分かることと、できることは違う。これは誰でも理解はしている。

 

個人においても、組織においても、

 

今、どういう状態に置かれているのか

 

周囲環境はどう動いているのか、そうしたらこれから何が起こるのか、

 

これらを把握できていないままにいることを場当たり的という。

 

特に自分という人間は場当たり的に生きている。

 

場当たり的に生きている人間は決断のセンスも磨かれず、識見が低くなる。

 

場当たり的に生きている人間が心地いい言葉がある。

 

「なんとかなる」という言葉。

 

なんとかなるよ、そりゃあ。

 

けれど歴史を見たら分かる、あれだけ悲惨なことが起きて、何とかなったね、ではないだろう。

 

親鸞は絶対他力の立ち位置でいながらも、ここはシビアに見ていた節がある。

 

自身を素直に観察して、ここままだと地獄行きとまで言っている。

 

そして阿弥陀の本願を理解しているから大丈夫というような安住はしていない。

 

そもそも素直に自分を見おろせるか、その先の道を見通せるか。普通はできることではない。

 

そんなもの見通せてるよ、と思い込んでいるだけだ。

 

仏教知っているからOKで終わらない。とことん追求し続けている。

 

彼の遺したモノに焦点が当たりがちだが、

 

彼の思想というよりも生身の彼そのものが大いなるインパクトになっていた。

 

今でもそういう人がいろんな分野でいる。

 

で、それは真似をすべきことではない。彼らの方法論を読めば何とかなるわけでもない。

 

自分が分かることと、できることは違うから。分かることで結果は出ない。

 

できることというのは、実践が板につく以外に道はない。