全国高校駅伝をテレビで放映している。
日本では、箱根駅伝を筆頭に、出雲駅伝、実業団駅伝など、駅伝が盛んだ。
仲間と目的をひとつにしてタスキをつなげるという競技に多くの日本人は引き付けられるようだ。
私も、都内の沿道で箱根駅伝を見たことがある。
出身校は出ていなかったけど、さまざまな大学ののぼりが立ち、多くの在校生やOBが応援しているのを見て選手と沿道の一体感に祝祭的な雰囲気を感じた。
日本発祥のEKIDENは世界大会も開かれているけど、外国ではリレー競技の一つとして認識され、その精神性はあまり特別視されていないように感じる。
日本には駅伝を受け入れやすい背景があるのだろうか。
若い人たちがさっそうと走っている姿は魅力的だけど、少し違和感を覚える時もある。
ランナーの鉢巻は、戦時中の精神主義に通じるものがあるかもしれない。
気合を入れる以外にどんな意味があるのだろう。髪をまとめたり汗が落ちるのを防いだりするのであれば、ヘアバンドの方が機能的ではないだろうか。
ネガティブに言い方になるかもしれないが、駅伝には「共同責任、集団行動、一斉競争、家長的監督」などといった、封建的、保守的、軍隊、戦時体制に通じる雰囲気も感じる。
「アスリートとして一人ひとりだと突出した力がないので、チームのみんなをつなぎ合わせたタイムで競争しよう」という逃げの姿勢もないだろうか。
何よりも心苦しいのは、アクシデントに襲われて走行が困難になった若い人が、苦痛に顔を歪めながらなんとかして次の人にタスキをつなごうとする姿。
ここでリタイアしてしまうと、この大会に賭けてきた仲間に大きな迷惑をかけてしまう。
そんなことはできないので、意識が朦朧としても、後遺症が残りそうな傷を負っても、限界まで力を尽そうとする。
ほんとうに、そこまで無理をする必要があるのだろうか?
自分の頭で考えず、みんなに合わせるのが当然だという思い込みで、無理な我慢をしていないだろうか。
多様性が認められることの多い時代に、なぜみんなと同じ方向を向いて同じ距離で競争する必要があるのだろう。
みんなで長短を補って総合力でいい結果を出す、というのは魅力的に思えるけど、個の強さがなかなか育たず、世界で戦えないという状況に陥っていないだろうか。
好きな格好で好きな方向に向かって走って行ってもいいじゃないか、とも感じる。
駅伝で鍛えられた人たちは責任感や協調性もあり、いい社会構成員になるのかもしれないけど、世界に通用する天才は生まれにくいのではないだろうか。
全国で行われている駅伝大会は、マスコミ各社が主催・共催している。
保守も革新も、リベラルも守旧も、右も左も関係なく、どの会社も売り上げにつながるコンテンツを確保し、江戸時代の五人組や太平洋戦争下の隣組を彷彿とさせる自己犠牲・同調圧力・共同責任を肯定・推奨していないだろうか。
高校野球もそうだけど、全体主義に通じる統制がある競技に批判精神を発揮しないマスコミは、リベラルを名乗る資格はあるのだろうか。
商業主義や全体主義や組織化はマスコミと親和性が高いのだろうか。それを隠すために、中立性とか公平性とかリベラルと言った言葉で予防線を張っているのかもしれない。
一般人は、マスコミに扇動されることの危険性を意識しておいたほうが、だまされずに済むかもしれない。
1チームぐらい、ふざけた格好のチームが走って、ぶっちぎりで優勝してくれないだろうか。
そのようなことをぼんやりと考える。
<参考>
全国都道府県対抗駅伝 中国新聞社(共催)、NHK(共催)
実業団対抗駅伝 毎日新聞社(共催)、TBS(共催)
箱根駅伝 読売新聞社(共催)、日本テレビ(特別後援)、報知新聞社(後援)
全日本大学駅伝 朝日新聞社(主催)、テレビ朝日(主催)
出雲駅伝 産業経済新聞社(共催)、フジテレビ(共催)
東海学生駅伝 中日新聞社(共催)
関西学生対抗駅伝 読売新聞社(共催)
全国高校駅伝 毎日新聞社(主催)
日本では、箱根駅伝を筆頭に、出雲駅伝、実業団駅伝など、駅伝が盛んだ。
仲間と目的をひとつにしてタスキをつなげるという競技に多くの日本人は引き付けられるようだ。
私も、都内の沿道で箱根駅伝を見たことがある。
出身校は出ていなかったけど、さまざまな大学ののぼりが立ち、多くの在校生やOBが応援しているのを見て選手と沿道の一体感に祝祭的な雰囲気を感じた。
日本発祥のEKIDENは世界大会も開かれているけど、外国ではリレー競技の一つとして認識され、その精神性はあまり特別視されていないように感じる。
日本には駅伝を受け入れやすい背景があるのだろうか。
若い人たちがさっそうと走っている姿は魅力的だけど、少し違和感を覚える時もある。
ランナーの鉢巻は、戦時中の精神主義に通じるものがあるかもしれない。
気合を入れる以外にどんな意味があるのだろう。髪をまとめたり汗が落ちるのを防いだりするのであれば、ヘアバンドの方が機能的ではないだろうか。
ネガティブに言い方になるかもしれないが、駅伝には「共同責任、集団行動、一斉競争、家長的監督」などといった、封建的、保守的、軍隊、戦時体制に通じる雰囲気も感じる。
「アスリートとして一人ひとりだと突出した力がないので、チームのみんなをつなぎ合わせたタイムで競争しよう」という逃げの姿勢もないだろうか。
何よりも心苦しいのは、アクシデントに襲われて走行が困難になった若い人が、苦痛に顔を歪めながらなんとかして次の人にタスキをつなごうとする姿。
ここでリタイアしてしまうと、この大会に賭けてきた仲間に大きな迷惑をかけてしまう。
そんなことはできないので、意識が朦朧としても、後遺症が残りそうな傷を負っても、限界まで力を尽そうとする。
ほんとうに、そこまで無理をする必要があるのだろうか?
自分の頭で考えず、みんなに合わせるのが当然だという思い込みで、無理な我慢をしていないだろうか。
多様性が認められることの多い時代に、なぜみんなと同じ方向を向いて同じ距離で競争する必要があるのだろう。
みんなで長短を補って総合力でいい結果を出す、というのは魅力的に思えるけど、個の強さがなかなか育たず、世界で戦えないという状況に陥っていないだろうか。
好きな格好で好きな方向に向かって走って行ってもいいじゃないか、とも感じる。
駅伝で鍛えられた人たちは責任感や協調性もあり、いい社会構成員になるのかもしれないけど、世界に通用する天才は生まれにくいのではないだろうか。
全国で行われている駅伝大会は、マスコミ各社が主催・共催している。
保守も革新も、リベラルも守旧も、右も左も関係なく、どの会社も売り上げにつながるコンテンツを確保し、江戸時代の五人組や太平洋戦争下の隣組を彷彿とさせる自己犠牲・同調圧力・共同責任を肯定・推奨していないだろうか。
高校野球もそうだけど、全体主義に通じる統制がある競技に批判精神を発揮しないマスコミは、リベラルを名乗る資格はあるのだろうか。
商業主義や全体主義や組織化はマスコミと親和性が高いのだろうか。それを隠すために、中立性とか公平性とかリベラルと言った言葉で予防線を張っているのかもしれない。
一般人は、マスコミに扇動されることの危険性を意識しておいたほうが、だまされずに済むかもしれない。
1チームぐらい、ふざけた格好のチームが走って、ぶっちぎりで優勝してくれないだろうか。
そのようなことをぼんやりと考える。
<参考>
全国都道府県対抗駅伝 中国新聞社(共催)、NHK(共催)
実業団対抗駅伝 毎日新聞社(共催)、TBS(共催)
箱根駅伝 読売新聞社(共催)、日本テレビ(特別後援)、報知新聞社(後援)
全日本大学駅伝 朝日新聞社(主催)、テレビ朝日(主催)
出雲駅伝 産業経済新聞社(共催)、フジテレビ(共催)
東海学生駅伝 中日新聞社(共催)
関西学生対抗駅伝 読売新聞社(共催)
全国高校駅伝 毎日新聞社(主催)