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   1月20日、 トランプ大統領が誕生した。

 

    この思いもよらぬアメリカ大統領の選択に、世界が混沌の渦中に飲み込まれていくような、違和感をむき出しにした。その一方で、日本では株価の高騰や円安が進み、想定外とも呼べるような経済の活況が今なお続く。「ガラガラポン」というような言い方をした人がいたが、8年前のリーマンショックから広がり始めた世界経済の停滞は、淀んだ池を混ぜかえすことによって、よくも悪くも資本主義以外の亜種生物の住処になると見たのだろう。だがその生物の正体は、今なお不明である。それは世界経済そのものが先の見えないカオスと幽冥期のなかに置かれているからだろう。したがってアダム・スミスやケインズが唱えた経済の方程式では、説明がつかなくなりつつある時代を、私たちは迎えようとしている。

 

    トランプ大統領の登場も、先に起きたイギリスのEUからの離脱も、自国第一主義に照らされたものだった。「国益」という言葉がそうであるように、世界の国々はこの「国益」の多寡によって、政治・経済の良否を判断する。すなわち、自国の国益を、国民の多くは「自益」であると判断し優先する。それが保護主義につながろうが、ナショナリズムに傾こうが委細は構わない。さらに言えば、「自益」にそぐわない「国益」なら取捨すべし、という主帳にまでつながり、それが今日、世界を覆い始めたポピュリズム台頭の経緯でもあろう。

 

    くりかえすが、トランプ氏が唱えた自国第一主義は、国益を自益ととらえ、生活の「権益」ととらえるアメリカ国民にとって、至極もっともな選択であったと言える。多くの富裕層はタックスヘイブンを通じて富の寡占化を計り、企業は企業で安い労働力を求めて、国益を鑑みない「漂流」を続けている。トランプ現象は短期的な「国益」を計ろうとする自国優先思想と、生活の「権益」を守ろうとする民主思想と、自社利益を追求しようとする企業論理の三角関係から生じたグローバル資本主義の帰趨であった。

 

    社会思想家の佐伯啓思氏は国益について次のように言う。「世界中が自由市場でつながれると同時に、世界中がそれぞれの国益の実現を目指すというこのグローバリズムの時代には、なによりもまず、各国が、それぞれの国々の『国益』を再定義して、さらにそれをいかに実現するかを、改めて論じなければならなくなったのです。」「『国益』とはただ強い国なるとか、豊かな国になる、といったことではなく、どのような国をわれわれは構想するのか、という価値選択の上に定義されるべき概念です。」

 

    しかしながら、佐伯氏がいう「国益の再定義」も、国家の構想というような理想的な「国益」の追求も影をひそめ、「強い国、豊かな国」という「自益」を主体にした「国益」をアメリカ国民は選択した。

 

    この潮流はおそらく他の先進国にも飛び火するだろう。どうしてなら「富の再分配」という経済の原則、いわば倫理的側面が金融資本主義の名のもとに、破綻をきたしているからである。どの先進国でも、「国益」の概念は格差社会を嫌悪する「民意」という多数意見もとで組み立てられてきた。淀んだ水と「富の偏在」をかき混ぜようとする「ガラガラポン」は、この先、どの国でも起こりうることと思はねばならない。

 

    1月20日、トランプ氏が語った「国益」とは次のような内容である。「私たちは世界中の国々との友好と親善を求めます。しかし、私たちがそうするのは、すべての国々が自己の国益を第一に考える権利があるという理解のもとにです。」と言う。すなわち、暗に言わんとするところは、国益の定義は、まず「自己(アメリカ)の国益」が先にたち、そこから「あなたたちの国益」を導けばよいというのである。

 

    国益の定義は「あなたのみの利益、私のみの利益」という二分法から導かれるのではなく、「ともどもの利益」という双方共に共有できる概念でなければならない。これは必ずしも理想論ではなく、「道理」という言葉の範疇にある。なぜなら自国の「国益」は、相手にとっての「国益」に繋がらなければ意味を成さない概念だからである。

 

   トランプ氏が考えている「国益」とは、 相手の影を踏みつけたなら、相手の本体が逃げて行ってしまうという、想像力をもたない「影踏み」ゲームのようなものである。

 

中井龍彦

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