むし暑い。
Tシャツと7分丈パンツとスニーカーだけ身につけてスーパーに行ってキリンの発泡酒「淡麗W」と富山県魚津市の日本酒「蜃気楼の見える街」を購入。
淡麗Wは赤ワインポリフェノール入りでコクがあるし、蜃気楼はうまみもある上にみずみずしい。おすすめ。
夕食を食べた後に銀杏をペンチで割って海塩と一緒に鍋で焼いたのをおつまみに飲む。
明日も朝早いけどいつ寝ようか。
今週末会わなかった彼女は今月もまた関西に取材に行くらしい。
関西もけっこう地域によっていろんな違いがあるけど、東京の人にはあまり関心ないんだろうな。
「東京でも大阪弁でしゃべる大阪人が多い」と言って眉をひそめる東京人は多いけど、
実際は、大阪出身者の多くは東京で共通語を使っている。少なくとも、使おうとして生活している。
東京に来て間もない大阪出身者でも、あやしげな共通語を使っていることが多い。
東京の人が聞くと大阪なまりの強い言葉だけど、「しちゃって」「それでさぁ」などと、ネイティブの大阪人なら絶対に使わない東京言葉を混ぜているあたり、意外に本人は共通語をしゃべっているつもりなのかもしれない。
大阪弁のイントネーションは独特だ。
大阪を取り巻くように存在する周囲の関西弁(兵庫、京都、福井、滋賀、奈良、三重、和歌山)はもう少し淡白なのに、大阪のイントネーションには独特の抑揚がある。
どこから来たのだろうと謎に感じるその特徴は東京でも目立つ。
多くの大阪出身者が東京で共通語をしゃべっていても、一部の人が話す大阪弁が耳に入ると、「大阪人はどこでも自分たちのスタイルを保持していてあつかましい」などと感じるのだろう。
似たようなことは、いろんな場面で見られる。
欧米人から見れば東洋人は黄色い肌のつり目人間に見えるらしいけど、実際に黄色がかった肌でつり目の人というのはそれほど多いわけではない。
ただ、東アジアにさまざまな人々がいる中で、欧米人にあまりいない黄色がかった肌でつり目の人は印象的で目に留まる。見慣れないものは特徴的に感じられるのだろう。
韓国人についても「肌がきれいで平面的な顔で瞼が一重で頬骨とエラが張っていて後頭部が平ら」というシベリア系人種の特徴を思い浮かべる人が多いかもしれない。
実際、そのような顔の人も少なくない。
19世紀末に朝鮮半島を旅したイギリス人のイザベラ・バードは『朝鮮紀行』において目じりの上がった目や頬骨が高い人が見られることについて触れている。
だが、同時に「朝鮮人は清国人とも日本人とも著しく異なっている。顔立ちにはたいへんバラエティがある。肌の色、鼻の形、髪質、髭の有無などはさまざま。顔立ちの美しい人種」などと記述している。
日本人と見分けのつかないような顔をしている韓国人も多いけど、そういう人は日本国内であまり意識されていない。日本人にあまりいない、特徴的な顔をした一部の人が「韓国人ぽい顔だね」などと言われる。
保守派の人々についても、排他的で差別的で変化が嫌いな人たちだと認識して、否定する人がいる。
だけど、なかには開明的で人々に対してわけへだてなくふるまう好奇心旺盛な人もいる。リベラルなのに社会主義に同調しないというだけで保守派、右派扱いされている人も多い。
革新派の人々についても、日本を卑下し独善的で社会を壊そうとしている人たちだと認識して否定する人がいる。
だけど、なかには保守派以上に保守的な、ぜんぜんリベラルな態度ではない頑固な人もいる。社会主義的な考えに共感しているだけで革新派、左派扱いされている人も多い。
自分の先入観によって何かを判断するとき、慎重さがないと、自分の先入観に心地よくフィットするものを受け入れ、フィットしないものを排除してしまう。
自分に理解できないものから学ぶことができなければ、右派であれ左派であれ、ちいさな世界に閉じこもってしまうのではないだろうか。
ぼくらはさまざまなものに違和感や非常識や問題を見出すけど、
何が自分にとって「あたりまえ」で、何が「あたりまえじゃない」のだろう。
基準を自覚していないのに何かを「あたりまえ」として無条件に受け入れることは、
もしかしたらとても怖いことではないだろうか。
先日、若手社員がゲラの記載内容について「これって常識ですか? 常識ならいいんですけど」と言ってきた。
だが、常識的内容だったらスルーする、というのは編集者の姿勢としてどうなのだろうか。
「いやいや、常識だったら良い、というわけではない。論理が大事だ」
というようなことをとりあえず言った。
「常識的にOKだから掲載。常識的におかしいから不掲載」
それは、言いかえれば
「自分の先入観に合致した方向性は肯定、合致しない方向性は否定」
となるかもしれない。
言論活動について、好き嫌いとか感じのよしあしといった感覚で判断すると、
下手をすれば、常識として認識されている価値観では感知できない知性を、無意識に否定してしまうことになるかもしれない。
常識に沿って不自由なく生きている人からみれば、非常識なことの存続が否定されても何も問題はない。
だけど、世の中には常識的なことだけで成立している社会組織はない。
混沌があってこその組織。秩序は無秩序から組織化に必要なエネルギーを調達する。
世の中の仕組みを知ろうとするときには、秩序とか枠組みの発生する境目を観察することが必要だ。
方向性を保つために不要なものをあっさりと排除し、強固な秩序を作って組織を発展させ、権力を持ったりお金を稼いだりするのもいいだろう。
だけど、それは知的なことだろうか。
これからの世の中では、秩序の成り立ちにふれようとするような、あいまいであやふやなところに誠実に向き合おうとする人が増加していくのではないだろうか。
さまざまなことを感知して意味を見出す人や、芸術や文化に関わる人は、心の広い人が多い。
一般社会のなかで、非常識だとかワルだとか変態だとか言って疎外されてしまいそうな人のことも受け入れてくれる人がいる。
ぼくだって、そういう人に助けられていると思う。
日本女性には心の広い人が少なくない。それは非常に心強い。感謝。
Tシャツと7分丈パンツとスニーカーだけ身につけてスーパーに行ってキリンの発泡酒「淡麗W」と富山県魚津市の日本酒「蜃気楼の見える街」を購入。
淡麗Wは赤ワインポリフェノール入りでコクがあるし、蜃気楼はうまみもある上にみずみずしい。おすすめ。
夕食を食べた後に銀杏をペンチで割って海塩と一緒に鍋で焼いたのをおつまみに飲む。
明日も朝早いけどいつ寝ようか。
今週末会わなかった彼女は今月もまた関西に取材に行くらしい。
関西もけっこう地域によっていろんな違いがあるけど、東京の人にはあまり関心ないんだろうな。
「東京でも大阪弁でしゃべる大阪人が多い」と言って眉をひそめる東京人は多いけど、
実際は、大阪出身者の多くは東京で共通語を使っている。少なくとも、使おうとして生活している。
東京に来て間もない大阪出身者でも、あやしげな共通語を使っていることが多い。
東京の人が聞くと大阪なまりの強い言葉だけど、「しちゃって」「それでさぁ」などと、ネイティブの大阪人なら絶対に使わない東京言葉を混ぜているあたり、意外に本人は共通語をしゃべっているつもりなのかもしれない。
大阪弁のイントネーションは独特だ。
大阪を取り巻くように存在する周囲の関西弁(兵庫、京都、福井、滋賀、奈良、三重、和歌山)はもう少し淡白なのに、大阪のイントネーションには独特の抑揚がある。
どこから来たのだろうと謎に感じるその特徴は東京でも目立つ。
多くの大阪出身者が東京で共通語をしゃべっていても、一部の人が話す大阪弁が耳に入ると、「大阪人はどこでも自分たちのスタイルを保持していてあつかましい」などと感じるのだろう。
似たようなことは、いろんな場面で見られる。
欧米人から見れば東洋人は黄色い肌のつり目人間に見えるらしいけど、実際に黄色がかった肌でつり目の人というのはそれほど多いわけではない。
ただ、東アジアにさまざまな人々がいる中で、欧米人にあまりいない黄色がかった肌でつり目の人は印象的で目に留まる。見慣れないものは特徴的に感じられるのだろう。
韓国人についても「肌がきれいで平面的な顔で瞼が一重で頬骨とエラが張っていて後頭部が平ら」というシベリア系人種の特徴を思い浮かべる人が多いかもしれない。
実際、そのような顔の人も少なくない。
19世紀末に朝鮮半島を旅したイギリス人のイザベラ・バードは『朝鮮紀行』において目じりの上がった目や頬骨が高い人が見られることについて触れている。
だが、同時に「朝鮮人は清国人とも日本人とも著しく異なっている。顔立ちにはたいへんバラエティがある。肌の色、鼻の形、髪質、髭の有無などはさまざま。顔立ちの美しい人種」などと記述している。
日本人と見分けのつかないような顔をしている韓国人も多いけど、そういう人は日本国内であまり意識されていない。日本人にあまりいない、特徴的な顔をした一部の人が「韓国人ぽい顔だね」などと言われる。
保守派の人々についても、排他的で差別的で変化が嫌いな人たちだと認識して、否定する人がいる。
だけど、なかには開明的で人々に対してわけへだてなくふるまう好奇心旺盛な人もいる。リベラルなのに社会主義に同調しないというだけで保守派、右派扱いされている人も多い。
革新派の人々についても、日本を卑下し独善的で社会を壊そうとしている人たちだと認識して否定する人がいる。
だけど、なかには保守派以上に保守的な、ぜんぜんリベラルな態度ではない頑固な人もいる。社会主義的な考えに共感しているだけで革新派、左派扱いされている人も多い。
自分の先入観によって何かを判断するとき、慎重さがないと、自分の先入観に心地よくフィットするものを受け入れ、フィットしないものを排除してしまう。
自分に理解できないものから学ぶことができなければ、右派であれ左派であれ、ちいさな世界に閉じこもってしまうのではないだろうか。
ぼくらはさまざまなものに違和感や非常識や問題を見出すけど、
何が自分にとって「あたりまえ」で、何が「あたりまえじゃない」のだろう。
基準を自覚していないのに何かを「あたりまえ」として無条件に受け入れることは、
もしかしたらとても怖いことではないだろうか。
先日、若手社員がゲラの記載内容について「これって常識ですか? 常識ならいいんですけど」と言ってきた。
だが、常識的内容だったらスルーする、というのは編集者の姿勢としてどうなのだろうか。
「いやいや、常識だったら良い、というわけではない。論理が大事だ」
というようなことをとりあえず言った。
「常識的にOKだから掲載。常識的におかしいから不掲載」
それは、言いかえれば
「自分の先入観に合致した方向性は肯定、合致しない方向性は否定」
となるかもしれない。
言論活動について、好き嫌いとか感じのよしあしといった感覚で判断すると、
下手をすれば、常識として認識されている価値観では感知できない知性を、無意識に否定してしまうことになるかもしれない。
常識に沿って不自由なく生きている人からみれば、非常識なことの存続が否定されても何も問題はない。
だけど、世の中には常識的なことだけで成立している社会組織はない。
混沌があってこその組織。秩序は無秩序から組織化に必要なエネルギーを調達する。
世の中の仕組みを知ろうとするときには、秩序とか枠組みの発生する境目を観察することが必要だ。
方向性を保つために不要なものをあっさりと排除し、強固な秩序を作って組織を発展させ、権力を持ったりお金を稼いだりするのもいいだろう。
だけど、それは知的なことだろうか。
これからの世の中では、秩序の成り立ちにふれようとするような、あいまいであやふやなところに誠実に向き合おうとする人が増加していくのではないだろうか。
さまざまなことを感知して意味を見出す人や、芸術や文化に関わる人は、心の広い人が多い。
一般社会のなかで、非常識だとかワルだとか変態だとか言って疎外されてしまいそうな人のことも受け入れてくれる人がいる。
ぼくだって、そういう人に助けられていると思う。
日本女性には心の広い人が少なくない。それは非常に心強い。感謝。