平成23年2月11日 金曜日
雪で中止。
TEAS’ TER
NEW YORK
MANHATTAN
ミルクティー。
やは、冷たいのを押してしまった・・・・さぶ。
帰り道、
高田本山 専修寺(たかだほんざん せんしゅじ)
津市一身田町2819
に寄ってみる。
親鸞聖人の御教えを受け継ぐ、
全国600以上の真宗高田派の
総本山、高田本山専修寺。
国の重要文化財に指定されている
全国屈指の木造建築物、御影堂をはじめ、
同じく国の重要文化財である如来堂、
国宝である親鸞聖人御直筆の書、
県指定名勝の茶席・庭園など、
広大な境内に見どころが満載です。
お江が津で過ごした1574年~1582年頃、
専修寺は一身田無量寿寺と呼ばれ、
人々の厚い信仰の対象でした。
江が安濃津城に居を移した1580年には、
火災で御堂が焼失するという大事件が起こり、
お市、江ら三姉妹もさぞかし心を
痛めたことだろうと想像されます。
境内案内図
唐門(からもん)
(クリックどうぞ)
山門(さんもん)
(クリックどうぞ)
如来堂(にょらいどう)
ここで江とはどんな人物か・・・テストに出るかも・・・
1573年
津で過ごした九年間
1573年、江は近江の小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町)で
生まれました。父は小谷城城主・浅井長政、
母は織田信長の妹・お市。
江には長姉・茶々(後の淀)、次姉・初がおり、
これが有名な浅井三姉妹です。
江の生まれた年、江にとっては
母方の伯父・織田信長の攻撃により
小谷城は落城し、父・浅井長政は自害します。
この戦いでは、木下秀吉(後の豊臣秀吉)も信長軍として
功績を上げました。
お市と江ら三姉妹は信長軍に救出され、
清州城を経て、信長の弟・信包の居城であった
伊勢上野城で暮らすようになります。
お市と江ら三姉妹は、伊勢上野城で7年、
その後、天守閣が完成した安濃津城(現在の津城)に
移り2年の計9年間を、津の地で過ごしました。
津を去った後の波乱と苦難の人生を考えるに、
津で母子水入らずに過ごした9年間は、
江ら三姉妹にとって最も幸せな年月だったのではないでしょうか。
1582年
母の死から秀吉の庇護下に
1582年、本能寺の変で信長が死去したことにより、
お市と江ら三姉妹の人生は急展開します。
お市は柴田勝家と再婚、三姉妹を連れて
越前の北の庄城(現在の福井県福井市)に移ります。
しかし翌年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)軍に敗れ、
お市は柴田勝家とともに自害、三姉妹は秀吉軍に保護されました。
この時、江10歳。この後、三姉妹は、
父母の仇である秀吉の庇護のもと安土城で暮らします。
1584年
一度目の結婚
1584年、秀吉の命により、末っ子である江が、
12歳にして三姉妹の中で一番先に結婚が決まります。
相手は、尾張の大野城(現在の愛知県常滑市)
城主・佐治一成で、江には母方のいとこにあたる人物です。
しかし結婚の同年、一成は、長久手の戦いで秀吉の
敵方・徳川家康に味方したとして秀吉の怒りに触れ、
結婚はたった10ヶ月ほどで離縁となり、江は安土城へ戻ります。
1592年
二度目の結婚
月日は流れ、次姉・初は京極高次に嫁ぎ、
長姉・茶々は秀吉の側室となりました。
1592年、江が20歳の時、秀吉の甥・羽柴秀勝と
再婚しますが、再婚後1ヶ月ほどで秀勝は朝鮮へ出兵、
戦地で病死してしまいます。このとき江は秀勝の子を宿しており、
同年、女児が生まれました。江は再び、
長姉・淀(茶々)のもとに身を寄せます。
1595年
三度目の結婚
1595年、江が23歳の時、秀吉のはからいで
徳川家康の嫡男・秀忠と三度目の再婚をします。
前夫・秀勝との娘は、淀に引き取られました。
1598年
秀吉の死により、次第に姉・淀の豊臣家と、
江の嫁ぎ先・徳川家との対立が深まります。
1600年
関ヶ原の戦いで徳川方が勝利したことにより、
徳川家の勢力が強まります。
1614年
大阪冬の陣で、ついに豊臣家と徳川家が対立、
次姉・初が和睦交渉に努めます。
1615年
次姉・初の願いも叶わず、徳川の攻撃により
長姉・淀と息子・秀頼は自害しました。
江は、秀忠との間に、千姫、徳川家光など2男5女をもうけ、
二代将軍・秀忠の妻、三代将軍・家光の母として、栄華を極めます。
1626年
江は江戸城で息を引き取ります。54歳の波乱の人生でした。






