Postscript 第1章 麻紗子編②

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礼拝堂を後にし、アルノを目指す。

シニョーリア広場を突き抜けて行く。

緑の出窓がクリームや桜桃の壁の中央に一列に配置されている、そんな古めかしい建物が橋の上に並んでいる。

ポンテ・ヴェッキオだ。

その名の通り古めかしい橋で、階上はウフィツィ宮とピッティ宮殿間を繋ぐ渡り廊下になっている。

当時の貴族たちが庶民の目に付くことなく行き来するために、と建てられたものらしい。

茶褐色の川の濁りもその頭上の建物との色合いのため、、、

麻紗子にはそんな気がしてならない。



- イタリアという国はね、”茶”という色を一番シックで素敵なものにしてくれるんだ。



初めてこの街を訪れた時、口癖のように彼が言っていた。

この橋の袂に立ち、ようやくその言葉の意味を解したような気がしている。

画布上の鳶色の瞳は、この川の色と少し似ている。

雨上がりの色合いが最もそれに近い。

透明な滴を混ぜ合わせたものだから。



麻紗子は橋を渡らずに、アルノ川を左手に見ながら川縁を歩いて行く。

ヴェッキオ橋からちょうど二つ目となるカライア橋、この橋を渡りたいから。

橋を渡り、左に折れる。

この辺りにはアンティークの店が多い。

シャンデリアや大理石で出来た調度品が惜しげもなく置かれている。

ここに夫と一緒にいたりでもしたら、きっとこれらの品々の多くを空輸したいと言い出すに違いない。



”もの”にも適材適所がある。

最近になって、麻紗子は殊更に実感している。

白金にある夫との邸宅。

そこにも先ほど目にしたような大理石の家財が置かれている。

こちらでは違和感なく馴染むそれらも、あちらではなんだかしっくりとこない。

もちろん、口にすることなどはないのだが。



白金では麻紗子は茶室で過ごすことが多い。

季節の草木を活けながら、庭の濃緑や池の中の魚の泳ぐ姿も同時に楽しんでいる。

夫の立ち入ることのない空間。

もっとも日本を感じながら、同時に異国へと想いを馳せることの出来る唯一の場所だ。

 


ポンテ・ヴェッキオにさしかかる。

またもこの橋は渡らずに、背を向けて歩いて行く。

ピッティ宮殿内にある、ボーボリ庭園からのこの街の眺めも麻紗子を幸せな気分にしてくれる。

遠くでエンジの屋根を細長い糸杉の深緑が遮っている。

初めてこの国を訪れた時、姿こそ違うものの、ヒノキの高木が存在するのには随分驚いたもの。

あの頃は、ヒノキ科の常緑なんて日本独特のものだと思っていたから。



グラッツェ橋を渡り、帰途へ着く。

この橋を渡らずに先へ向かったその方角に彼の家が在る。

もっとも、麻紗子は未だ訪れたことはない。

オルサンミケーレ教会の程近くにあるアトリエ。

麻紗子が知っている彼の持つ空間はそこだけ。

そんなことはどうでもよいこと。

人生には取るにも足らないことが山ほどある。

家もそのうちの一つにすぎない。



実際に彼は、その家に帰ることはほとんどない。

アトリエが彼を”彼らしく”してくれる最高の場所だから。

週末や仕事が落ち着いている時など、彼はすぐに島に出向いてしまう。

彼に言わせると『島は地上で唯一平穏な生活が営める場所』なのだそう。

ちなみに、彼の一番のお気に入りの島はサルデーニャだ。



散歩の締く括りは美味しいパニーノを調達すること。

麻紗子の定宿の目の前に、この街でも有名な老舗ジェラテリアがある。

その隣にあるパニーノ屋が麻紗子のお気に入りだ。

今日はサラダと小エビのカクテルがサンドされたプチバケットとガス入りの水、そしてヨーグルトも買う。

北欧を思わせる顔立ちのこの店のシニョーラとは、今やすっかりと顔馴染みとなっている。

突然押し寄せて来た空腹感と共に店を後にする。



木扉の前で、煙草を手に空を見上げている。

彰二だ。

ひと月ぶりなのに、一年ぶりの再会のような心地で麻紗子はゆっくりと彼に近づいていく。(続)


 

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