先月、この本の上巻を読んだ。面白かったので続きを読む。中巻は、やはり利光の時代から始まり、大坂の陣も含まれる。参勤交代で往復する江戸の様子も瞼に浮かぶ。利光、光高、それぞれのキャラを、まるでドラマでも見ているかのように感じることができ、上巻に劣らず面白く、たいへん勉強になった。金沢へはコロナ禍以前、年に何度も訪れたものであった。次に行けるのはいつだろうか。

 

 大坂城燃ゆ: 前田利光が、キリシタンであった豪姫を棄教させたことから始まる。彼の養父、利長のもとに大野治長から大坂城に来るようにとの書状が届くが、利長はそれを徳川に報告し、徳川に背く気の無いことを示してから、1614年、高岡城にて他界した。戒名は瑞龍院。死因は唐瘡(梅毒)であった。高岡城から金沢に戻った家臣の住宅街が高岡町となり、今日に至る。利長の正室は西の丸に入った。今日、復元された玉泉院丸庭園は彼女の名に因む。人質であった芳春院(お松の方)が戻り、寿福院(利光の生母)が江戸に入った。[加賀藩の竜の口上屋敷は今の三井物産本社辺り、本郷の下屋敷は今は東大のキャンパスになっている。]このような女性たちのために利光は人形浄瑠璃を城内で興行させた。人気の出し物は「浄瑠璃姫」であった。

 なお、利長の隠居領は加賀藩領に組み込まれることを幕府は許す。そして、利光は左近衛権少将に昇進される。1614年はさらに、諸藩に対して大坂への出陣が命じられる(金地院崇伝が問題にした方広寺の梵鐘のこと、その銘文をつくった南禅寺の清韓に対する高僧たちの妬みなど)。秀吉の七本槍であった片桐且元がもはや徳川家の奉行のようなものとなっていたともしている。利光の「綸言汗の如し」のエピソード。勝栗と打ちあわびによる出陣式。馬の餌の消費量にびっくり。当時は蹄鉄がなく馬はわらじを履いていたことも知った。母衣(ぼろ)というマントは当時骨入りの風船状であったことも知った。

 利光は、将軍秀忠の正面前方で戦うこととなる。大坂城の南方に布陣した徳川側は、南東に建設された出城、真田丸からの側射にやられる。それに対する防具は、竹製の仕寄りである。隧道を掘るが真田丸からは丸見えになる。この「冬の陣」を決したのは、家康が用意した大砲であった。城の北側、備前島に大筒300挺、国崩し5門、うちカルバリン砲は14kgの巨弾を6,3kmも飛ばすことができ、天守閣の屋根、淀殿の居間を破壊した。講和が成立し、真田丸は撤去、大坂城の堀は埋め立てら、裸城となる。諸将は茶臼山[大坂城の南西、天王寺の辺り]の本陣に詰めることとなる。和議を結んだとはいえ、一気に豊臣を討ち滅ぼすべしという意見もあったが、家康は、不義を行なう者はいずれ滅びる、と言ってとりあわなかった。ある家臣の正室が毒殺された事件から「石見銀山鼠取り」としてヒ素が市販されていたことがわかる。金沢ではこれを売っていた薬問屋も火焙りの刑に処された。

 参勤交代: 善光寺経由の下街道と、名古屋経由の上街道があり、前者は12泊13日で120里(約480km)[1日約37km]を2000人と馬200匹が旅した。

 大坂夏の陣: 1615年4月、徳川側の兵は再び大坂城に対して集結し、5月8日に豊臣家は滅び、利光は冬の陣の雪辱を果たした。

 

 幽霊になった女: 徳川幕府による一国一城令や武家諸法度により、前田家も縛られる。7月より年号が元和となる[太平の世が始まる]。お珠の方、犬千代を出産(後の光高)[以後、次々に8人を出産]。利光、瀕死の家康から「なんとしてもその方を殺してしまいたかった」と告げられる。外様の前田家は油断できないのだ。家康は、前田家に四国への移封を打診する: もちろん謀反を案じてのことであった。

 利光は金沢市街の整備を行なう。浅野川と犀川の向こうに二つの寺院群をつくり(僧兵をたくわえ)、防衛を強化した。港から市内への道を直線とするなど。

 お珠の方が次々に出産するので、乳母は、利光に、お珠は風邪をひいたなどの嘘をついてお珠から遠ざけようとする。そして1620年に金沢城に大火。お珠の方の乳母が城下に下屋敷を拝領すると、利光と密通しているという噂が立つ。お珠の方、1622年夏、出産後に他界。葬儀の行われた小立野に天徳院が建立される。彼女の死因を招いた乳母のお豊の成敗について利光は将軍に伺いを立て、いかようにも、との返事を受け取ると、彼女を蛇責めの刑(四斗樽五樽分の毒蛇が集められた)に処した。それ以後、城内奥御殿の厠に姥様(お豊)の霊が現れる。子供たちは皆目撃した。前田家の梅鉢紋は、菅原道真を祖先とすることに因むことに言及し、怨霊譚はかなり信じられていたとする。子供たちは誰もが「カワウバ(厠に出る姥)」を見る。

 

 謀反の噂: カワウバは悪さをしないので、子供たちは慣れ、もう怖がらなくなる。利光の長女、鶴亀姫は将軍の養女となり、津山藩主の次男に嫁ぐ。秀忠の五女、和子(まさこ)が、1620年、後水尾天皇に入内する。諸侯も上洛して待機。その間、利光は、日翁という上人による太平記、および孟子の購読を聞き、この僧を御噺衆に加える。二条城での叙任式の後、利光は加賀中納言と呼ばれるようになる。(お江与の方についてつらつら。)1629年、加賀藩下屋敷の普請が始まり、できた御殿に母、寿福院と子供たちを移す。そこに来客。

 一方、秀忠は西の丸の吹上苑の茶室に利光、立花宗茂、朽木元綱らを招く。この折、家光に遠慮して、利光は光の字を返上し、利常となる。だが、その光は利常の長男犬千代に下賜され、光高と名乗ることとなる。以後、宗茂と利常は親交を深め、鶏いくさ、竹釘いくさの話などを聞かされる。(紫衣事件について。)

 1631年4月、法船寺の門前町より出火した金沢城と城下の火災(強い南風とはフェーン現象?)。金沢城の鉛瓦は火災で溶ける。将軍家光より迅速な見舞いあり。上使いとして金沢入りした徳山五兵衛について、怪しいまでに佞人の相だと言及。前田利家の家臣であった時に、家康の刺殺を命じられたと家康に告げ、幕臣となった人である。

 

 小松中納言: 前田家は幕府から謀反の疑いをかけられていたが、利常の次男は従四位下侍従に任ぜられ、松平姓を賜った。金沢は大火の後、火消制度、天水桶などが整備される。(家光の弟、忠長は乱心と言われるような暴挙、残虐行為を働いた。その忠長と組んで前田家が謀反を企てると疑ったようである。)そして秀忠没。

 金沢では用水開削を検討。板谷兵四郎を抜擢し、犀川上流(市の南東、上辰巳村)から引いた辰己用水を建設する。

 親交のあった立花宗茂より「老驥(駿馬)櫪(厩)に伏すも志は千里にあり」の掛け軸を贈られる[この漢詩がこの三部作小説の表題になっているのだ!]。

 (幕府、肥後熊本五十四万石藩主加藤忠弘を、出羽庄内に改易、一万石の捨扶持とする。息子の光正が謀反ごっこをしたため!?)

 利常、下腹に仙痛がおこり、ふぐりまで広がったと酒井忠勝に股間を見せた。

 1632年、家光は水戸藩の娘を養女大姫とし、前田光高に嫁がせることにする。年末、備前岡山藩池田家の上屋敷より出火、前田家の上屋敷も燃え、大姫を迎えるためもあり、翌年に再普請する(3600人の大工や左官が集められる)。1634年12月、大姫の嫁入りの頃、家光の弟(駿河大納言)、高崎城にて自害する。光高と大姫、将軍より南蛮犬を賜る。この頃より、利常、鼻毛を伸ばしっぱなしにしておどけ者とされる。江戸城で立ち小便をして黄金一枚の罰金を払ったこともある。これらは、幕府から痛い腹をさぐられぬようにする方便であった(?)。

 江戸の総曲輪(総構え)について: 36見附といわれる城門のことなど。

 島原の乱(1637〜8年)について: 島原藩松倉家の苛斂誅求が原因。天草四郎のこと。

 光高、大姫、疱瘡に罹患、快癒。1639年、利常は仙痛を理由に隠居を希望、小松中納言となり、隠居。長男の光高、四代目藩主の座を継ぐ。

 

 梅は千里に薫る: 前田光高の大器ぶりつらつら。「色好み美食このもに酒このみ利欲好みは家の滅亡」という和歌を詠むほど禁欲的な貴公子。将軍家光は、光高を養子として将軍職を継がせたいとまで言う。だがほどなく、将軍に男子が誕生し、利常は髷を結わずに一括りして祝いに駆けつける。

 天海僧正、利光の屋敷を訪れ、藤原定家の『伊勢物語』を見つけて所望、だが帰りにそれを進物として置いて行く。

 光高は、二十代の時に、自著を二冊、歌集を一冊執筆した文化人でもあった。1643年、大姫が11月半ばに出産予定と聞き、12泊13日の行程480kmを6泊7日で走破して江戸へ!! (それに従った2000人の家臣もたいへん!!) 途上、出産(のちの綱紀)後の夢を見て、歌を詠む: 「ひらくより梅は千里の匂ひ哉」。

 

 暗転: 光高、チアノーゼを患う。心筋梗塞にも襲われる。

 利常、養父にして兄の利長のため、高岡に瑞龍寺を建立する。

 1645年4月、光高、大老酒井忠勝を招いた茶会の席で突然倒れて急死。享年31(満29歳)。加賀藩の本郷邸に接して住む越前福井藩松平忠昌は大酒飲みであったが、光高の死に際して狂言を詠む: むかうなる加賀の筑前下戸なれど三十一で病死をぞする。