たとえば「義」(あるいは理義)という言葉が兆民の書いたものの中に良く出てくる。普遍的な原理という意味にとれるが、この言葉を遡ってゆくと孟子の「仁義」に辿り着く。孔子の「仁」とは忠恕=真心と思いやりで、これに孟子は「義」=事物に適切であることを唱えた。
孟子の説いた考えでいちばん知られているのは「性善説」、「人は生まれながらにして善である」という考えなのだが、他にも孟子は、「仁義」、「王道と覇道」、「民本」さらに「天命」ということを唱えた。
孟子は君主は利益でなく仁義によって国を治めるべきであり、そうすれば小国であっても大国に負けることはないと説いた。「天下を得るためには民を得れば良く、民を得るためにはその心を得れば良い。国民は安心した暮らしを求め、人を殺したり殺されたりすることを嫌うため、もし王者が仁政を行えば天下の民は誰も敵対しようとはせず、自分の父母のように仰ぎ慕うようになる。(「仁者敵無し」梁恵王章句上)。
また、「君主は覇道でなく王道を行うべきだ」と「王道」と「覇道」ということを唱えたのも孟子で、これについては後で孫文について書くときに触れたいと思う。
さらに孟子は、「民本」と「天命」ということを唱えた。「民を貴しと為し、社稷(シャショク、五穀の神=国家の祭神)之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)つまり、政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと説いた。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないとした。
従って「天命」という言葉もそこから導き出される。古代中国の祖とされる舜は天下を天から与えられて天子となったのであって堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけである。ではその天の意志、「天命」はどのように示されるかといえば、それは直接にではなく、民の意志を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断される。
賢明な諸氏はもうお分かりのように、これは中国の革命思想である。悪しき為政者ならば人民が力を合わせ武力をもってしてでもこれを倒して良い。仁義のない「残賊」に天命はなく、下臣、人民は他の天命を得た仁義による王道を為し得る為政者に代えて良いという説であり、西洋の、特にルソーの社会契約説に酷似している革命論ではないか。
兆民は「人民は本(もと)なり、政府は末なり、人民は源なり、政府は流れなり、人民は表(しるし)なり、政府は影なり。……官は末なり、民は本なり、官は流れなり、民は源なり、官は手足なり、民は脳髄なり。」という言葉で孟子とルソーと同じ考えを表している。(国会論」1888年)
この「国会論」の1年前に兆民が徳富蘇峰主催の「国民之友」に寄稿した「三酔人経綸問答」(さんすいじんけいりんもんどう)は国会開設が実現し、自由民権運動が沈静化し、こんどは条約改正など対外関係における「国権論」に関心が向くようになった明治20年代の世論を3人の登場人物に託したデベート物語である。
洋学紳士(紳士君)、豪傑君、南海先生が酒席で議論を戦わせる。紳士君は当時日本に紹介されていた社会進化論を用いて、フランス、ドイツなどヨーロッパ列強を批判し、完全民主制による武装放棄や非戦論など理想論を説く。これに対して豪傑君は中国進出を主張。両者の論争を現実主義的立場に立った南海先生(太平洋に面した南国土佐出身の兆民自身の投影と考えられる)が調停する。
兆民は酒を好み、飲むに従って気宇壮大、夢は天下を駆け巡り、しかも繊細で鋭い分析力を備えた談論を風発した人で、福沢諭吉とは正反対の気質を持ち、夢を大きく持ちながらあらゆることに手を出しては失敗ばかりした「ダメ男」の典型みたいな人物だった。五十四歳で喉頭癌の為に亡くなるのだが、寿命があと1年半という時に書き遺した「一年有半」には「民権自由の思想は西洋だけのものではなく、ルソーなどが出てくるよりもはるか昔に東洋にはあった思想だ」と書いている。
「民権自由は欧米の占有に非ず」
○民権是至理也、自由平等是大義也。此等理義に反する者は竟(つい)に之が罰を受けざる能わず、百の帝国主義有りと雖ども此理義を滅没すること終に得可からず、帝王尊しと雖ども、此理義を敬重して茲(ここ)に以って其尊を保つを得べし、此理や漢土に在りても孟軻(孟子のこと)、柳宗元早くこれをしょ破せり、欧米の占有に非ざる也。
中国では紀元前から孟子が、8世紀の詩人の柳宗元が、西洋でルソーが説いたよりも千年以上も前に主権在民を説いていると。兆民の思いの根源には、こうした日本という狭い国土と文化に限られない土着の広いナショナリズムが心の底にあったわけで、むしろそうであったればこそ、ルソーの天賦人権論をたやすく理解できたのだろうと思う。
(つづく)