シンコウラブリイ物語 | 名馬物語 | トレンド競馬

シンコウラブリイ物語

 これまで藤沢和雄が築き上げた実績について、今さら説明は不要だろう。彼の競馬観といったものも、マスコミを通じて語り尽くされたかのようにみえる。成功者に対しては、「あれだけ高い馬をそろえ、いい騎手ばかり乗せている。成績が上がらなかったらおかしい」といった、やっかみ半分の声が上がるのが世の常だ。そんなネガティブな発想でしか物事を見ることができない人は、心の貧しい気の毒な御仁としかいいようがない。









 藤沢も調教師として最初からエリートコースに乗ったわけではない。それどころか、あとで触れるが大きなジレンマを抱えての船出だった。よく、藤沢厩舎は外国産馬だらけと言われる。それは事実だが、なぜ(外)が多くなったのか? そこを解き明かさないことには彼の本質に迫れない。シンコウラブリイのことも、成績や周辺の出来事を書いただけでは真実に近いストーリーにはならないだろう。筆者はそう思って単刀直入に理由を聞いた。返ってきた言葉は何度か雑誌などに載った話と内容は変わらなかった。









「開業した当時、この社会は本当に閉鎖的なんだなと痛感した。牧場を回っても、ここは調教師の誰々、ここは馬主の誰々というテリトリーがあった。新規調教師は常にそういう壁にぶつかっていたんです。だから馬主さんが応援してくれても師匠、先輩とかのあてがいぶちを預かることが多かった。今よりセリも不透明な部分が多かったしね。その点、外国はセリでもプライベートでも、値段さえ折り合えば売ってくれる。サラブレッドも商品なのだから、そうあるべきと思うけど、日本ではなかなか事情が許さなかったんですよ。牧場が売りに出した馬を買うと、オレのを取ったとかいわれる、おかしな社会。兄姉が走れば下も同じ厩舎とかね。それでは若い調教師にチャンスは回ってこない。今は私も当時とは逆の立場になったから、自由競争を阻害しないよう気をつけようと思っている。(外)はそういう意味で、オレの馬を取ったとか他の人に言われることがないじゃないですか」









その言葉のとおり、開業当初はなかなかいい馬が集まらなかった。最初に重賞を使ったのは産經賞オールカマーのガルダン(11着)。それまで南関東で走り、2年前のオールカマー2着の実績があったが、移籍した頃には力が衰えていた。
「私を応援してくれた馬主さんが買ってくれ、重賞を使えるというだけで嬉しかった。でも、『あんな終わった馬を預かるなんて』という馬鹿にする声が聞こえてきた。あれは本当に悔しかった」
情熱に燃え理想を追求する若い調教師が、いい素材を揃えるため外国産馬にシフトしていったのは自然の成り行きかもしれない。折しもバブル景気がピークにさしかかって円の力が強くなり、JRAの番組面でも妙に対して門戸が広げられつつあった。先が見通せる人は、遠くない将来、クラシックや天皇賞も(外)に開放されるだろうと読んだ。あとは、買ってくれる馬主さえ見つかれば好素材が手に入りやすい状況だった。









しかし、それだけでは納得の行く説明にはならない。現在、藤沢厩舎は(外)から内国産馬中心の構成に戻っている。当時と今とのスタンスの違いを考えると、(外)を活躍させることによって日本の競走馬流通システムの矛盾を突き、風穴を開けようという狙いがあったのではないか? たとえ、そんな大それた気持ちはなかったとしても、結果的に大きな役割を果たしたことは確かだ。
「なんとかしなければ」と、藤沢が現状打破の方法を模索していた時、イギリスに留学した経験の記憶が甦ったはずである。意外にも彼のキャリアの中で、その頃についてはあまり知られていなかったと思う。欠落している部分が、調教師としての藤沢を語る上で重要なカギを握っているのではないか。推理小説でも犯人は常に意外なところにいる。









藤沢が留学した当時、イギリスの競馬は名馬の時代の谷間にあった。世紀の名馬ミルリーフが引退した後で、ダンシングブレーヴやナシュワンが出現するのはずっと先である。「有名な馬ではザミンストレルとかグランディ、バステッド、クリスタルパレスなどが走ってました。アレフランスとかダリアも活躍していたね。ドイツのスターアピールが凱旋門賞を勝ったのも見た。そうはいっても強烈に印象に残るほどではなかったですよ。これが真の名馬というイメージはできなかった。実際に競馬を見たわけではないけれど、いろんな人の話を聞いても、ニジンスキーとかミルリーフのような永遠に語り継がれる名馬に比べたらスケールは小さかったと思う」
経済も疲弊していた。第二次大戦前、世界の各所にあった植民地が次々に独立運動を起こし、かつて繁栄を誇った大英帝国の面影は失われていた。そのことは競馬の世界にも影を落としていた。競馬を支えてきた貴族階級の凋落ぶりは目を覆うものがあった。しかし、ダイナミズムは失われていなかった。入ってくる資本が明らかに様変わりし、新たなエネルギーが創造され始めていた。









「イギリスは典型的な階級社会だからね。王室や貴族の馬を預かる調教師は決まっていた。その一方で、若い調教師のところに外国人馬主とかの馬が多く入っていた。どっちかというと外国人の方が商売上手というか金があって、競馬にずいぶんと資金が入ってきたんです。そういう人たちの馬をやらせてもらった調教師は成績が上がった。私がお世話になったゴードン調教師もそうだが、中でも後に大成功を収めたのがあの2人ですよ。当時もピーター・ウォーレンとか名調教師がたくさんいたが、彼らは調教師の家系に生まれていないハンデもあったから、人一倍頑張っているなという印象を受けましたね」









一人はシングスピール、ピルサドスキーでジャパンCを連覇し、日本でも有名になった"サー"マイケル・スタウト調教師。もう一人のヘンリー・セシル調教師も数え切れないほどグループレースを勝っている。親から引き継ぐ地盤がなかった彼らが、今ではイギリスの競馬界を代表する調教師となったのだ。
取り巻く環境は変わっても、藤沢が暮らしたニューマーケットには、競馬の母国の伝統と誇りがしっかりと息づいていた。フランスをはじめ外国の調教師が、馬の取り扱い方や調教を勉強しに来ていた。タイキシャトルがフランスに遠征するという時、喜んで管理を引き受けてくれたトニー・クラウト調薮師と知り合ったのもその頃だ。藤沢はイギリス競馬の底力を思い知った。









「やはり基本はあそこだよね。ニューマーケットから世界に伝わって、その国にアレンジされた競馬が行われている。種牡馬になるような馬の多くはアメリカに持っていかれてしまっていたし、走っている馬はマイナーなイメージだったが、馬の扱い方とか調教は伝統に培われていた。フランスから来ていた人とか、志は同じだったから仲良くなれた。あの頃の経験が調教師としての意識を支える柱になっていると思う。競馬はバクチ的なところがあるが、大事なことは商売上手というか本業がうまく行っている人の馬じゃないとダメ。厩舎が困ることを肌で実感できた」
その時の体験が競馬観、経営哲学の太い支柱になっている。競馬の母国に暮らしたことで学んだ処世術(悪い意味ではなく)、得た人的財産。藤沢はゴードン厩舎の攻馬手にすぎなかったが、馬の騎乗や世話という狭い世界だけを勉強していたわけではなかった。その目はしっかりと、イギリスという国の政治や経済情勢、それと密接に関連する競馬全体の流れを捉えていた。自分に才覚とやる気、運がありさえれば、親の七光りがなくてもこの世界のトップになることは可能だ、という結論が必然的に導き出された。









イギリスに渡る時は帰国後どうするかは考えていなかったが、26歳で日本に戻った時には、「いずれは調教師になりたい」という意志をはっきり固めていた。菊池厩舎で2冠馬カツトップエース、野平厩舎で皇帝シンボリルドルフと係わることができたのは幸運だった。いよいよ調教師になった時、最初は自分と同じような境遇からスタートしたマイケル・スタウト、ヘンリー・セシルが大きな目標になったことは間違いない。
ほぼ時を同じくして、馬主を辞めようと考えた男がいた。後にシンコウの冠名で有名になった安田修である。地方の大井で最初に持ったシナノカオリという馬が14戦して7勝と大活躍した。本業が軌道に乗っていたこともあり馬への投資を惜しまなかったが、そうすると急に走らなくなった。いい加減イヤ気がさした頃、藤沢と知り合った。話をするうちに意気投合。最後の勝負に出るつもりで中央の馬主の資格を取る。
そうして、2つの点と点とが太い線で結ばれた。









シンコウラブリイは最初から安田の馬ではなかった。大樹ファームの赤沢芳樹が、第2回ジャパンC優勝馬ハーフアイストのオーナーブリーダーとして知られる、ファイアーストーン夫妻から購入しアイルランドで育成。3歳夏に日本に連れてくることが決まっていた。その年、3歳に有望な馬がいなかった安田は藤沢に相談。赤沢を紹介されたのを機に、2つの点を結んでいた線が、3つの点から形成される強力なトライアングルとなった。一本の矢は弱くても、共通の意識を持つ3人がまとまった矢の威力は3倍以上になる。
「先生から赤沢さんを紹介され、じゃあという感じで買ったのがラブリイなんです。最初に会ったのはたしか検疫期間中の8月。先生と話した時は、まず900万下までは行けるだろうということだったんです。それぐらいの評価で、やがてGIを勝つほどの馬になるとは思っていませんでしたね」。安田は大井での体験から、馬が思うようにはならないことを知り、過大な期待をかけはしなかった。無理使いはしたくないという藤沢の方針を尊重したのがよかったのかもしれない。









検疫を終えたシンコウラブリイは、厩舎に来てひと月あまりで出走にこぎつけた。「気がよさそうな牝馬だったが、当時は父のカーリアンは日本では知られている馬ではなかった。でも、本馬場に入れた時の動きが素晴らしくて、いきなり特別に登録したくらい。これはという感触があった。普通に新馬から使うことになって、たまたま岡部騎手が有力馬を先に頼まれていたが、だいたい行けるだろうと思っていた」。藤沢が見立てたとおり、橋本広喜が騎乗したデビュー戦は、まったくの馬なりでの楽勝だった。
2戦目には福島3歳Sが選ばれた。秋の2開催目の最終週。荒れ放題の馬場でシンコウラブリイは1200m1分9秒9という、驚異的な3歳レコードを樹立する。その勢いで阪神3歳牝馬Sに挑戦、初めて岡部幸雄とレースでコンビを組んだ。開業4年目にして迎えた重賞初制覇のチャンス、しかもGIだ。藤沢は内心、勝てるという自信で臨んだ。しかし、ニシノフラワーの3着に敗れる。それまでの2戦は馬なりで勝ったが、勝ち上がった馬同士の戦いでは、厳しい競馬を経験していなかった差が出てしまった。「いいアクションで一生懸命走るが、まだ競馬が上手じゃない。気持ちに余裕が生まれて、ゴールがどこにあるか分かるようになれば相当な馬になる」。岡部はそうジャッジした。









当初の予定どおり、シンコウラブリイは休養に入った。そんな時、藤沢をカチンとさせる話が耳に飛び込んできた。
「馬なりの調教しかやらないから重賞を勝てないんだとか、低次元の話が聞こえてきたんですよ」。自分なりの調教スタイルを確立するのに試行錯誤していた時である。内政干渉、余計なお世話だと思って腹が立った。
今でこそ藤沢流といって、追い切りは直線だけ併せるスタイルが美浦トレセンでは多く見られる。それも目いっぱいにはやらない。ただ、当時はミホノブルボンの戸山為夫に代表されるような、ハードトレーニングが幅を利かせていた。藤沢はそれを否定していたわけではない。調教助手の時代、カツトップエースやシンボリルドルフも長めからビシッと追い切るのが常だった。だが、人と同じことをやる気はなく自分流を模索していた。









「私の調教法にはパターンがなかった。あっちゃいかんと思ったんです。偏りたくなかった。みんなと違うことをしても結果が出ないことがほとんど。同じことをやっても結果が出ないことが多い。そんな時、違うことをやって失敗するのがイヤだから、ついつい右に倣えになっちゃうじゃないですか。世界的に見ても成功している調教師は、クレイジーに思えるくらいハードな調教をやる人が圧倒的に多い。でも、私はこれ以上やったら壊れてしまうのではという恐怖感が先立った。まだアマチュアみたいなものだったし、いろいろ試してビシッと追わない方針に決めたんです。その代わり、毎日のように15-15ぐらいの強めをやる。それには馬の変化を毎日見ていなくてはできない」
ましてやシンコウラブリイは傑出したスピードを持っていた。気性がよすぎて調教でも掛かり気味に飛ばすから速い時計が出る。厩舎の他の馬は彼女のペースに合わせることができなかった。かといって彼女が相手に合わせると自分がおかしくなってしまう。その点で苦労した。馬なり一杯という調教用語がある。楽な手ごたえのようでも馬は目いっぱい走っていて、追っても伸びないという意味だ。それに該当する彼女に、ステッキを使うことなどサディズムの世界である。「結果を出さなければ何をやってもダメ」。藤沢は周囲から聞こえてくる声に内心反発を覚えながらも無視し、独自の調教法を築きあげていく。









4歳初戦は断念オークスといわれていたカーネーションC。3歳時の実績から1番人気に支持されたが中団のまま6着に終わってしまう。二線級相手の完敗に藤沢は「私としては調整法は間違っていなかったと思う。仕上がっていると判断して出走させたが、息がもちませんでした。判断が甘かった。大失敗です」とショックを隠せなかった。それでも、休み明けのマイル戦で掛からなかった点は、次の変わり身を予感させた。
春最大のターゲットに選ばれたニュージーランドT4歳S。前走よりはるかに相手は強い。きさらぎ賞、毎日杯、京都4歳特別をブチ抜いた同じ(外)のヒシマサルが重賞4連勝に自信を持って臨んできた。クリスタルCを圧勝した快速サクラバクシンオーもいる。形勢不利と見られ4番人気に甘んじたが、シンコウラブリイは今までにない上手なレースを披露した。逃げるサクラバクシンオーの2番手を折り合って進み、直線半ばで一瞬に抜け出す。ヒシマサルが懸命に追いすがったが、瞬発力の差が勝負を決定づけた。









 開業5年目で重賞初制覇を飾った藤沢は、自分の調教法が間違っていなかったことが何より嬉しかった。「前走の汚名返上のためにも、なんとかしていい結果を出したかった。岡部ジョッキーが、馬をなだめながら巧く乗ってくれた。スピードが勝っている馬なので一歩間違ったらスプリンターで終わってしまう危険がありましたからね。使いたいところをオーナーが我慢してくださって、冬場に思い切って休ませたのが吉と出たと思う。きょうの勝利は本当に嬉しい」
岡部は彼女がアイルランドにいた時、調教に乗ったことがある。「休み明けにしても前走はだらしなかったが、叩いてよくなる感触はあった。冬休みを取って心身とも大きく成長した。きょうは平均ペースになってくれたことが幸いしたが、抜け出した時、後ろからどんな凄い脚で来られても負けないと思った。体に実が入って本物の力がついてくれば距離も克服できるだろう」。(外)は早熟。当時はそんなイメージが強かったが、名手はGIホースになれる素質を見抜いていた。









続く福島のラジオたんぱ賞は楽勝だった。札幌記念に騎乗する岡部に替わって手綱を取った坂本勝美は、「3歳で乗った時より馬に重厚さが出た。スピード、瞬発力に加え器用さもある。それに頭がいい」と絶賛した。4歳春の時期に、牝馬が牡馬相手に重賞を連勝するのは容易なことではない。確かにこの年の4歳牝馬は、その後サンエイサンキューが札幌記念、ニシノフラワーがスプリンターズSを制するなどレベルが高かったが、シンコウラブリイは内国産馬とは一線を画す独自路線をしっかり歩み始めていた。
藤沢と安田は話し合って春、秋とも3走までと決めていた。秋初戦のクイーンSは今後の路線を占う重要なレースになる。夏の間も北海牧場で体を緩めずに乗り込み、美浦に戻ってからも予定どおりの調教を消化。欲をいえば馬体の成長が物足りなかったが臨戦態勢はできていた。ただ、本質的に行きたがる馬だから2000mの距離には一抹の不安があった。それは杞憂だった。2番手につけたシンコウラブリイは4コーナーで先頭に立つと直線は独走。役者の違いをみせつけた。









岡部のコメントがふるっていた。
「春よりもいろんな面で成長している。本音をいうと期待の半面、初距離、初コースとか不安も大きかった。でも、ケイコで教えたことを完ぺきに理解し結果に出してくれた。一生懸命走ろうとする気持ちの深さが、これまでの日本の馬とはひと味もふた味も違う」と、そのひたむきさに驚嘆した。進化し続けるアイルランド生まれの大和撫子。(外)も出走できるエリザベス女王杯という選択肢は、藤沢の脳裡から吹っ飛んだ。「与える課題を1つずつクリアしてくれる本当に利口な馬。ペースが速くなるジャパンCは合うと思う。富士SからジャパンCを目指します」と宣言した。
だが、物事はそう簡単に思惑どおりには運ばない。富士Sは勝つには勝ったが、格下のキョウエイボナンザに半馬身まで迫られる辛勝だった。クイーンSよりスタートから行きたがった。そのレース内容を見て関係者はジャパンCを断念、連闘でマイルCSに向かうことを決める。岡部はジャパンCにトウカイテイオーがいて騎乗できない事情もあった。
勝負事というものは不思議である。強気で攻めている時は勝ち続けるが、弱気の虫が顔を出すと負ける。えてしてそういうものだ。シンコウラブリイはマイルCSで、グーの音も出ない完敗を喫してしまった。









4歳牝馬がジャパンCを回避して異例の連闘で臨む。裏返せば自信の証拠。鞍上が岡部ということもあり1番人気に支持された。だが、前年の覇者ダイタクヘリオスに、まざまざと貫録の違いを見せつけられた。イクノディクタスが逃げるとは誰一人予想しなかっただろう。ダイタクヘリオスは勝ちパターンの逃げを打てなかった。シンコウラブリイもいつもより後方の馬込みでレースを進めた。条件は五分だったが勝負どころからが違った。外々を回ってダイタクヘリオスが進出、直線に向くと一気に突き放しにかかる。片やシンコウラブリイは4コーナーで馬群に包まれさばくのに苦労した。抜け出して追撃にかかった時、すでに勝負は決していた。
岡部は「4コーナーで少し不利はあったが、勝った馬は強い」と、潔く完敗を認めた。藤沢も「あの馬のスピードには脱帽です。不利があったことも確かだが、そういうことも含めての競馬だから言い訳にはならない。あれがなくても勝てなかったでしょう。4歳牝馬としては連闘でよく頑張ってくれたと思う。現時点では力が足りなかった。いい勉強をさせてもらいました」と勝者を讃えた。GIは簡単に勝たせてもらえない。それを肌で感じたのが最大の収穫だった。秋は3戦の予定どおり、シンコウラブリイは休養に入った。
ごく一部の例外を除くと、どんなサラブレッドにも停滞する時期がある。シンコウラブリイの5歳春シーズンがそうだった。GIの厚い壁が厳然と立ちはだかった。









初戦の京王杯SC。シンコウラブリイは前年の安田記念馬ヤマニンゼファーを押しのけ1番人気に推された。だが、ここでも完敗を喫した。道中、直後でピッタリとマークされる展開から直線は完全な2頭の一騎打ちとなった。坂上、ヤマニンゼファーの末脚が全開したところで抵抗は終わった。彼女には休み明けのハンデがあったが、相手は4キロ重い(実質2キロ)斤量を背負っていた。一度叩いた上積みは見込めても、定量で戦う本番の安田記念で逆転するのは容易ではない。
まして、この年から安田記念は国際レースとなり外国馬2頭の参戦が決まっていた。丸抱えの招待レースのジャパンCとは違う。自費参加の外国馬は相撲でいうところのガチンコ勝負を挑んでくるはずだ。「自分が見た経験から言うとヨーロッパのマイラーは本当に強い。GIIIやハンディキャップホース程度の馬が、アメリカに行くとグレードの高いレースを楽に勝ったりする。それにヤマニンゼファー、ニシノフラワーもいる。悪い年に生まれてしまったかな」。藤沢は冗談めかして言ったが、本当に自信がなかった。









日本馬のレベルは上がっていた。外国馬はフランスのキットウッド、アメリカのロータスプールの2頭。前者はパドックから激しくイレ込み、後者はゲートでキョロキョロして出遅れる不利があった。それがなくても勝てなかっただろう。ヤマニンゼファーが2番手から直線早めに抜け出して押し切る横綱相撲で連覇。シンコウラブリイはインから一瞬抜け出すかという脚を使ったが、勝者を脅かすまでに至らない。3連続の完敗だった。
うっぷん晴らしに札幌日経オープンが選ばれた。相手が弱いところで勝つ味を思い出させたい意味もあった。ところが、格下のゴールデンアイをなんとかクビ差抑える辛勝。明らかに連敗のダメージが残っていた。予定していた札幌記念を使うどころではなかった。
安田のアドバイザーの鬼塚義臣は以前、道営競馬の厩務員を務めていたが、"マイネル"の岡田繁幸に才能を買われ、独特の相馬眼で埋もれた逸材を発掘した目利きである。彼が「最悪の状態でした。精神的に参っていて、このまま終わってしまうのではと思ったほど。普通なら放牧に出しているような状態だったんです」と打ち明けたほどだ。









しかし、藤沢は放牧という安易な方法を取らなかった。函館に移動させ、同厩の北海道組と一緒に調整する道を選んだ。年内、あと3戦で引退が内定していた。距離適性を考えると、使えるGIはマイルCSのワンチャンスだった。放牧に出して緩めたら一から体を作り直さなくはいけない。その時間はなかった。それと、精神的ダメージを受けた牝馬は、手元から離したら元に戻らないのではないかという不安があったからだ。
藤沢はイギリスでの経験から、「馬は簡単に人間の思いどおりにならない。走れと強制すると走らない。抑えて行けと思ったら行きたがる。それが馬なんだから。向こうの人は、馬はそういうものだと思って上手に取り扱っている」と言う。スポーツ選手でもケガをした時、完全休養せずに調整しながら直すという人がいる。それと同じで休ませずに精神のダメージを取り除く方法に賭けた。
マラソンでは35キロ前後が最も苦しい地点といわれる。登山でも7、8合目あたりがそうだ。いわゆる胸突き八丁。そこから踏ん張れるか、体力よりも精神力がモノをいう。そこを乗り切れば楽になる。人も馬も我慢の時だった。ついにシンコウラブリイは42.195キロの35キロ地点を切り抜けた。









それには岡部の力が大きかった。藤沢は言う。「私は騎手経験のない調教師。そういう意味では遠慮なくアドバイスしてくれた。ルドルフだけでなく、いい馬にたくさん乗っていたからね。たとえばビワハヤヒデはよその厩舎の馬だが、競馬を見て調教を岡部ジョッキーに聞くと、イメージとしてはこういう馬なんだと、管理しているような気になる。もちろん、関係者にはかなわないよ。でも、いろんな馬に乗って様々な角度から適正なジャッジをしてくれるから、自分は20頭しか管理していないが何百頭もいる気分になった。どんなに走る馬でも苦しい時期はある。それを乗り越えられるかどうかとか、乗っている人でないと分からない面があると思う。武豊は毎回乗ってくれないよ。岡部は毎回乗ってケイコもつけてくれる。彼が主戦でなければ私はリーディングを取れなかったと思う」。その信頼関係は今でも変わらない。









最悪の時期を脱したシンコウラブリイは、精神的にも肉体的にも逞しくなった。秋初戦の毎日王冠。1週前の追い切りで、藤沢は負けないと確信した。それまでは岡部が追い切りに乗るとテンションが上がりすぎて、引っ掛かってもの凄い時計が出てしまった。それが、ウソのようにスムーズに折り合って走った。精神的にひと皮むけたことを物語っていた。馬体重は448キロとデビュー以来最高。思いどおりの調教ができ、なおかつ体が増える。理想的なステップでレースを迎えた。
報道を通じて好調ぶりは伝わっていた。2回完敗しているヤマニンゼファーを押しのけて1番人気。その支持にこたえた。スタート直後は少し行きたがったが、向こう流しで折り合いがつく。楽な手応えで4コーナーを回り直線半ばで先頭を奪う。中団から差したセキテイリュウオーを1馬身3/4突き放す完勝だった。しかも1分45秒5のコースレコード。続く天皇賞・秋でヤマニンゼファー、セキテイリュウオーが大接戦のマッチレースを演じたことで、シンコウラブリイの強さがよりクローズアップされる。









「予定どおりのケイコができたことがレースに直結したね。ゴーサインを出してからの反応は抜群だった。まだ気持ちが真面目すぎて行きたがる面があるけど、春までより競馬がしやすくなっている。精神面で大人になってきたことを確認できただけで大きな収穫があった」。岡部は珍しく顔をほころばせた。続くスワンSはステイジヒーローとクビ差だったが着差以上の強さを見せつけた。シンコウラブリイ協奏曲の旋律は、激しくうねりながら歓喜のフィナーレへと突き進む。
マイルCS。競走生活最後の日を、天がハデな演出でアシストした。朝から小雨がバラついていた。それでも良馬場が保たれ、3つ前の京都3歳Sではレコードタイムが樹立された。
状況は突如、一変した。天地創造を思わせるような豪雨が襲い、馬場コンディションは瞬時に悪化した。直前のレースは稍重を一気に飛び越して重に悪化。マイルCSはスタートを待たずして不良馬場と化した。シンコウラブリイは翌年から繁殖牝馬としての使命が待っている。









「勝ち負けより無事に走ってきてくれ」。藤沢は勝負師の以前にフェミニストの気持ちが優先した。
雨は僥倖だった。良なら仮柵が取れたインに馬群が殺到していただろう。道悪になったことで馬群がバラけた。岡部は念には念を入れて内枠から徐々に外へと持ち出す。馬も足下に気を使ったからスムーズに折り合った。逃げまくるイイデザオウを直線半ばでかわし真っ先にゴールへ飛び込んだ。
いつの間にか雨は小やみになり、関係者は晴れがましい表情で表彰台に立った。岡部は「なかなか届かなかったGIをようやく勝てた。これで関係者、応援してくれたファンに恩返しができたと思う。ホッとしました。直前の雨が味方してくれたが、それ以上に馬が偉かった。最後のレースだと知っていたかのように、渾身の力を発揮してくれた。これまでで一番いいレースをしてくれた」と、感情を抑えながら愛馬を褒めたたえた。









5歳になって牡馬相手の重賞を3連勝した牝馬は、未だかつて日本にいない。ホップ、ステップをラストランでの初GI制覇という大ジャンプにつなげた。すべての跳躍が完ぺきだった。引退の舞台、それも勝ち負けを争う真剣勝負で、これほど劇的なシーンは滅多に見られないだろう。それでも関係者は、周囲の「まだ走れるのに」と惜しむ声を毅然とした態度で断った。惜しまれながら去るというのは美学であり、馬にとっては最高の幸せかもしれない。
初のGI制覇。藤沢は、そこに至るまでの過程とゴールシーンを鮮明に思い出すことができる。「もとから思っていたが、実際に勝って、やっぱりGIレースというのは馬だなとよけい思ったね。人間がいくら小細工してもダメなのは間違いない。アイルランドで初めて見た瞬間、ピンと来るものがあった。でも、そういう馬ばかり追求するのは大変なこと。そればかり追いかけちゃいかんという思いは今も根源にある。あとの90数%は条件馬なんだから。条件馬の適性をつかみ、少しでも多く稼がせることが調教師の重要な仕事でもある。それにはどこかで選別しないと。シンコウラブリイはいろんな意味で、私の基本になった馬なんですよ」









迷った時は基本に帰れという。シンコウラブリイのGIタイトルは1つにすぎなかったが、その何倍も重い事実と教訓を藤沢たちの胸に刻みつけた。
 (文中敬称略)