キリスト教 死後についての福音 ②  | ルーク4のブログ

ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「死後についての福音 ②」

 

前回の続きです。カトリック教会の福音の前に「聖公会」と「プロテスタントのフレンド派(クエーカー派)」の福音についてです。

 

西原廉太司祭の著書「聖公会が大切にしてきたもの」より、

聖公会が大切にしている神学的なキーワードは「ヴィア・メディア」直訳すると「中道」だそうです。

 

カトリックの伝統絶対主義、教皇絶対主義、プロテスタントの聖書絶対主義をとらないのが「聖公会」

 

聖公会は「私たちは真理を知っています」とは言わないし、「ファイナルアンサーが見えました」とは断言しないのです。

 

それゆえ、「中途半端」「どっちつかず」と揶揄されるそうですが、「ファイナルアンサーはただ神のみが知っておられる」というのが聖公会の立場で、簡単に「答えはこれです」とは言わないそうです。

 

ですから、生前にイエス・キリストを信じることなく、未信者で亡くなられた方々についても、ただ神のみが知っておられると答えられるでしょう。

 

 

次に「プロテスタントのフレンド派(別名クエーカー派)」についてです。

 

フレンド派は、牧師も洗礼も定めず、各自が直接に主イエス・キリストと交わることを第一とします。

 

善悪を判断する良心の萌芽は誰にでもある。それを「内なる光」と呼び、各自がそれを伸ばすことを目指す。

 

そのために、聖書を軽んじるものではないが、聖書の教えと自分の心に葛藤が生じた時は、自分の心に従うことを説くそうです。

 

なので、愛する人たちが生前に、主イエス・キリストを信じることができず、未信者で亡くなっている場合、自分の心が「その愛する人たちはイエスさまのところにいる」という確信を得た時、それでOK!なのです。

 

このプロテスタントのフレンド派のクリスチャン有名人は、伝説のハリウッドスター「ジェームス・ディーン」、

日本では旧五千円札の肖像に選ばれた「新渡戸稲造」先生です。

 

ちなみに、今年からの新札五千円の肖像に選ばれたのが、新渡戸稲造・メアリー夫妻が良き理解者となり長年にわたり支援して支えた津田塾大学の創設者「津田梅子」先生です。

 

津田梅子先生はどこの教派にも属さない独立教会で洗礼を受けられたようですが、聖公会のクリスチャンともいわれています。ですが、フレンド派の影響が大きかったと思われます。

 

 

フレンド派は無教会と同じく牧師と洗礼を定めていないので、一緒に協力しあっています。

 

第一高等学校(現 東京大学教養学部および千葉大学医学部)の校長になられた新渡戸稲造先生は学生たちを無教会の内村鑑三先生の聖書研究会に紹介して、キリスト教について学ばせました。

 

新渡戸先生と内村先生の関係は、「青年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士の元でプロテスタント福音派の洗礼を受けましたが、福音派につまずいて、それぞれ無教会とフレンド派に導かれて、主イエス・キリストと出逢うことができたそうです。

 

第一高等学校に入った「矢内原忠雄」先生は、内村先生と新渡戸先生の教えを受けて、新渡戸先生に二人の教えの違いを聞いたそうです。

 

すると新渡戸先生は「僕のは正門ではない、横の門から入ったんだ。横の門とは悲しみということである。」と答えられたそうです。

内村先生は「十字架のキリスト教」であり、新渡戸先生は「悲しみのキリスト教」ということでした。

 

この2つの「キリスト教」を学んだ学生たちの中で著名な教育者、政治家、聖書学者たちが何人も輩出されています。

 

 

「十字架のキリスト教」とは、パウロの「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。第一コリント1:23」になると思いました。

 

十字架につけられた主イエス・キリストの福音は「万人救済希望」ですから。

 

そのことについて順を追って話ます。

「御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネ3章36節」について具体的に教えられているのが、その先のヨハネ11章になります。

 

「そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。

『われわれは何をしているのか、あの人(イエス・キリスト)が多くのしるしを行なっているというのに、もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。

 

そうすると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』

「そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」ヨハネ11章47~53

 

 

イエスさまの地上での福音宣教は、「イスラエルのすべての人」が主イエス・キリストを旧約聖書に預言された救い主(メシヤ)であり、神の御子と信じることができる神の御業でした。

 

聖書の時代、子どもの死は珍しくありませんでした。当時の遺骨を調べると、50%は18歳までに亡くなっているのではないかと推測する人もいます。

 

ですからイエスさまが、死んで担ぎだされたナインの町の母親のひとり息子を生き返らせた時、それを目撃した人々が「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神を崇め、イエスについてこの話がユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。(ルカ7:11~17)ということも理解ができます。

 

バプテスマのヨハネが「来るべき方はあなたですか?」と問うた時、イエスさまは「自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

 

盲人が見え、足なえが歩き、らい病人が清められ、耳が聞こえない人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい人には福音が伝えられているのです。マタイ11:3~5」と言われました。

 

それはイザヤ35章に書かれているメシヤ預言の成就でした。

 

もしも、現在の日本人がタイムスリップして、地上の主イエス・キリストの福音宣教と神の御業を体験したら、「すべての人が主イエス・キリストを信じるようになる」と言われるでしょう。

 

特に親にとって、わが子の死は絶望と暗闇です。

 

イエスさまと12弟子たちの3年半の福音宣教によって、大勢の亡くなった愛するわが子が生き返り、大勢の盲人が見えるようになり、大勢の耳が聞こえない人が聞こえるようになり、大勢のらい病人が清められ、大勢の歩けない人が歩けるようになり、大勢の貧しい人に福音が伝えられました。

 

まさに天下に主イエス・キリスト以外に救いはないし、主イエス・キリストがよみがえりであり、命です。

一生ついていきます!一生離れません!という思いでいっぱいです。

 

その神の御子イエス・キリストさまを殺す計画を立て、イエスを死刑にするように群衆を説得する者たちがいるのです。

 

そして群衆も「十字架につけろ!」と叫び続け、「その人の血は、私たちや子供たちの上にかかってもいい」と死刑を懇願したのです。

 

それから、イエスをムチ打ちにして、いばらの冠をかぶせ、イエスにつばきをかけ、頭をたたき、あざ笑い、からかいました。

ムチ打ちで重症の体で、ゴルゴタの丘まで歩かせ、十字架に釘打ちにして、十字架につけました。

 

道を行く人々や祭司長、律法学者、長老たち、イエスと一緒に十字架につけられた二人の強盗どもも、イエスをあざけて、ののしり続けました。(マタイ27:20~44)

 

 

この聖書箇所を読んでいると、「てめえら人間じゃねぇ!父親の悪魔の欲望を満たす悪魔の子どもだ!悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ!」と言いたくなります。

 

第一ヨハネ3章には「罪のうちを歩む者は悪魔から出た者です。」と教えられています。

 

何の罪もない、大勢の人々を救い、暗闇に光を灯してくださった神の御子イエス・キリストを死刑にして喜んでいる奴らは「悪魔の子どもよ地獄へ行くぞ!」と言っても過言ではないでしょう。

 

それなのに、イエスさまは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」とこの上ない寛容、慈愛の言葉を言われたのです。

 

それを聞いたイエスさまの横で十字架にかけられていた一人の強盗がイエスさまを神の御子だと信じました。

 

もう一人のほうは悪口を言い続けましたが、イエスさまは、ののしられてもののしり返さなかったのです。

 

十字架につけられた主イエス・キリストの福音は、自分に対して残酷非道なことをして殺す悪魔の子たちに対して、彼らは残酷非道なままでも「彼らをお赦しください」と救いを願う言葉でした。

 

十字架につけられたイエスさまの福音は、万人の救済を願われるものでした。

 

 

そして、イエスさまが十字架上で死なれ、三日後によみがえられて、40日の間、弟子たちに示された後、天にのぼられ、天の父の右の座に行かれました。

 

それから使徒たちは聖霊を受けて、多くの不思議なと証の奇跡が行われました。

信者となった者たちは皆が一緒にいて、いっさいの物を共有していた。資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、神を賛美して、すべての民に好意を持たれていました。(使徒2:43~47)

 

 

さて、現在のキリスト教会とクリスチャンはどうでしょう?

聖書に書かれている世界と同じでしょうか?

 

自分自身の場合、聖書には「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば病人は癒されます。マルコ16:17~18」と教えられているのですが、

 

新型コロナウイルスの感染を恐れて、感染予防にマスクをして、手洗いうがいをしています。

 

教会も自粛して、礼拝を中止して、オンライン礼拝するところが多いですね。

 

どこにも「神がその民を顧みてくださった」というような話は聞こえてきません。

 

「キリスト教」の話題は、宗教の不祥事がある度に「近くのキリスト教会は大丈夫だろうか?」「そういえば近くにキリスト教会があったな」という感じです。

 

そのような状況の中で「イエス・キリストを信じない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」という御言葉を言えば、「はあ?ロシアのプーチンもクリスチャンやし、不祥事ばかり起こすキリスト教が何言ってんの!あんた頭おかしいで」と言われるので黙している次第です。

 

けれど、2019年にアフガニスタン人約45万人を救って殉教された「中村哲」医師のニュースがあった時、周りの人々が「クリスチャンって素晴らしいね!」と絶賛していました。

 

うちの母親はそれで中村哲先生の特番を録画して見て「私もイエス・キリストを信じる」と言って、無教会主義キリスト教になると言っています。

 

次はカトリック教会について書きます。