞した。シャルル・ペギーは詩人で熱烈なカトリック愛国者、アンリ・バルビュスはアラゴンとともに共産党のレジスタンス作家。1933年にパリで「反ファシスト国際委員会総会」が開かれた際、ロマン・ロランはルイ・アラゴンとともに名誉議長を務めた。
アラゴンらの主張に、ル・フィガロなど保守系の新聞が反対した。ロマン・ロランを聖堂入りの賛辞を捧げるのならば、その前にシャルル・ペギーを祀るべきであり、ペギーの熱烈なカトリック愛国主義は具体的で本物だが、ロマン・ロランの愛国心は抽象的だと批判した。キリスト教民主主義のガブリエル・マルセルとモーリス・シューマンはアンリ・ベルグソンとの関係でロマン・ロランの聖堂入りを反対した。
ロマン・ロラン自身は、パンテオンなどという大層な国家の石造りの霊廟に祀られでもしたら石の重みに押しつぶされてしまう。そんなところより街の喧騒から離れた静かな自然の中に葬られたいと望んでいたようだ。
結局、ルイ・アラゴンのパンテオン埋葬運動は実を結ばず、ロマン・ロランはひとまずクラムシーの墓地の両親の傍に葬られ、ついで1946年10月22日にブレーヴの、のどかな田園の中の墓地に埋葬された。
墓があるとすれば教会脇の墓地のほかないだろう。墓地の入り口の門柱にはグレーの御影石の上に優雅なイタリック体の金文字で「ニエーヴル県の作家ロマン・ロラン 1866-1944 ここに眠る。1945年ノーベル文学賞」と彫られていた。どうして受賞が1945年となってるのかは分からない。1916年受賞なのに。
こうして、われわれ夫婦はブレーヴの村の教会を目印に進み、墓地の中を探して、白く大きいが平たいだけで花もなにも供えられていない墓石を見つけた。
墓石には
「ROMAIN ROLLAND
ET
SA FEMME MARIE
ロマン・ロランとその妻マリ」
と彫ってある。
ロマン・ロランはいちど離婚している。
ヴェズレイで晩年を共にしたのはサーシャ Sacha という
ロシア女性ではなかったか?
調べてみると、サーシャの本名は マリー・クーダチェヴァ( Maria Koudacheva )といい、ロマン・ロランがモスクワから秘書として招いた女性で、二人は1934年に結婚している。
墓地の周辺は、ロマン・ロランが望んだ通り、のんびりした牧歌的な田園風景が広がっている。
それにしても、ロマン・ロランとマリーの墓には花ひとつなく、あまりにそっけなく寂しいので、無神論だが、ネコのデイナの事故死にもいまだ涙を流すカミサンは、もう少し暖かくなりバラが咲くシーズンに、もう一度来て、花を捧げようと言い、ロランが日記に書いている7月の散歩コースを辿りにロルムへの道を取った。
(つづく)

