盗みという行為を批判する人がいる。
もし、その人が、自分のものを奪われた時だけ盗みを批判して、
自分が誰かのものを奪う行為について沈黙していれば、
周囲の人に不信感を抱かれるだろう。
「あの人は盗みという行為について批判的なのではない、
自分が大事で、自分の利益にならないことを批判しているだけだ」
と見破られてしまう。
そんな状況は、現在も多くさまざまなところに見られる。
原発や戦争や新しい歴史教科書や、共産主義や新興宗教や圧政などに反対する人は
ほんとうに原発に反対しているのだろうか。
ほんとうに暴力や戦争に反対しているのだろうか。
ほんとうに恣意的な歴史解釈に反対しているのだろうか。
ほんとうに世の中の構造を考えているのだろうか。
ときどき疑いを持ってしまうときがある。
例えば、ぼくも原発がない安全なところに住みたいと思うけど、
原発に反対する人の多くは、中国政府に対して批判を行っていない。
中国政府は311以降も多くの原発を建設する考えを変えていない。
http://www.news-postseven.com/archives/20110501_18579.html
> 現在、中国では13基の原子炉(総設備容量は1080万kW)が稼働中だが、
> 中国国務院はすでに32基の新規建設を承認し(内28基は建設中)、建設承認の
> 前期作業に入った原発は38基ある。建設・計画中だけで計70基で、
> 20年までに現在の7倍の約7000万kWと、日本を上回る規模になるが、
> 中国政府は2050年までに230基(3億2400万kW)まで増やし、世界最大の
> 原発大国となる計画である。
もし中国の原発で事故があれば、風下の日本各地に大きな被害が出る恐れがある。
そうなれば中国政府はどう対応するだろうか。
原発に反対するのであれば、日本だろうと中国だろうと韓国だろうとフランスだろうと、
各国の活動家と連帯して原発建設に反対すればいい。
なぜ各国の大使館の前でデモ行進することなく、こんなときだけ日本に引きこもっているのだろう。
国境とか政府とか国籍にしばられた世界を嫌っていたのではなかったのだろうか。
世界はひとつだとか国境は意味がないとか言っていなかっただろうか。
それなら、狭い日本にとらわれず、原発に反対すればいい。
なぜ日本の原発にだけ反対して満足しているのだろう。
日本政府の原発は否定したいけど、中国政府の原発は否定したくない、と言うのであれば
原発という構造に反対しているのではなくて、原発を持っている日本の国や政府に反対しているだけではないか?と疑われてしまう。
もし、戦争に反対するのであれば、日本の戦争もアメリカの戦争も、中国や韓国の戦争も、
ソマリアやスーダンの武力衝突も反対すればいい。
もし、あやまった歴史認識に反対するのであれば、何が正確な歴史なのか、地道に研究するしかない。
右派的価値観や左派的価値観に沿った歴史認識には見落としもあるだろう。
キリスト教的価値観によって記された歴史も、イスラム教的価値観によって解釈された歴史も、若い人の価値観も年配者の価値観も、違いがあって当然だ。
だけど、若い時に影響を受けて、知らず知らず自分のものとして受け入れてしまった思考パターンを、絶対的に肯定されるものだと認識するのにはおごりがある。
証拠を積み上げて論理的に実証された事実に対し、右派だからとか左派だからといったことを理由に無視したり否定したりするのは科学的ではない。
誰だって自分にとって価値があると認識するものは視野に入るけど、
価値がないと思ったら視野に入れない。
だから、歴史の中で多くの事実が無意識にゆがめられて伝えられ、あったこともなかったことにされた。
それは、どんな価値観を持つどんな体制の国であっても同じだ。
国でなくても、村やコミューンでも同じだ。
立場によって認識の違いがある中で、自分と認識の違う者を犯罪者扱いして否定するのは、
誠実な態度ではない。
そういった態度こそが、多くの争いや対立を生んできた。
誰だって否定したい行為や許しがたい行為、見下してしまいそうな人々や受け入れたくない考えなどがあるだろう。
なぜ否定してしまうのか、なぜ拒絶してしまうのか、怒りを覚えてしまうのか、
その仕組みを自覚しなくては、いつまでたっても多くの人を受け入れられず、認め合えず、
ストレスをためて実りの少ない堂々巡りのような対立を続けて行くしかないだろう。
原発や戦争に反対することによって、自分が所属している環境や国家に対立し、抑圧を打破して自由を得ようと認識している人は、たぶん、いつまでも安らぎの地や自由を手に入れることはできない。
もしかしたら、慣習とか常識とか社会とか国家といった環境にとらわれてストレスを抱える人が
そこから脱しようとしてついつい自分の周囲に反発するのかもしれない。
しかし、怒ったり侮蔑したり否定したり攻撃しても、求めるものが手に入るとは限らない。
むしろ、発想が乏しいから、つい怒ったり侮蔑したりすることで何か変えられると思ってしまうのかもしれない。
ほんとうに世の中を変えたいと思うのであれば、まずは世の中の構造をしっかりと認識すべきではないだろうか。
まずは世の中の構造を認識しなければ正確な判断もできない。
それに、世の中を動かす大きな仕事をする人は、どなり声や攻撃的な文章を武器としてない。
声が大きくなくても、態度が威圧的でなくても、攻撃的な言辞を使わなくても、
おどしの言葉におびえないで淡々と、事実関係を解き明かしてさまざまな事象の因果関係を認識すればいい。
それが、堂々巡りの争いから脱出し、より住みやすいところに向かう道ではないかと思う。
もし、その人が、自分のものを奪われた時だけ盗みを批判して、
自分が誰かのものを奪う行為について沈黙していれば、
周囲の人に不信感を抱かれるだろう。
「あの人は盗みという行為について批判的なのではない、
自分が大事で、自分の利益にならないことを批判しているだけだ」
と見破られてしまう。
そんな状況は、現在も多くさまざまなところに見られる。
原発や戦争や新しい歴史教科書や、共産主義や新興宗教や圧政などに反対する人は
ほんとうに原発に反対しているのだろうか。
ほんとうに暴力や戦争に反対しているのだろうか。
ほんとうに恣意的な歴史解釈に反対しているのだろうか。
ほんとうに世の中の構造を考えているのだろうか。
ときどき疑いを持ってしまうときがある。
例えば、ぼくも原発がない安全なところに住みたいと思うけど、
原発に反対する人の多くは、中国政府に対して批判を行っていない。
中国政府は311以降も多くの原発を建設する考えを変えていない。
http://www.news-postseven.com/archives/20110501_18579.html
> 現在、中国では13基の原子炉(総設備容量は1080万kW)が稼働中だが、
> 中国国務院はすでに32基の新規建設を承認し(内28基は建設中)、建設承認の
> 前期作業に入った原発は38基ある。建設・計画中だけで計70基で、
> 20年までに現在の7倍の約7000万kWと、日本を上回る規模になるが、
> 中国政府は2050年までに230基(3億2400万kW)まで増やし、世界最大の
> 原発大国となる計画である。
もし中国の原発で事故があれば、風下の日本各地に大きな被害が出る恐れがある。
そうなれば中国政府はどう対応するだろうか。
原発に反対するのであれば、日本だろうと中国だろうと韓国だろうとフランスだろうと、
各国の活動家と連帯して原発建設に反対すればいい。
なぜ各国の大使館の前でデモ行進することなく、こんなときだけ日本に引きこもっているのだろう。
国境とか政府とか国籍にしばられた世界を嫌っていたのではなかったのだろうか。
世界はひとつだとか国境は意味がないとか言っていなかっただろうか。
それなら、狭い日本にとらわれず、原発に反対すればいい。
なぜ日本の原発にだけ反対して満足しているのだろう。
日本政府の原発は否定したいけど、中国政府の原発は否定したくない、と言うのであれば
原発という構造に反対しているのではなくて、原発を持っている日本の国や政府に反対しているだけではないか?と疑われてしまう。
もし、戦争に反対するのであれば、日本の戦争もアメリカの戦争も、中国や韓国の戦争も、
ソマリアやスーダンの武力衝突も反対すればいい。
もし、あやまった歴史認識に反対するのであれば、何が正確な歴史なのか、地道に研究するしかない。
右派的価値観や左派的価値観に沿った歴史認識には見落としもあるだろう。
キリスト教的価値観によって記された歴史も、イスラム教的価値観によって解釈された歴史も、若い人の価値観も年配者の価値観も、違いがあって当然だ。
だけど、若い時に影響を受けて、知らず知らず自分のものとして受け入れてしまった思考パターンを、絶対的に肯定されるものだと認識するのにはおごりがある。
証拠を積み上げて論理的に実証された事実に対し、右派だからとか左派だからといったことを理由に無視したり否定したりするのは科学的ではない。
誰だって自分にとって価値があると認識するものは視野に入るけど、
価値がないと思ったら視野に入れない。
だから、歴史の中で多くの事実が無意識にゆがめられて伝えられ、あったこともなかったことにされた。
それは、どんな価値観を持つどんな体制の国であっても同じだ。
国でなくても、村やコミューンでも同じだ。
立場によって認識の違いがある中で、自分と認識の違う者を犯罪者扱いして否定するのは、
誠実な態度ではない。
そういった態度こそが、多くの争いや対立を生んできた。
誰だって否定したい行為や許しがたい行為、見下してしまいそうな人々や受け入れたくない考えなどがあるだろう。
なぜ否定してしまうのか、なぜ拒絶してしまうのか、怒りを覚えてしまうのか、
その仕組みを自覚しなくては、いつまでたっても多くの人を受け入れられず、認め合えず、
ストレスをためて実りの少ない堂々巡りのような対立を続けて行くしかないだろう。
原発や戦争に反対することによって、自分が所属している環境や国家に対立し、抑圧を打破して自由を得ようと認識している人は、たぶん、いつまでも安らぎの地や自由を手に入れることはできない。
もしかしたら、慣習とか常識とか社会とか国家といった環境にとらわれてストレスを抱える人が
そこから脱しようとしてついつい自分の周囲に反発するのかもしれない。
しかし、怒ったり侮蔑したり否定したり攻撃しても、求めるものが手に入るとは限らない。
むしろ、発想が乏しいから、つい怒ったり侮蔑したりすることで何か変えられると思ってしまうのかもしれない。
ほんとうに世の中を変えたいと思うのであれば、まずは世の中の構造をしっかりと認識すべきではないだろうか。
まずは世の中の構造を認識しなければ正確な判断もできない。
それに、世の中を動かす大きな仕事をする人は、どなり声や攻撃的な文章を武器としてない。
声が大きくなくても、態度が威圧的でなくても、攻撃的な言辞を使わなくても、
おどしの言葉におびえないで淡々と、事実関係を解き明かしてさまざまな事象の因果関係を認識すればいい。
それが、堂々巡りの争いから脱出し、より住みやすいところに向かう道ではないかと思う。