日本におけるキリスト教 ② 神のあわれみ | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 ②」

 

暖かい気候に恵まれたゴールデンウイークに、「無教会」の「普遍的な神の愛の福音」を知りたい人たち向けに「神のあわれみ」について話しましょう。

 

内村鑑三先生は、「神はイエス・キリストにより、わが福音をもって、人の隠れたる事をさばきたまわん。ローマ書2:16」から、

 

「罪人の救い主なるイエス・キリストにより、パウロの伝えし恩恵の福音をもって、さばきたもうとのことである。

さらば、さばきは恐るべきことではなくして望むべきことである。」

 

「神は義罰の神ではない。罪を赦したもう神である。あわれみの神である。慈愛の神である。」と説きます。

 

「神のさばき」は、「神のあわれみ」と恩恵の判決であるから、恐るべきことではなく望むべきであると聞いて、「神のあわれみは想像を絶する」と驚嘆したのです。

 

 

個人的には、聖書に書かれている父親が悪魔でその欲望を満たすことを願い、他人に負えない重荷を負わせて、最も小さい者が助けが必要な時に、指の一本もかさないという悪魔から出た者たちのことは考慮していないという但し書きをしたいと思います。

けれど、内村先生はすべての人間のことを言われています。

 

 

イエスさまは「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とは、どういう意味か行って学んで来なさい。と命じられました。

 

それが、生前までは「あわれみ」を好まれて、死んだ後では「生前に、わたしを信じなかった者は、どいつもこいつも地獄行きだ!」というような、いけにえを超絶に好むような神さまではないということです。

 

 

ギリシャ語の「あわれむ(スプランクニゾマイ)」は、「はらわたが痛む」という言葉です。

ヘブライ語の「あわれむ(ラハミール)」は。「子宮(レヘム)」の複数形です。おなかを痛めて産んだ我が子を愛する母親の思いを現わしていると言われています。

 

母親が我が子を忘れることはなく、人間を造られた神さまは手のひらに刻まれて、永遠に忘れることはないと聖書は明確に教えています。(イザヤ49:15,16)

 

 

そのような壮大すぎる「神の愛」と「神のあわれみ」によって聖書をみていきます。

クリスチャン・ホームの子どもたちは、親からイエスさまの福音を聞き、賛美を聞き、礼拝も知って育ちます。

 

また、夫婦でもどちらかがクリスチャンという家族も多いです。

 

教会を離れたクリスチャンたちは、どちらかがクリスチャン、家族の中でも一人だけがクリスチャンということが長年続けば、悩み苦しみ、これ以上は耐えられないと言っていました。

 

それは、ある日突然に、震災や交通事故、事件、脳溢血、心筋梗塞、自死などで、イエス・キリストを信じることなく死んでしまうケースを恐れながら生きていくことは耐えられないのです。非常に重すぎる重荷です。

 

 

そして、これはあくまでも「普遍的な神の愛とあわれみの福音」の聖書理解です。

聖書には「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。

そうでなかったら、あなた方の子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。第一コリント7章14節」と教えられています。

 

ですので、夫婦のどちらかがクリスチャンであれば、クリスチャンではない伴侶と子どもは、神さまが聖められた者と言われているので、生前にイエス・キリストを信じることなく亡くなったとしても、たとえ自死だとしても、地獄に行くことはあり得ないでしょう。

 

 

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。ヘブライ11:1~2」

 

 

両親がクリスチャンの脚本家「倉本聰」先生は、幼いころ両親の命令で、プロテスタント教会に行くのは嫌で嫌で仕方がなかった。それで高校生の時に教会と縁を切ったのです。

 

ところが、ある日突然に衝撃で目をさました。それは心臓より突如突き上げ、もう死ぬんだと思ったそうです。

すると、どうしてか脳裏に一つの讃美歌が聞こえてきたんです。

♪ 主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ ♪

 

人生の終焉です。最期であります。小生突然クリスチャンになった。

 

 

倉本先生の体験のように、家族の誰かがクリスチャンの場合、家族の誰かがイエスさまを拒絶して生きていたとしても、死ぬ瞬間にでも、あなたを忘れないイエスさまが逢ってくださるのです。

それが「神のあわれみ」です。

 

人間は終焉の時に、死ぬまでに何秒か何分かあります。

その脳裏にイエスさまは現れて、このお方がイエスさまだと信じることが出来るのです。

 

そういう時は口で告白して救われるとか、そういう御言葉は適用されません。

御言葉でも適用する御言葉と適用しない御言葉があるという信仰です。

 

 

そのような「普遍的な神の愛とあわれみの福音」は、家族そろってクリスチャンではない、キリスト教とは無縁の家族や、絶対に福音がとどかないような場所に、宣べ伝えられています。

 

この日本で、空中を支配する悪魔が「イエス・キリストの福音」が届けられることは出来ない。その家族はクリスチャンにはなれないようにしているところがあります。

 

その家族がクリスチャンになれば、何千万という大勢の人たちに多大な影響を与えるでしょう。

ですが、人には出来ないが、神には出来るのです。そこに普遍的な神の愛とあわれみの福音が伝えられています。

 

そして、これから驚くべきことが起きるでしょう。