「必要」と「アート」の話 | Tree Topの魔女たち

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JR大久保駅前にあるちょっとだけスピリチュアルな喫茶店Tree Topに集まる魔女たちのブログです。

サラは来週 インドネシアに行くことになっています。

いくつかの偶然が重なってそういう道が開いたので、どんな風に進むのかわかりませんが、呼ばれるままに行ってみることにしました。



今回の行先はバリで、ウブドゥという芸術村を中心に インドネシアンアートを求めにいくのです。

サラのインドネシア人のお友だちが 去年 ゲストハウスを始めたというので、お宿はそちら。

それもウブドゥにあるのだそうです。

この画像は、去年、ゲストハウスが建った時に撮ったものだと お友だちが送ってきました。

今は、もっと木が茂っているそうです。



ウブドゥは 今回で3度目だと思います。

いつのほどにか有名になって、芸術家たちがウブドゥに集まり、世界に向けて自分たちの存在を発信しようとしています。

だけど、まだまだ埋もれた芸術家たちはたくさんいるし、隠れたかわいいものもたくさんあります。


これはバナナの絵。

額には入っていませんが、途中で切れたバナナの葉の続きが額に彫ってあったりもします。



仏さまの顔です。

2枚組になっているようです。



ハスの花です。

こういう絵を見るとなんかほっとします。



絵や音楽などのアートは、生きていくのに必要かと言うと「必要」ではアリマセン。

なくても生きていけます。

だけど、ある方が「豊か」です。


「神との対話」という本があります。

ひと頃、話題になり、精神世界系の多くの人が読んだと思います。

サラも読みました。

Ⅲだったと思いますが、「必要とされなくなることを喜ぼう」という章があります。

えっ?って思います。

これは つまり その人が自分を必要としないでも 自立できるようになったことを喜ぼう と言っているのです。

なるほど…


だけど、それは自分にとっては 少々心細い話です。

必要とされない…え?私、要らんの?って気分になるからです。

その気持ちをよくよく分析してみると、相手が自分を必要としているのではなくて、自分が相手に「必要だ」と言われることを必要としているのです。

「必要」なら 自分を離さないはずだ、それなら自分はここにいられる…という安心を求めているのです。

でも、ほんとにそうでしょうか?


そんな風に考えていくうちに いろいろ見えてきました。

「必要」は、その「必要」が埋まったら「不必要」になるのです。

代わりのものでも何でも その穴が満たされれば「必要」はあっけなく「不必要」へと変わります。

結構 不安定です。

しかも、「必要」は「役に立つこと」を求めます。

役に立たなければ 不必要になるのです。

だから、その席にいる限り、その席にいるための代償を求められるのです。


役に立つことはいいことですが、役に立たなければならないとなると 話はちょっと違ってきます。

道具ならいざしらず、それが人や生き物の場合、そう言われては生き苦しくなります。


家族や恋人やペットを愛しいと思うのは 役に立つから じゃないと思います。

たとえ、居たら世話を焼かなくてはいけなくて 返って面倒であったとしても、その愛しさには変わりはなくて、その存在が唯一無二のものであって、そこに存在すること(あるいは存在したこと)自体が 自分の中にある豊かさを思い起こさせるからだと思います。


アートは、生きていくためには必要なものではアリマセンが、あると豊かになります。

生きていく上で必要とされる場面があるのは、役に立っていることなので、嬉しいことではありますが、サラは できればアートのように生きられればいいな と思います。

役に立つから じゃなくて お前が居ると楽しいから って言われたら 最高に嬉しいですから。