旅するおサルのぼちぼち世界&大阪周遊記 -2ページ目

ずーっと、裏口入場!?~大阪城公園

森ノ宮駅から再び環状線で一駅行くと、次は「大阪城公園」駅でございます。


大阪城公園駅。改装中。


その名の通り、この駅での見どころはまぁ何を差し置いても大阪城。


・・・・・なんやけど、おサルも含め、たぶん多くの大阪人にとっては

「大阪城公園」駅で降りる理由と言えば、どちらかというと城目的よりも



こちら「大阪城ホール」目的、という人も多いはず。


大阪城公園駅から直線に延びる歩道を進むこと5分くらい。

駅から天守閣に行くよりずいぶん先に到着する多目的ホールでございます。


今でこそコンサートなんかのイベントは大阪ドームで行われる事も多くなったけど、

一昔前までは大阪で大規模な室内イベントが行われるとなると

まぁ、まず間違いなくここ「大阪城ホール」での開催であったもんなんですね。


今でもしょっちゅうメジャーなアーティストさんたちのコンサートが行われているし、

なんちゅーか、東京で言う「武道館」的な立ち位置なんやと勝手に思っている。


そんな「大阪城ホール」を横目に見ながらさらに進むと


大阪城が見えてまいります。


外堀にかかる橋を渡ると現れるのが



青屋門


当時の姿を残す立派な門、


っと書きたいところやけど、残念ながら大阪城のほとんどの施設は

昭和20年の大阪大空襲の時に消失しており、ここ青屋門も戦後に復元された門なんやね。


まぁ、それでもこれだけの立派な門がある辺り、

やはり天下人、豊臣秀吉の居城であっただけはありますなぁ。


で、その青屋門をくぐってさらに進むと、



威風堂々とした大阪城が現れる訳でございます。


ま、この天守閣もやはり戦後のに復元されたものでして、

中に入るとエレベーターが設備されていたりして、

当時の雰囲気を感じさせない バリアフリーで時代に即した内装になっております。


で、おサルは子供の頃から割と最近まで、駅の名前からして、

大阪城に行くには「大阪城公園」駅が最短で正規のルートやろうと思っていたんやけど、

大阪城公園駅から天守閣方面に向かうこのルート、

つまり先ほどの青屋門をくぐって天守閣に向かうルートは厳密に言えば

「裏口」ルートである事に最近になって気づいてしまったんよね。


古今東西、お城の正門にあたる門は「大手門」(もしくは追手門)と呼ばれる。

ほんで、大阪城にもちゃんと「大手門」と呼ばれる門が存在する。


で、その「大手門」というのは大阪城公園駅から天守閣を挟んで真逆の方向に

あるんですわ。




大阪城公園のHPより。赤丸が大手門で青丸が青屋門。右端に駅が見える。


まぁ、子供の頃なんかはそもそもお城の「正門」がどれかなんて

これーっぽっちも考える訳もないのでもちろんしかたないんやけど、

実は生まれてこの方20年以上、習慣的に大阪城には「裏口」から入っていた

と思うとなんだかちょっといたたまれない。


せっかくなんで今回はぐるーっとお堀を回って大手門まで行き、

正々堂々と正門から大阪城を訪問してみる事にした。




こちらが大阪城の大手門。


残念ながら門そのものは改修中やったけど、

大きな通りがまっすぐに門に向かう感じはいかにも「正門」という佇まいである。

青屋門と、そこに通じる橋の幅と比べても、やっぱりこっちが「メインゲート」な雰囲気だ。


その大手門をくぐると左手側に大きな銀杏の木が見えてくる。



訪れたのはちょうど紅葉の時期で見事に色づいていた訳やけど、

実はこの木、大阪のイチョウの標本木と呼ばれる木で、

この木が全体的に黄色く色づいて来ると大阪のイチョウの紅葉が「見ごろ」を迎えた

という判断がなされるという重要な一本なのでございます。


ちなみに春に大阪の「開花宣言」の基準となる桜の標本木も、

このイチョウの木の奥に広がる「西の丸庭園」内にあるんよね。

この辺り一帯が大阪の季節の移り変わりを知らせる基準になっているんやねー。


んでもってついでに触れておくと、大手門をくぐって右手側にちょこっと進むと

こんな石碑が立っている。


石山本願寺推定地。


ほっとんどの人がこの石碑なんぞ気に留めずに、というかある事すら気づかずに

スルーして天守閣方面に向かってしまうんやけど、実は大阪という町の歴史を語る上で

けっこう重要なポイントやったりする。


今の大阪市内の一帯は戦国時代ごろは石山本願寺という

浄土真宗の大きなお寺が支配していた地域やったんやね。

宗教組織でありながらけっこうな権力を持っていたようで、

当時全国に領地を増やしていた織田信長の支配にも屈せず抵抗していたのですな。


結果的に織田信長に敗れて当時の寺があった広大な地域は徹底的に焼き尽くされ、

その跡地に「うちらが新しい大阪の支配者やで!」というお触れも込めて

信長の家臣であった秀吉が建てたのが「大阪城」という訳なのでございます。


実際に大阪城の築城が始まったのは本能寺の変で信長が暗殺され、

秀吉が天下人になる直前くらいの時期なんで、

天下の支配者たる秀吉の居城に相応しいように全国各地から第一線の職人が集められ、

当時の技術の粋を尽くした城普請が行われたのです。


ってな訳で大阪城にはこんなスケールのでかい石垣もあったりします。


「桜田門枡形の巨石」と呼ばれるもので畳36枚分、重さはなんと108トンもあるんやって!


天守閣と大阪城ホールには何度か行った事はあったけど、

今回あらためてお城の敷地内をゆっくりまわってみると、


1970年の大阪万博の時に埋められたタイムカプセルが城のド真ん前にあったり、

(5000年後に開ける事になってるんやってよ!)




豊臣秀吉を祀った神社があったり、

(なんか銅像でも卑しいおっさんな雰囲気でてるよーな気が・・・)


意外と知らない場所がまだまだあった事に気づいたのでございます。


桜やイチョウの標本木に、石山本願寺跡。

秀吉の神社や万博の記念物などなど、

お城の周りにはやっぱり大阪にまつわるものがわんさとありますなー。


そして何より、桜の時期くらいにしか来たことなかったけど、

秋もしっかり紅葉の名所になっている大阪城公園。



お城と自然美のコラボレーションは、やっぱし日本人の心に染み渡るのですよ。


テッパンの観光スポットやけど、なんだかんだと大阪観光では外せない場所やなっと

改めて思い知らされたのでした。




聖徳太子、改宗疑惑!?~森ノ宮

勾玉やらカテドラルやら意外とストーリー性に溢れていた玉造を後に

再び環状線で1駅進み、次は森ノ宮駅へとやってまいりました。



森ノ宮駅は大阪城への最寄駅の一つにもなっており、

大阪府民にとっては花見の季節なんかによくお世話になる駅でもあります。


駅からすぐの公園入口から大阪城を望む。


さて、大阪環状線上にはここ「森ノ宮」の他に「今宮」、「桜ノ宮」と3つ「宮」が付く駅がある。


今宮駅は以前の記事(こちら )でも書いたけれど、

もともとは今宮戎という神社への最寄駅出会った事が名前の由来。

桜ノ宮駅の近くにも同名の神社があってその名の通り付近は桜の名所の一つになっている。

よーするに「~宮」という地名が付いている場所では

付近にはその名の由来になっている神社があるはずなのだ。


ところが駅はけっこうメジャーながら「森ノ宮」という神社は聞いたことがなかった。

そんな訳で、探してみようかと思ったところ案外駅前すぐの場所にありました。


「森之宮神社」


正式名称を「鵲森宮」(かささぎもりのみや)という神社で、

創建は西暦589年、かの聖徳太子によって建立されたと言い伝えられているそうな。



「聖徳太子が建立した」という言い伝え自体は特に珍しいものではなく、

世界遺産にもなっている奈良の法隆寺や大阪の四天王寺などもそうである。


が、よ~く考えてみると実はちょっとヘンなのである。


法隆寺も四天王寺も仏教の寺であり、そして聖徳太子と言えば

日本に仏教を広めた最初期の人としても知られている。

宗教が生活に密着していない今でこそ仏教も神道もごっちゃ混ぜになっていて

特に区別されることが少なくなっているが、もともとは別々の宗教なのである。


仏教はちょうど聖徳太子が生きていた6世紀半ば頃に中国から日本へ入ってきた

いわば「輸入品」の宗教であり、それに対して

神社に代表される神道はそれ以前から日本の土地に根付いていた

日本オリジナルのいわば「国産品」の宗教なんやね。


聖徳太子が自分で仏教を広めるまではどちらかというと神道が優勢やったはずで、

この鵲森宮は対立勢力であった豪族との戦いに勝利した記念に

自分の両親を祀って建てた神社なんだとか。


589年の創建というから、四天王寺(593年)や法隆寺(607年)を建てるさらにその前。

もしかするとこの辺の時期に聖徳太子自身が神道から仏教へ「改宗」したのかもしれない。

もしくは聖徳太子の両親は仏教なんぞ知らずに昔からある神道を信仰していたので

その両親を仏教の寺に祀るのはどーかとゆーので神社にしたのかも。

いずれにせよ仏教徒・聖徳太子が建てた「唯一の神社」と考えると

日本史上でもなかなかに貴重な存在となりそうやね。



実際神社の入り口には「当社は聖徳太子が建立された唯一の神社」と

(けっこうラフな字体で)書かれてある・・・左下の白い板。


そんな貴重な存在やのに大阪人にもあんまし知られてへん「森之宮」。

駅からすぐの好立地やのに実際この日も境内にいたのはおサルだけ。

やっぱ商売繁盛の神様「えべっさん」を祀っている(今宮戎)とか

桜の名所(桜ノ宮)とか、何かしら現世的なご利益がないと人は訪れないんかねぇ・・・


ちなみにじゃーなんで聖徳太子がこの地を選んで神社を建てたのか、となると、

一駅手前の「玉造」駅には勾玉職人が住み着いていたりしてたよーに

古代からこの辺りには人が住み着いていて

何かと重要な場所やったと推察される訳ですな。


その証拠に「森之宮」よりさらにマイナーな歴史遺産として

実は「森ノ宮貝塚」なる遺跡すら存在している。


現在は多目的ホールになっている建物の地下に・・・・




「森ノ宮貝塚」への入り口がひっそりと佇んでいる・・・・(普段は非公開)

果たして「森ノ宮」に貝塚がある事を知っている人はどれだけおる事やら??


さらにさらに、聖徳太子のすぐ後の時代に起こった政変であり、

どんなに歴史音痴の人でも一度は聞いたことがあろうかの有名な「大化の改新」。


中臣鎌足と中大兄皇子が政敵であった蘇我馬子を倒し、

それまでの豪族中心の世の中から天皇中心の政治へと変わっていくキッカケになった

日本史の一つの転換点として極めて重要な出来事なのですが、

実は大化の改新の結果、日本の首都が蘇我氏の地元の飛鳥から

当時は難波とよばれていたここ大阪の地に移されたことはあまり知られていない。


そんでもって、森ノ宮駅から西に徒歩10分くらいの場所に、

その大阪が首都であった頃の中心地が「難波宮跡」(なにわのみやあと)

として今でもちゃーんと残っている事も、これまたあまり知られていない。




かつての宮殿跡も残されている。


ちなみにかつては天皇がお住まいであった由緒正しきここ難波宮でございますが、

現在では難波宮跡公園として付近の住民の憩いの場所になっており、

なんなら公園の端っこの方ではブルーシートの小屋が立っていたりする

ずいぶんとカジュアルな雰囲気の場所になっておりました・・・・



「テント・小屋掛けなどの設置を禁止します」という立て看板の真横で堂々とお住まいです・・・

大阪人で「森ノ宮」と聞いて大阪城公園以外の歴史遺産をイメージする人は

ほっとんどおらんと思うけど、ふらりと歩いてみると

貝塚から聖徳太子が建てた唯一の神社、そしてかつての都の跡など

どれももれなくマイナーながら、

大阪が日本の政治の中心地であったはるか古代の面影を感じられる

貴重なスポットが満載でございましたとさ。

日本でわずかに3か所!~玉造

鶴橋駅周辺で多彩なホルモンを堪能した後は、

再び環状線に乗って一駅。

次に降り立ったのは玉造(たまつくり)駅でございます。


玉造駅・・・・・

環状線の旅をやっていて3~4駅に1駅くらいの割合で訪れる

「ここになにがあるんやろ?」ってな駅。

実際に玉造駅で降りたのは実はおサルも今回が初めてなのですな。


玉造駅。さて、何があるのか?


特に行くあてがあったわけではなく、とりあえず「たまつくり」という

何とも珍しい地名が気になったので調べてみた。


するとどうやら古墳時代の頃、この辺り一帯に勾玉(まがたま)を作る人たちの集団

「玉造部(たまつくりべ)」が暮らしていたことがその由来なんだとか。


そんな古代からの由緒正しき地名を持つ玉造の起源に触れるべく、

その玉造部の人々が暮らしていた頃からこの地に鎮座するという

玉造稲荷神社に行ってみた。


ちょうど七五三のシーズンで参拝者も多かった。


すると境内の敷地内になにやら神社に似つかわしくない古代チックな建物を発見。





近づいてみると・・・




難波玉造資料館(なにわ たまつくり しりょうかん)


なんと世にも珍しい勾玉に関する資料館であることが判明!

中では勾玉の作り方とか勾玉の歴史なんかを展示しているらしく、

まさに「玉造」の土地を代表するような建物!


さっそく中に・・・



っと思いきや、金庫室を思わせる頑丈な鋼鉄製の扉の前に

一枚の張り紙が・・・




「拝観の方は事前(1週間前迄)にお申し付けください」



((((((ノ゚⊿゚)ノ オーイ!



玉造という土地で勾玉の歴史を学ぶなんて、

大阪人でもあんまし考え付かん観光ルートでなかなか興味をそそられるけれど、

きょうび、このご時世に勾玉の資料館見るのに一週間前から予約するヤツなんて

そうそうおれへんがな・・・・


ふらっと訪れた人が気軽に勾玉とこの玉造という土地について学べるような

もうちっとばかし敷居の低い資料館であってもええと思うんやけどなぁ・・・・


さらに境内をぶらついていると何かの記念碑を発見。


「玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり) ゆかりの地」と書いてある。



江戸時代、この辺りに住んでいた高津屋吉右衛門という有力町人の畑で

代々栽培されていた越瓜(しろうり)が粕漬けにすると美味であるというので

諸国に広まったらしく、付近にある大阪城の門の一つであった玉造門が

黒塗りだったことから玉造黒門越瓜と名づけられたんだそうな。


そして今では「玉造黒門越瓜」はなにわ伝統野菜のひとつ。

その発祥の地がこの神社境内周辺の畑やったというわけですな。


これまたこの辺りの土地の歴史を感じられる興味深いスポットなんやけど、

この「記念碑」の扱いが・・・・・

こんな感じ・・・・畑の奥にあって近づくことすらできまへん汗

ちなみに上の写真はズームで。


さっきの勾玉資料館といいこの記念碑といい、

なんだかせっかく由緒正しい歴史ある土地柄やのに、

その魅力を自らの手で閉ざしている感がハンパない・・・・

うーん、何だか惜しいで、玉造。


さて、この玉造には調べていくと大阪はもとより関西全域でも

あるグループの人々にとって大変に重要な施設がある事が判明した。


話がごっつい飛ぶけれど、キリスト教の一派であるカトリックでは

聖職者の間に明確なランクが存在する。


まずは一般信者の人たちがいて、その数は全世界で推定12億人くらいだそうな。

世界のだいたい5人に1人がカトリック教徒って感じかねぇ。


で、その信者の人たちに神の教えを説く役割をするのが「司祭」とその補佐役の「助祭」。

日曜の教会でミサとかをやってる「神父さん」はだいたいこのランクなんかな。


そんな全国津々浦々にある教会は「教区」と呼ばれる一定のエリアのどれかに属している。

日本には北は札幌教区から南は那覇教区まで全部で16の教区があって、

その教区のトップに立つのが「司教」さん。


さらにその「教区」を複数まとめて管轄するのが「大司教区」でそのトップが「大司教」

となるのだそうな。

で、日本は東京・大阪・長崎の3つの大司教区に分かれるんやって。

(長崎が入っているところが歴史を感じるね)


んで、それぞれの教区にいらっしゃる司教様が座る椅子を「司教座」と呼んで、

その「司教座」がある教会の事を「司教座聖堂」って言うんやって。


(もうここまで来たら興味ない人には「なんのこっちゃ?」って話やね。

たぶん半分以上の人は読むの辞めてるやろなー。

あともうちょっとで終わりますんで。。。)


「司教座聖堂」なんて言われてもほっとんどの人がピンと来ないと思うけど、

その英語訳である「カテドラル」という言葉は聞いたことがある人も

それなりにいるのではないだろうか?


何しろ、司教様がいらっしゃる教会はだいたいが大きくて立派な建物になるんで

世界各国の「カテドラル」が観光名所になっていて、

中には世界遺産になっている場所も少なくない。


「地球の〇き方」に載ってる「~大聖堂」とかいう観光名所は

けっこうな割合でこの「カテドラル」になるとゆー訳やね。


で、何が言いたかったかというと、そう、

ここ玉造には何とそのカテドラルが存在するねんよ!


その名も「大阪玉造聖マリア大聖堂」(大阪カテドラル)


しかもここのカテドラルは司教様のさらに上の位である大司教様が座る

「大司教座」がある日本でも3つしかない大変重要な教会なんやね。


そんな重要な宗教施設が実はここ大阪は玉造にあったとは!


ちなみになぜ玉造かというと、江戸時代にこの辺に細川ガラシャという

大名の奥さんにしてキリシタンであった人が住んでいたことに関係するらしいね。


で、そんな世界各国で観光名所にもなっているカテドラル、

我が街、大阪のカテドラルはどんなかというと・・・・



どーん!



・・・・ただ今全面改装中!Σ(゚д゚;)



近くの案内板に1963年の創建当時の航空写真が残ってたんでとりあえずはそれで・・・




直線的でシンプルなつくりやね。


来年の春ごろには改装を終えてその美しい姿が再びみられるそうな・・・


中には壮麗なステンドグラスとか、大きなパイプオルガンもあるみたいなんで

改装が終わったら、また見に行ってみるかなー。


ともかくも、玉造、古代から江戸時代にキリスト教まで

なんだか最近のマイナーなイメージとは裏腹に、

大阪の土地と歴史を語る上でけっこう重要な場所でございましたわー。