ネヴェール( Nevers )はパリの南225kmに位置し、ロワール河畔にある古い街。ニエーヴル県の県庁所在地で人口3万7千人、周辺を含めると10万人という。ブルゴーニュ地方を構成している4つの県のひとつ。ヨンヌ県、ニエーヴル県、コートドール県、ソーヌ・エ・ロワール県の4つ。ブルゴーニュの名は5世紀に定住したブルグント族に由来する。
16世紀の終わりイタリア人の陶芸家オーギュスト・コンラッドを招き陶器製造を奨励したため、17世紀にはフランスの焼き物の中心となったほど隆盛を極めたが今はその面影しか残っていない。ルーアン焼きと似て少し厚ぼったく黄色や橙、青など色彩も似ている。
街の入り口に大型の自動車代理店や農機具の店が並ぶくらいでこれといった産業はない。もっともブルゴーニュ・ワインの一角を占めているのでやはり農業が中心といえるか。
近年、F1のレース場を作り、数回サーキットでレースが行われたが、ホテルなどインフラ整備が十分でないとの理由で、フランスはF1レースの会場から脱落した。
めぼしい建築物は、ネヴェール公爵の館とカテドラル。ふたつとも触れ合うようにして古い街の高台に聳えている。
まず公爵の館( Palais ducal )。館の前が大きな広場になっていて、そこからのロワール河の眺望が良かった記憶があるので、まず見晴台へ行ったのだが、記憶にある光景は夏のもので木々の緑に眺望の半分が覆われていたため醜いビルがあることさえ知らなかった。左半分を20階建てくらいの老朽化したビルが塞いでいたのにはがっかりした。記憶は美化されてしまうらしい。
館はルネッサンス様式の立派なもの。ブルゴーニュ地方の特徴でもあるオーカー色の壁とスレート葺きの黒い屋根のコントラストがいい。ネヴェールの公爵はポーランドからお妃を迎えた。館の主塔の下には銘板が貼ってあり、マリー・ルイーズ・ド・ゴンザーグ・ネヴェール(1611~1667)とある。
15世紀にネヴェール侯爵(コント)だったジャン・ド・クラムシーのために建てられ、16世紀にクレーヴ家によって改築された。現在は市庁舎、観光局、博物館として一般に公開されている。1980年には、時の市長で首相だったピエール・ベレゴボワによって改修工事が施された。
少し悲しい話になるが、この館で1994年5月4日ミッテラン大統領によりベレゴボワ氏の葬儀が行われた。その3日前5月1日にベレゴボワ氏はピストル自殺を遂げた。自殺の原因はいろいろ取りざたされたが結局は判らない。反対派から不動産売買に関して不正があったと刺されたり、もっと重要なことは、社会党が選挙で大敗し、ベレゴボワはその責任を感じ、潔癖で責任感の強いこの人の心を傷め鬱病に罹っていたとか。ミッテラン大統領は葬儀に際してベレゴボワ氏の名誉を擁護する言葉を送ったが、選挙に大敗した時は、大統領はじめ社会党の同志は誰もベレゴボワに声ひとつ掛けなかったという。政治という過酷な世界の中で孤独に落ち込んでいったのだろう。
日本とフランスの関係拡大、密接化にベレゴボワ首相は非常な尽力をされたこともあり残念なことだ。ユダヤの家系の出で大学へも行かず独学で首相になった。
サン・シル・エ・サント・ジュリエット教会という長い名前。サン・シル( Saint-Cyr )は起元304年ローマ皇帝デイオクリトスによって殺害された3歳の殉教者でジュリエットはその母親。教会には長い年月、この二人の殉教者の遺骨を守ってきたのだが、1224年の火災で失われてしまったという。面白いのはシャルルマーニュ(カール大帝)とイノシシの逸話。ある晩カール大帝がこの地に泊まり夢を見た。イノシシに襲われ身に危険が迫った。その時、裸の幼児が現れ、服をくれればイノシシを退治して助けてやるという。大帝が服をくれてやるとイノシシは逃げ去り助かったという。この夢に話を大帝が聖堂の司祭に話すと、その子供はサン・シルですよ、と言った。大帝とイノシシとサン・シルのレリーフが彩色されて現存する。
サン・シル・エ・サント・ジュリエット教会という長い名前。サン・シル( Saint-Cyr )は起元304年ローマ皇帝デイオクリトスによって殺害された3歳の殉教者でジュリエットはその母親。教会には長い年月、この二人の殉教者の遺骨を守ってきたのだが、1224年の火災で失われてしまったという。面白いのはシャルルマーニュ(カール大帝)とイノシシの逸話。ある晩カール大帝がこの地に泊まり夢を見た。イノシシに襲われ身に危険が迫った。その時、裸の幼児が現れ、服をくれればイノシシを退治して助けてやるという。大帝が服をくれてやるとイノシシは逃げ去り助かったという。この夢に話を大帝が聖堂の司祭に話すと、その子供はサン・シルですよ、と言った。大帝とイノシシとサン・シルのレリーフが彩色されて現存する。
カテドラルのユニークさは、クール(Choeur=内陣)がふたつあること。ひとつは西側でロマネスク様式。ひとつは東側でゴシック様式。
1944年7月16日の連合国の爆撃機は、ナチス・ドイツが確保していた鉄道の武器弾薬、資材置き場を狙って爆撃したのだが誤って爆弾が大聖堂を直撃し、大破、ステンドグラスの破片は200m先の広場まで飛んだ。同じ県内の町クラムシー生まれの作家ロマン・ロランは晩年ヴェズレーに住み、若い恋人が爆撃で崩れ落ちる教会の下敷きになる話を書いた。
20年を掛けて聖堂は再建されたが、破壊されたステンドグラスは取り戻せない。現代のステンドグラス・アーチスト数人が、制作したものが聖堂の窓を飾っている。古い躯体とマッチして、それなりに良いものだ。ジャン・ミシェル・アルベロラ、クロード・ヴィアラ、ゴットフリート・ホネガー、ラウル・ウベック、フランソワ・ルアンなどフランス人だけでなく、イタリア、ドイツ、ユダヤ系の名前も見られる。いくつかのモダン・ステンドグラスをご紹介しようと思う。












