上、中とも面白かったので、下も読んだ。利常の改作法をはじめ、保科正之の薫陶を受け、名君と言われた前田家五代目[前田利家は江戸時代より前に没しているので、加賀藩主としては四代目]、綱紀の話である。明暦の大火と江戸城再建など、江戸の話も出てくる。今月末、仕事で金沢に行くこととなった。楽しみである。

 

 忘れ形見: 十九歳で寡婦となった大姫の方は、水戸光圀の姉であり、春日局に養育された。江戸の前田家上屋敷と、その奥御殿の描写。歌道を「敷島の道」というようだが、大姫の影響で、光高はその道に長じるようになった。1645年、落飾した大姫は清泰院となり、犬千代の家督相続が認められる。犬千代の筆頭守り役は青山将監。

 1647年、五歳になった竹千代、道三河岸で鴨と遊んだり、悪狂いをする。江戸城大奥からもらった白鳥でも遊ぶ。だが1649年、弟の万菊丸が、地震の恐怖から髄膜炎にかかり夭折。竹千代、将軍より丹頂鶴の番いを下賜される[要は、鳥マニア少年]。

 1650年、足軽組屋敷より出火して本郷の前田邸がほぼ全焼。犬千代、疱瘡。金沢で地震、石垣三ヶ所崩壊。竹千代、松平加賀守と称す。

 1651年、将軍家光、うつ病の気、重体、他界。将軍の異母弟、権力欲のない人格者、保科正之のこと: 将軍の遺命により、家綱の輔弼(ほひつ)役となる。

 

 跡を残さず: 秀忠・家光の治世下、取り潰された大名は計88家にのぼり、浪人が跋扈して治安を悪化させていた。この対策を怠った幕府を批判し、松平定政が出家。由井正雪の乱: クーデターに失敗し、自刃。

 金沢城代の前田貞里の治世に問題あり、利常、加賀藩の農政に着手し、農業生産力の把握、農業経済の健全化を図る(改作法)。これは諸藩の注目を浴びる。

 1654年、犬千代の元服が、将軍(14歳の家綱)の御前にて江戸城で行われる。保科正之の薫陶を受けて成長した家綱は、烏帽子親となり、綱の字を下賜したので、犬千代は松平加賀守綱利となる。(会津保科家の姫を嫁に、と利常は考える。)

 清泰院の希望により、白山比咩神社の修復をするも、福井藩よりの抗議にあい、事は後世に委ねられることとなる[1596年に前田利家が再興]。

 明暦(1655〜)になると、後ろに流してまとめるだけであった女性の髪型に変化が現れ、伽羅油の発明により、勝山髷が流行る。[お褥すべり、拝領妻という言葉を知った。]1656年、清泰院が急逝。わずか30歳であった。老女お紺に煙草を献上されて以来、利常は喫煙者となる。清泰院の亡骸は徳川家ゆかりの伝通院に葬られたという知らせを受け、利常は無念に思い、竜ノ口御殿の老女としてお紺を江戸に送ることにする。

 1657年、江戸では、本郷の本妙寺より出火があった。三日二晩燃え続けた明暦の大火である。綱利は竜ノ口御殿を脱出し、本郷邸へ。江戸城で焼け残ったのは西の丸だけであった。十万人以上が焼死した。利常は義援金を江戸へ送るも、入れず。保科正之の指導で、高騰する米価を安定させるため、大名たちの帰国が命じられたのである。幕府は被災者の救済に官庫より十六万両を供出し、全力をあげた。それに先立ち、1653年には玉川上水の開削も行った(井伊直孝が反対、保科正之と松平信綱が断行)。なお、この火災に際して、前田家は竜ノ口邸に代えて筋交橋門外の土地を与えられ、牛込の土地に代えて本郷邸の続き地を得た[現東大キャンパスですね]。

 そして江戸城本丸再建に際し、若い前田綱利は天守台の石垣建設が任せられ、より火災に強い御影石が瀬戸内海から運ばれる。四隅は算木積みである。その建設中に旧天守の残骸の中から溶けた金銀の塊が出土した。

 その間、綱利と、保科正之の息女(松姫→お摩須の方)との縁談話がまとまり、認可される。その輿入れの前日、正之の妻おまんが、妬みより、松姫に石見銀山鼠とり(ヒ素)を盛って殺害を計画したが、その御膳を老女が取り替えさせたため、姉のお徳の方が食して他界するという事件が起きていた。利常は夜、『吾妻鏡』『太平記』『徒然草』などの読書をし、血で血を争った鎌倉幕府が早々に滅びたことに思いを致した。そんな利常は1658年晩秋、小松城にて卒中に倒れた。享年66歳。

 

 師と弟子と: 利常の亡骸は金の棺に収められた。将軍家綱は、以後、保科正之が加賀守綱利の後見人たるよう命じる。この後見人は、加賀藩の代替わりに際し、家臣に改めて誓詞を入れさせるよう促し、「肥後守御意」を配布させる。綱利は保科正之の指導をいちいちメモしていた。(江戸城天守閣再建論は保科正之の先送り再建論で打ち切りに。)また、利常没後に打ち続いた殉死については、『日本書紀』を引用して不可なりとした。また、保科肥後守は綱利に、家光から家綱の輔弼役となった時に、朱子学に基づく文治政治の心得として編纂させた『輔養編』の木版本を進呈し、為政者に求められるのは人格だと言わんとした。肥後守による幕法の改正: 跡目の儀/ 浪人の就職斡旋/ 精密な江戸地図作成など。綱利は肥後守に「老驥櫪に伏すも志は千里にあり」「ひらくより梅は千里の匂ひかな」の短冊を献呈する。(肥後守は18世紀のベッカリーアに先んじた近代刑法の祖だと筆者は言う。災害に備え、火除け地の造成、両国橋の架橋など、江戸の市街の再編も推進した。社倉法という飢餓対策も。) これら肥後守の薫陶は加賀藩五代目君主前田綱利(後に綱紀と改名)の治世に反映される。

 

 夢の浮き橋: 家綱政権の名老中阿部忠秋について。綱利、19歳にして初めてお国入り[この大名行列は往復で3億円=2 milioni di euro 以上]。これに際し、カワウバの霊に対処する。観能しつつ幽霊を思った綱利は、奥御殿の厠で確かに幽霊を見ると、その乳母の失踪を知る者を探し出し、卯辰山を捜索し、棺桶を発掘。共食いしたと思われる多くの蛇の骨と、焼酎のためか腐乱せずに白蝋化していた乳母の遺体を見つけると、埋葬供養した。ところで、お国入りした藩主が謁見した家臣の数は28万人ちかく(!!)[ジェジュンの特典会は1万人くらいなのに、大会場に長蛇の列だからとんでもないことです!!]

 参勤交代で渡らねばならない黒部川という激流に架橋する: 黒部川は国境を守る要害だからと架橋に反対する家臣には「国の安危は、政の良し悪しによって決まるのだ」と答え、カラクリ細工に長じた笹井七兵衛という作事方に架橋を命じ(新井白石は後に綱利を知仁勇の三才を兼ねたりと評価した) 、この愛本刎橋は1662年に竣工した。

◁愛本刎橋(明治時代の写真)

 

  江戸に戻った綱利は江戸城にて『武家諸法度』の改訂を読み上げられ、大名証人制度の廃止などが行われた。福島藩における産子殺しの禁止、養老扶持(19世紀のドイツに先駆ける年金制度ともいえる)、旅人救済などの制度も綱利は参考にする。

 熊姫(祖父利常の娘)の縁談のことも思案する。

 

 遠き別れ: 1664年のお国入りに際して、綱利はようやく愛本刎橋を目にする。

 保科正之、労咳を患い、芝箕田(三田)に移る。年綱は、保科家の後継、正経と熊姫(久万と改名)の縁談を願う。この本にも、ぶっさき羽織[腰にスリット入り]にたっつけ袴[裾がしぼってある袴]、などの言葉がでてくるので検索。お百というお摩須付き老女の一人がお方様のお手元金を運用したいと思うも、前田家からも保科家からも一笑に付された。加賀藩は一柳直興という罪人を預かり、その処遇について肥後守の教えを請う(この人は赦免後も金沢に在住することになる)。綱利の正室、お摩須の方、1666年、出産するも母子共に死産、松嶺院となる。

 白山争論一件: 隣国の福井藩との争いである「白山争論: 白山比咩神社の修繕権」を、越前側十六村を天領さすることで決着をつけることとなる。浦野事件も解決。

 1667年(?)、綱利、将軍から一ヶ月の休暇を賜り、お留野にて猟を許され、一千名の家臣とともに出発する。唐犬の小六、傷つくというエピソード。

 1669年の豪雨では、会津藩の社倉法に倣い、お救い小屋を設けて、被災した領民を救済する。荻生徂徠は「加賀国には窮民ひとりもなし」とその治世を称えた。無産階級の授産施設をもつくる。90歳以上の領民の扶持制度も開始。

 一方、仙台藩の伊達騒動にも言及、その原因は藩内の知行所にある、と。

 保科正之が病んでから下馬将軍と呼ばれた老中酒井忠清について、など。正之は綱利に、朱子学に基づく『玉山(ぎょくざん)講義附録』『二程治教録』『伊洛三子伝心録』などの冊子を与える。また、神道においては、天照大神は座人弓、発向弓、護持弓、治世弓にて平和な治世を行ったと言う。

 1673年、綱利の岳父にして後見人、保科正之、他界。

 ところで、奥女中のヘアスタイルの変遷も面白い: 明暦頃から流行った勝山髷など。

 

 女運・子供運: 雑食性の烏がほかの鳥の雛を食べるとはびっくり! 鳥類愛好家の綱利は烏を憎んでいた。綱利は読書好きのみならず、自分でも軍学書の注釈書四種類を著し、木下順庵、田中一閑、室鳩巣などの朱子学者を藩儒とした。

 いろいろ側室を持ったが、女運・子供運にはなかなか恵まれなかった。お鈴の方は女子を産むも乳がんに罹り、お美遠の方は早産し、その次男も早逝すると、鬱となり、実家に戻る。次のお国御前、お邦の方も男子を産むも即日死すと、実家に帰る。

 親戚筋の藩から借金の依頼が相次ぐ。参勤交代の費用もかさみ、赤字となり、商人に用金を命じる。物価高騰、どの藩も苦しい。

 五代将軍、家綱の弟、綱吉が即位。初期は堀田正俊が補佐する。将軍、家康が前田家に三万両[三千万円くらい]貸したはずだと言い出す。これは綱吉の矯激な言動の一端であった。次々に大名改易を断行。安宅丸を破却。

 1683年、本郷邸近くの出火により、江戸の藩邸が焼ける。この際、本郷と駒込以外の藩邸を幕府に返上し、板橋の平尾に下屋敷の土地を拝領。

 あまりにも不運が続くので改名: 肥後の細川綱利と同名でもあったので: 林鳳岡により、綱紀、綱倫が選ばれ、朱舜水により「綱紀振粛」たる綱紀が推される。1684年の年賀の席でこの改名を発表する。家臣たちの服装の乱れを目にして、組頭以上の者の登城には肩衣を着用通達する。

 江戸城では、大老堀田正俊が老中稲葉正休に刺殺されるという事件が起きた。これにはどうやら、この大老を煙たく思い始めていた将軍も関わっているという話も聞こえた。そのように矯激な将軍との関係は、綱紀の場合、能楽や動物や鳥類愛護などを介してほぼ良好であった。

 1689年には、側室たちが次々に出産する。

 将軍綱吉は、加賀守(綱紀)を御三家の次に列すると伝える: 外様大名でありながら、白書院に入ることも許されることとなった。

 1691年、綱紀49歳にして、側室が、世継ぎの勝次郎を出産する。

 

 名君への道: 将軍綱吉は、綱紀の朱子学の素養を評価し、江戸城で『大学』(儒教の四経書の一つ)を講義させ、学問同好の士とみなす。

 1692年、天領に組み込んだ飛騨高山の在番を綱紀に命ずる。それは三年に及んだ。

 その間、綱紀は、保科正之の影響下、藩内の年金制度たる養老扶持、旅人の救急医療制度などを整えた。1663年には参議という重職に任じられ、「相公さま」と呼ばれることになる。藩の農政に関しては、切高仕法を行ない、年貢を納められない農民に土地を売ることを許した。幕府は田畑売買を禁じていたので、呼称を別にしたのである。

 1695年、幕府の犬公方は、大聖寺藩の前田利直に西中野における八万匹の野犬のための巨大な犬小屋普請を命じる。これもそうであろうが、綱紀は富山藩や縁戚となった親類縁者に資金援助や金貸しを行ない、お救い小屋に貧民を収容したと思われる。

 1701年、綱紀は将軍から屋敷を訪ねると言われ、御成御殿の普請をする必要に迫られる。幕府からの資金援助ではとても賄いきれない出費である。この将軍は家臣の屋敷への「御成」が好きであったようだ。なお、この年、殿中にて浅野内匠頭が吉良上野介義央に斬りつけるという「赤穂事件」が起きている。

 また、勝次郎に登城が促され、御前にて元服するようにとの命が下る。このように出費が重なり、綱紀は商人たちから36万両(3600万円くらい?)の借金をすることとなる。翌年には、前田家三代に奉公した老女が88歳で他界。元禄15年の暮れ(西暦だと1703年1月だが)、四十七士が吉良邸への討ち入りを果たした。

 なお、金沢城下では利常の頃より様々な細工所が整備されていたが、綱紀はこれを工場化させ、技術の向上を図った。

 そして1703年晩秋、江戸では水戸様火事が起こり、二年前に建てたばかりの御成御殿も何もかも焼失することとなった。この衝撃の矢先、キツネ事件が起きる[火災の後で道具がなく、井戸に落ちた狐を救えず、見殺しにしてしまった]。この事件に関わった足軽を、綱紀は死罪にしなかった。生類憐れみの令に背いたのである。

 将軍綱吉は、甥を養子として継嗣とした。家宣である。

 1707年には富士山が噴火。地震も多発した。折も折り、綱紀は従三位に叙され、さらに将軍の養女松姫を松平若狭守(綱紀の継嗣)に嫁がせると言われる。そうなると、御守殿を建てねばならない。またしても出費がかさむ。

 1709年正月、そんな将軍が麻疹に罹り、64歳で急逝した。跡を継いだ家宣は、儒学者新井白石らに補佐され、生類憐れみの令を撤廃するなど、善政をしくこととなる。その新井白石は、加賀藩の蔵書に目をみはり、「加賀は天下の書府なり」と驚嘆したという。綱紀は、木下順庵らに集めさせた書物にひととおり目を通したが、『金瓶梅』を評価したかったとのこと[そう言われると読みたくなる・・・]。

 1711年、家宣が他界し、四年後、わずか8歳の世継ぎ家継も没す。将軍家の直系は途絶えたので紀州藩から八代将軍として徳川吉宗が即位する(1716年)。

 享保3(1718)年暮れにあった猛火では、加賀鳶の火消しと定火消の間に乱闘事件が起きた。この旗本の暴行について、綱紀は将軍にレポートを提出し、将軍吉宗はこの定火消を解任することとなった。このように、綱紀は名君と讃えられ、「政治は一に加賀」と言われたが、1724年、老衰のために帰国延期を願い出て許され、五月に他界した。享年82歳であった。

 

 たいへんに面白かった。この人の本はまた何か読んでみたいと思った。