忙中閑あり、だろうか。先日、パオロ・タヴィアーニ監督の『遺灰は語る』を武蔵野館に見に行った。イタリア映画祭では忙しくて見られなかったが、一般公開されたので、見逃したくなかった。タヴィアーニ兄弟もピランデッロも好きだから。でも、つきあったオットは、わけがわからない、ひどい低予算映画だ、とこぼしていた。

 私は、ピランデッロの遺灰の経緯を知っているし、カオスにある作家の家の近くの一本松(サイクロンで立ち枯れたので別の松が植えられた)の下の石の墓碑も見ているから、それなりに面白かった。白黒画面もいいと思った。だが、ピランデッロが他界する二十日前くらいに書いたという短編小説『釘 il Chiodo』はわけがわからなかった。死ぬまでお墓参りを欠かさないくらいならば、なんで殺さねばならなかったのだろうか? 移民となって異国で暮らしてストレスがたまっていたのかしら? それで、大きな釘が落ちていたので、拾って、それで女の子を殺すのが宿命だとでも? ピランデッロの短編は好きで、ぴらんの名前で、『ピランデッロの部屋』に50話くらい訳をupしているが、『Il Chiodo』は読んだことがなかった。映画の原題になっている『レオノーラ アッディオ』は読んで、とてもイメージが鮮明に残った。映画の最初に、アグリジェントのピランデッロ劇場ではなく、ローマのオペラ座の天井が映るが、この短編を思い浮かべた。カオス村の崖の上から見た青い「アフリカ海」もその小説のイメージである。できればこちらの方を映画にしてもらいたかった。

 暇ができたら今読んでいる『 I Vecchi e i giovani』の続きを読みたい。もう少しで読み終るが、長編で字が小さいし、何十ページか残っている。舞台のアグリジェントをまぶたに浮かべながら楽しんでいる。この本は「Ai miei figli giovani oggi vecchi domani」(今日は若く明日は老いるわが子供たちへ)という献辞があり、この映画の中でもセリフになっていた。監督は、人生を振り返り、人間の老いと死を考えたのであろう。

 字幕なしで全編が見られる🔻