心肺停止になった母が蘇生を受けて持ち直したものの、

 

ICUに担ぎ込まれてからは、意識もない状態が続いた。

 

ホスピスに移送する中で、何度か目を開けては私の顔を見た気がする。

 

アルツハイマーがかなり進行した中で書いたであろう母のカレンダー手帳には、

 

訪問した日にしっかり「きてくれた」と書き込まれていた。

 

大切に思ってくれていたのか、忘れないように頑張っていたのか、

 

そういう時間ももう過ぎた。

 

父の時もそうだったが、死期というステージをまたかいくぐる。

 

親を看取るのは本望だ。そして次は自分の番というのも然るべきだ。

 

それでも逝く時は一人で行くのだなと思わされる。

 

このまま眠るように、苦しまずに怖がらずに辛い思いをしないようにとばかり思ってしまう。

 

死んだなら、重力もなくなる。光すら反射しない。色も形もなくなる。

 

きっと時間もなくなるだろうし、自我もなくなる。一切の滅。涅槃寂静と言われるが、

 

般若心経(大本)では悟りもないとまで、はっきり言っている。

 

仏さんになるのだね、というのも遺った自分の慰めにすら思えてくる。

 

この世の目線だけで言えば、死というのはその人間がいた、ということでしかなくなることだ。

 

私が死んでいっても時間は続いて行く。そこにはもう私はいない。

 

今という時間すら、無くなり続けているのだ。永遠の今はないが、ずっと今しかない。

 

父も母も、あの時代に確かにいた。私もそこに共にいた。そしてこれからずっと存在しない。

 

それを辛いことだという私もいなくなる。

 

私はもともといなかった。親がいて数十年前に命を受けてから今に至る時間にだけいた。

 

死ぬことを常に考えて生きることはできない。

 

この生というのが、自分の人生ということならいつでも投げ出せるようなちっぽけなことだが、

 

どうもそうではないようになってきた。

 

何というのか、自我で生き抜き、自我で死を迎える、ということをしなくていいのは

 

かなり生きる意味が豊かになる。この感覚は何だろう。想定できなかったし不思議でもある。

 

自我のためにという価値以上の、もっと意味のある時間になってくる。

 

何を教わるでもなく、習うでもないようでいて、そうなってきたのが仏教かと実感する。

 

脳内快楽物質も必要ない、奇跡もあやかりも要らない。

 

ほんの少し、自分で自分をしなくていいのは、より力が湧いてくるような感じがする。

 

念仏に出会えたからか、何も論理的な説明ができないがそうなっている。

 

母も、母という人間の人生であったに違いないが、

 

母がもう何も自分で頑張ることではないし、自分から何も失うこともないことであれば

 

どれほど救われることか。