今週の闇金ウシジマくん/第460話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第460話/ウシジマくん46

 

 

 

 

 

 

 

 

 

風俗でぼったくりにあったという男が交番に駆け込んでいる。1万円っていわれたのに1時間で80万請求されたと。そりゃまたものすごい落差だな。でも、おまわりさんはとりあってくれない。民事不介入ということで、ぼったくりにかんしてはどうにもならないみたいだ。だから、「客引きは100%ぼったくり」などという看板があっちこっちにある。そこから先はじぶんで判断していかなければならないのだ。

それを笑いながらみている男がいて、これは巳池というヤクザの子分である。ホストクラブのケツモチでもしているのか、巳池はホストからも金を受け取っている。それとも、いまはケツモチとかうるさいし、個人的に金を徴収している感じなのだろうか。そして、これが、10年前の描写で、熊倉を迎えにいこうとする滑皮にアイスを買ってこさせようとしていたハナクソおじさんである。あのときからすでにおじさんだったのにあんまり変わってないな。若いころ老けてるひとは年とってもあんまり老けないっていうからな。ともあれハナクソおじさんに名前がついてよかった。

 

 

そこに、滑皮の車が通りかかる。運転手の梶尾が、巳池のアホが今日もアホ面で小銭集めてると、いきなりパンチラインである。

滑皮はハナクソの件をしっかり覚えている。気持ち悪くて服を捨てたかったけど金がないから熱湯消毒したらしい。巳池の因縁はあれだけではなく、年中そんなことをしてきたらしい。その悔しさをバネに滑皮は大きな存在となった。ある意味、巳池には感謝しないといけない。だが、豹堂の子分やってるってだけで終わってるとも付け加える。

 

 

麻雀中の豹堂のもとに、巳池が金を届けにくる。今日の上がりっていってるけど、これ万券かな? 巳池みたいなタイプでも一日でこんなに稼ぐのか・・・。

上納金やらなんやらで金ばっかかかってしかたない、というようなことを雑談的に豹堂がいうと、巳池が今日滑皮を見かけたはなしをする。以前豹堂が別の子分と話していたときも、滑皮の稼ぎ方は話題になっていた。直接動いているのはおもに獅子谷甲児である。しかし、前回わかったように、滑皮は株にも手を出している。稼ぎ方を選ばないのだ。それが、古いタイプのヤクザである豹堂は気に食わない。ヤクザは漢字で書くと役座、義理人情でひとの役に立ってナンボだと豹堂はいう。だが、いちおうこの場では、巳池の言葉を受けて、「どいつもこいつも金金金」といっているだけで、滑皮を名指しで罵ってはいない。ただ、滑皮をその代表として受け取って、ヤクザの現状を嘆いているだけだ。麻雀中でけっこういろんなひとがいる前でもあるし、年齢的にも下な別のヤクザの悪口をぺらぺらいうのもかっこわるい、みたいなことだろう。

 

 

 

滑皮、梶尾、鳶田の三人は釣りにきている。そこで、滑皮がふたりに理想をたずねる。ふたりは、この身を捧げて親父がトップになることだという。現実がうまくいっていないやつはでかい理想ばかり吐く、理想をかなえるなら力つけて実行しないとと、まるで豹堂と巳池の会話を聞いていたかのようなことを滑皮がいう。

滑皮がザリガニを釣り上げる。とはいえ一番乗りだと、ふたりは持ち上げるが、ふたりとも餌をつけていなかったのを滑皮は見ていた。真剣に勝負しろと。見ていて、その場で注意はしない。餌をつけず、先に親父に釣らせようとするふたりの意志をくんだのである。

ここで滑皮の豹堂へのおもいが明らかになる。豹堂は若手に嫉妬ばかりしている愚鈍な老害、奴を力でねじふせてやると。

 

 

そのころ、例の吉澤の件に進展がある。株が暴落して売りが殺到していると。このままだと上場廃止になりかねないと、黒河内のことを警戒していた会社の顧問がよっちゃんに電話で説明しているが、よっちゃんはどこまではなしを理解しているのか、当惑気味だ。おれもよくわからんよ。株が暴落したってことは、もう黒河内は滑皮に返すぶんの金は抜いたってことなのかな。とりあえず黒河内から連絡を受け取った滑皮は、はなしがうまく進んでいると受け取ったようだ。

 

 

 

 

 

 

「情報を制したものが勝つ。

何も知らない一般投資家は食い物でしかねぇ。

 

 

成功する秘訣は、まわりから能力を吸いとって拡大成長することだ。

 

 

その範囲が大きければ大きいほど負担に気づかせずに吸収し続けられる」

 

 

 

 

 

 

 

鳩山の自宅に豹堂がきていて、600万ほど机のうえに積んでいる。フェイスブックで鳩山がダイエットをはじめたのを見たので、それが成功したときに新しいスーツでも買ってくださいということだ。そこになぜか滑皮もやってくる。両手にアタッシュケースをもっており、それにみっちり金が入っているようだ。豹堂もだが、鳩山もちょっと緊張の面持ちになっている。滑皮も、フェイスブックで鳩山が晴れた日に釣りをしたいといっていたのを見て、クルーザーでもと、ものすごい大金をもってきたのである。のびのび釣りをするなら40フィート以上の大きさで、鳩山はオシャレだからなになにとかなになにがオススメだと、滑皮は述べていく。パンフレットをつけてあるから、それを見て選んでくれと。しかしなんとなくめんどくさそう。鳩山もそんな気がしていたから、これまでクルーザーをもとうとしないでもなかったがあと一歩が踏み出せなかった感じだ。それを聞いて豹堂はちょっと笑っている。

しかし滑皮はぬかりない。後輩にマリーナの経営者がいるから、維持管理費はかからないと。さらに、滑皮じしんが小型船舶免許をとったから操縦も問題ない。

鳩山もこれにはうれしそうである。なにもかもやってくれるっていうんだから。しかし豹堂は当然、嫉妬を燃え上がらせるのである。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

鳩山は別に誕生日とかではないっぽい。誕生日だったらさすがに到着したばかりの滑皮がなにかひとこというだろう。だから、なんでもない日のなんでもない時間に、豹堂と滑皮は同時に鳩山のことを思い出して、しかも金をもってきたことになる。ふつうに考えてそんな偶然はありえないので、これはおそらく滑皮があえてぶつけてきたのだろう。たんに鳩山の印象をよくするだけではない、どこかから豹堂が金をもって鳩山のところに行くというはなしを聞きつけ、彼をぶっつぶすつもりでやってきたのである。

 

 

ヤンキーくんの終わりのほうでも滑皮は鳩山にベントレーをプレゼントしていた。あのときは滑皮がまだいる前であっさりそれがお気に入りのキャバ嬢に渡り、まだまだ彼が小物のあつかいであったことが明らかになっていたが、今回はなにもかもがそれと異なっている。ポイントは、両者とも現金をわたしている、そしてフェイスブックを見ているということである。

豹堂は、フェイスブックで鳩山が健康のためにダイエットをはじめたということを知った。なので、痩せたときにスーツを新調してくださいと、金を積む。たほうで滑皮は、フェイスブックで鳩山が釣りをしたがっていると知った。なので、これでクルーザー買ってください、なにもかも面倒みますと、金を積む。これをごくたんじゅんに受け取ると、滑皮に比べて豹堂は少し現実から遠い。つまり、鳩山の願望として「痩せたい」と「釣りしたい」のふたつがあって、豹堂は前者に対して「痩せたら使ってください」と金を渡し、滑皮は「これで釣りしてください」と金をわたすのである。滑皮のほうが鳩山の願望充足により近いのだ。

なぜこういうちがいが生じるかというと、むろん金の問題がある。もし豹堂が「痩せたい」という鳩山の願望に直接応えようとすると、通常なら、流行りのダイエット器具でも、ということになるが、何百万というのが最低ラインであるような彼らで、横になるだけで腹筋が鍛えられる機械とかの金をわたしてもしかたない(だいたいそれを鳩山はすでにもっている)。そうなると、たとえばジムをまるまる買うとか、家を増築してホームジムを建設するとか、そういうことになる。しかし、豹堂の持ち金ではとうていそういう発想にならない。しかし滑皮はそれができる。だから、滑皮は「釣りしたい」の欲望にそのまま応えることができるのである。

そして、ここでは現金がわたされていることも重要だ。彼らがどういっても、その使い道は自由だろう。たんに金をわたす際の但し書きが必要だからそうしているというだけのことだ。

滑皮はかつてベントレーをプレゼントして適当にあつかわれた。あのときの彼といまでは立場が全然ちがうので比較にならないが、それでも、そのプレゼントが果たして鳩山のほんとうに喜ぶものだったかどうか、疑問がないでもなかった。車というのは、高いものの代表みたいなものだから、そういう意味で高級車をプレゼントすることは意味があったかもしれないが、同時に好みも出る。つまり、あの時点では、今回のようなフェイスブック的な要素がなかったのである。

今回のふたりにはその要素が含まれる。だが、たとえばそれが、すでに購入したクルーザーとかではないわけである。鳩山は、その現金をどう使ってもよい。が、そこには札がついている。あなたのことをよく見ています、気にしていますというしるしである。どうしてそういう但し書きが必要なのかというと、金というのはふつうなんらかの価値ある事物に支払われるものだからだ。上納金というのがどういう頻度で動くものかわからないが、それはそれで別にあって、それ以外にこうして金を積むことで、彼らは印象を買うことになる。上納金以外の文脈で金をわたすとき、そのまま印象を買うつもりで金をわたせば、鳩山は売り手に、豹堂たちは買い手、要するに客になってしまう。それを回避するには、「これは印象を買うためのものではない」という説明が必要になる。関係性が明確である親と子のような関係であってさえ、たとえば月がかわったからとお小遣いをわたしたり、なにかいいことをしたからと臨時でお金をわたしたりということになる。なんの理由もなくお金をわたすということは、通常できないのだ。だが、彼らにとっての理由である「印象を買う」ということは、露骨に表明されてはならない。だから、彼らはフェイスブックで鳩山の欲望を探すことになる。そして、それは同時に「あなたのことを気にしています」というメッセージにもなる。滑皮がかつてそれを車に変えてわたしたことも、もともとは「印象を買う」ということを隠蔽した結果だったはずである。しかし、そこに鳩山の自由はない。現金は、鳩山の好きにしてよい。だがそこに付け加わる但し書きが、かつてそれがベントレーであったことのかわりになっているのである。

 

 

 

そういう背景があったとして、両者のちがいは露骨にもっているお金の量で決定している。滑皮のいう「力」には、むろん暴力も含まれているだろうが、とりあえず最初の一手は、金にものいわせた鳩山の願望充足だったわけである。なにしろ、豹堂が素朴に痩せたらスーツ買ってくださいとかいってるとこに数億もってあらわれてクルーザーかってくださいなにも考えなくていいです免許もとりましたとあらわれるのだから豪腕である。これでは豹堂は立場がない。ふつうのカタギの世界だと、こういうことをする人間は嫌われるし、金を受け取る側の鳩山も豹堂を気遣っていい顔はしないだろう。しかし、組長である鳩山にはメタ目線もあるにちがいない。なぜ滑皮がこういう行動に出ているか、どういうつもりで豹堂にぶつかっていくのかということも、鳩山ならわかるはずだ。義理人情も大切だが、まったく稼げないのではやっていけないし、豹堂もそういう立場にあることを理解しているはずだと、鳩山にもわかっているはずなのだ。

 

 

 

豹堂は、滑皮と比較すると際立つが、ごく標準的といえば標準的、典型的な古いタイプのヤクザである。義理人情で動いて、ひとびとの役に立たなければならないとくちにするが、だとすればカタギになってふつうに労働をすれば済むことである。違法行為で稼ぐものが義理人情を語ることは可能なのだろうか。

刃牙道という格闘漫画で、ヤクザの花山薫が警視総監に土下座されて宮本武蔵討伐に出向くことになったときにくわしく考察したが、豹堂のいう義理人情、端的に「義」を、ここではルソーのいう「憐れみの情」と同義であると考えたい。法のない自然状態の世界は普遍闘争に陥るとしたホッブズを、ルソーは否定する。なぜなら、ひとには「憐れみの情」が備わっているからである。ひとの痛みを感じ取る機能だ。そのときに用いた比喩的状況だが、ペット禁止のアパートに住んでいるものが、冷たい雨に打たれてニャーニャーないている捨て猫を目撃し、連れてきてしまう、その感情がそれであると、僕は考えた。

僕の考えでは、ひとの原動力となり、同時にそれを規制することにもなる枠組みには三つの段階がある。いちばん外側にあるのが文章に起こすことの可能な論理的な「法」である。法は、豹堂のような存在を、違法か合法か、線を引いて区別することを可能にする。善悪でも正不正でもなく、そこにあるのはたんに違法か合法かという解釈だけである。次にくるのがフロイトの良心である。ここでいう良心とは、内面化された父のことだ。エディプス・コンプレックスと呼ばれる状態で、ひとは幼い段階で、母親との親密な関係を維持したいと考えるが、そのとき父親が邪魔になり、排除したいと考える。しかし父親はじぶんよりずっと強いのでできない。だから、子どもはそれを内部に取り込んでしまう。父のようになることで排除の欲求を沈静化させ、これを克服するのである。父は、母親との親密圏のすぐそばにいる、いわばもっとも近い他者である。父は、親密圏に走る亀裂の向こう側にわずかに見える、他者が入り乱れた不如意の世界を身につけたものとしてじしんに取り込まれ、超自我という審級にかわる。これが、経験的なものごとのよしあしを判定する定規になる。良心は、経験的な善悪の判定を論理を超えたところで可能にする機能のことなのだ。そしてさらにその内側、良心以前のところにあるのが、「憐れみの情」である。なにしろ自然状態の原始的人類にさえ備わっていると、少なくともルソーでは推測されているくらいだから、これは身体が発する反射のようなものに近い感情だろう。まず、「ペット禁止」という明文化可能な「法」がある。そして、そうした「法」にはしたがったほうがいいという「良心」がある。けれども、あまりにも猫がかわいそうだとおもったあなたは、つい連れてきてしまう。ここにあるのは善悪でも違法合法でもない。ただ、かわいそう、痛そうという感覚だけなのである。

豹堂のようなヤクザが義理人情を語るのは、以上述べたように、そのもともとの姿が衝動的なものだったからである。原理的には、「法」は、みんながこうすれば、最大多数が穏やかに、幸福な日々を過ごすことができる、という計算をした結果導かれたものだ。しかし、誰もがそれを守って生きていくという保証があるわけではなく、イレギュラーな出来事は日々起こる。そもそも、小さな猫を道端に捨てていくような輩がいなければ、雨にうたれるその子を「かわいそうだ」とおもうような状況もなかったのである。こうしたぶぶんを拾うのが「義」である。であるから、原理的には、義に突き動かされたヤクザの行動は、必ずしも違法であるとは限らない。ただ、そうしなければならないという決意をともなうからには、それを行うものが少ないとか、社会的には推奨されないとかいう事情があるからで、それが結果として違法であることを呼び込むだけなのだろう。

 

 

ヤクザの存在理由には、豹堂がいうように、たしかにそういう面があったのかもしれない。「法」がとりこぼすひとびとのなんらかの不幸を、良心以前の正しさの感覚に基づいて解決しようと努めるありようが、むかしはあったのかもしれない。そして、それはいまもあるのかもしれない。それはわからないし、ここでは立ち入らない。ただ、問題なのは、前回考察したように、ヤクザのありようが「自然」なものではなくなっているということである。ヤクザくんで描かれた「世知辛さ」は、ヤクザ社会を相対化し、すっかり解体してしまった。滑皮はある意味そうした時代の申し子である。滑皮は、解体してしまったシステムを見つめなおし、ただ習慣的に与するのではなく、それがどういう規則で成り立ち、なにに向かっていくものであるかを再構築していった。滑皮じしんにそういう素質があったということもないではないだろうが、それよりも、そうしないことにはヤクザが成り立っていかないという切迫があったととらえたほうがよいだろう。豹堂は、風俗店のぼったくりや界隈では弱者であるもののケツモチ、また薬物など、ひとくくりにじぶんを被害者だといえないような、やましいところのあるひとびとを相手に金を稼いでいる。言葉通りなら、彼は、市井のひとびとの不幸を義によって解決するために、市井のひとびとのほんの小さなミスから大金を得ていることになる。これが豹堂のなかで矛盾しないのは、それが慣習的なものだったからだ。かつての日本では、半裸でいることはそう恥ずかしいことではなかった。イザベラ・バードの紀行文に出てくることだが、明治のはじめのほうまでは、田舎のほうにいけば女性でも上半身丸出しでいるものが多かったそうである。しかしそれは、西洋文化の輸入とともに次第に変容していった。決定的なのはどうも最初の東京オリンピックのようだが、ともあれ、外部からの目線が導入され、相対化されることで、そもそも自覚されることのなかったじしんのありようが「半裸」という形容を通過して認識されるようになっていったわけである。だからといって豹堂のいう古いヤクザ像、ひとびとのためにという大義のもと、小さな不幸で稼いでいくというありかたが全く讃えられていた時代がかつてはあったということにはならないが、特に問題とは意識されないときがおそらく続いたからこそ、これは慣習となっていったのだ。しかしそれは外部からの目線(暴力団的ありかたはおかしい)の導入とともに解体された。そのうえで、このありかたを持続したい滑皮は、その目的と方法をしっかり認識したうえで動かなければ維持すらできないと確信したにちがいないのである。そう考えると、豹堂も気の毒といえば気の毒だ。彼はたぶん、「世知辛さ」以前のヤクザを知っている。だから、現状をたんなる「状態の悪さ」くらいにしかとらえられない。しかし滑皮からすれば、ヤクザ業界はもう自然な制度としては終わっているのである。伝統と慣習にしたがってなにも考えずに身をゆだねていればよい時代は終わった。

 

 

滑皮がこうしたスタンスをとるのは、もちろん彼自身に野望があるからである。たんにヤクザのシステムを保持するだけなら、いまほど稼ぐ必要はない。梶尾たちのように、上下関係の維持を自覚的に努め、下からかっこいい兄貴とおもわれる努力をすればよい。しかし、では、かっこいい兄貴とはなんだろうか。梶尾たちは滑皮のためなら命をかけることすらできる。これは、順序としては、滑皮がかっこいいから、尊敬できるから、命をかける、ということになる。しかし同時に、滑皮においては、逆のことも起きている。つまり、梶尾たちが命をかけようとする、そのような兄貴でい続けなければならないという決意である。釣りの際、梶尾たちは滑皮にさきに釣らせるために餌をつけていなかったわけだが、滑皮はこれに気づいていながら、そ知らぬふりをした。「かっこいい兄貴を立てる」という子分の行動を尊重するためだ。ここでは、滑皮のほうからの「そ知らぬふり」という消極的な働きかけがなければ、梶尾たちのほうからの働きかけは成立しなかったのだ。これは、両者の関係がどちらが先というものではないということを示していると考えられる。そう考えると、彼自身の野望もまた、システムの再構築にあたってのものであるのではないかとおもわれてくる。ヤクザのシステムは、無自覚に享受するだけのものとしては、滑皮的には終わっている。だから、もしそれが「かっこいい兄貴」をまっとうしようとするじしんの邪魔をするものになるのであれば、排除しなくてはならない。たんに組長候補としてライバルであるだけではない。ヤクザのためにも、滑皮には豹堂が邪魔なのである。