俳句とは何だろう。
一般的には、季語を含んだ五七五の17文字で表現される、短い定型詩だと言われる。

俳句が詩の一分野であるなら、どのような俳句が詩として高く評価されるだろうか。
そして詩が芸術の一分野であるなら、どのような詩が芸術として高く評価されているのだろうか。

また、俳句が芸術の一分野であるなら、どのような俳句が芸術として高く評価されるだろうかと思う。

俳句という枠組みの中でしか高く評価されない表現、詩という枠組みの中でしか高く評価されない表現というものはあるだろうか。
芸術と言う枠組みの中でしか高く評価されない表現というものはあるだろうか。
そのような表現形態に存在価値はあるだろうかと思いを広げる。


私は、詩としての俳句ではなく、芸術としての俳句を追求している。

私の考えでは、芸術作品は構造の調和が全てである。
縦横斜め、曲線、凹凸、面、広がり、テンポ、濃淡、移動、拡散、上昇、収斂等々の基本的な要素から成り立っている構造のバランスを読み取ることによって、芸術作品は評価分析される。
よくわからない俳句に出会えば、その句の示す構造やベクトルを認識しようと試みれば、何か読み取れるバランスがあるだろう。

もちろん、そのように思わない人も多いだろう。
むずかしいことを考えなくても、自分の持っている価値観や見方に心地よい作品が目や耳に入れば、肯定的に評価すればいいと思う人もいるだろう。

だが、「良い」とか「すばらしい」とか「いい」とか「すごい」としか評価できない人や、芸術作品の背景や歴史や印象しか語らない人は、その作品そのものの凄さを数式や化学式のように客観的に評価できるもので語ってみたいと思わないのだろうか。

色や音の場合は、調和を科学的に分析することができるようになってきた。
単純ではないけれども、芸術作品の構成要素を分析し、バランスを読み取るという研究を進めてもよいのではないだろうか。
私は、その取り組みを構造芸術論と呼びたい。

絵画でも詩でも音楽でも建築でもいい。構造の調和を分析する、という構造芸術論の姿勢は科学的な「調和学」の一分野として発達するかもしれない。

そして、構造芸術論の一分野として、構造俳句論は位置する。
私は俳句の構造を分析し評論を行うことによって、芸術としての俳句の価値を高めたい。

絵の初心者でもイラストを書いて楽しむことがあるように、演奏家でなくても音楽を楽しむように、言葉の芸術の初心者が俳句を作って楽しんでもいい。

ただ、プロの画家や演奏家が求めるレベルがあるように、私も芸術として高度なレベルの俳句を求めたい。
俳句は短い表現だけど、だからこそできる表現もある。

例えば、ナイフはナイフだからこそ表現できることがあるだろう。
マシンガンや戦車があるからナイフはいらない、ということはないだろう。

カラー写真やムービーがあるから白黒写真はいらない、ということはないだろう。
楽団がいるからアコースティックギター1本のライブは不要、ということもないだろう。
大輪の花束の山があるから一輪挿しは不要、ということもないだろう。

俳句だからこそできる表現とは何か。
それは、最低限の構成要素におけるバランスの提示、だと思う。

もちろん、違う考えの人も多いだろう。
むしろ私のような考えの者はごく少数かもしれない。

だが、俳句の持つ破壊力というものを考えたとき、その使用語彙の少なさ、構成のシンプルさは注目に値する。
私たちは、制約があってこそはじめて表現することができる。
いくら表現が多様になり、3D映画などで何でも表現できるようになるのではないかと想像しても、本当は音楽も絵も映画も、制約だらけなのだ。

油絵の人は水墨画を見て、自分たちは自由だと感じているかもしれない。
映画の人は絵を見て、自分たちはより自由な表現ができると感じて表現しているかもしれない。

だけど、それでは行き詰る。
まったく何の制約もないすばらしい表現方法というものはない。
結局のところ、色とか形とか構図とか与えられた構成要素の中で、バランスを試みるしかないのだ。
制約というものに意識的であってこそ、研ぎ澄まされた表現を行うことができるのではないか。
最も制約が厳しい俳句は、最も制約や構造に対して意識的になることができる。

悪人正機の「善人でさえも往生することができる。まして悪人はいうまでもない」のように、
「小説や映像や音楽でさえも芸術になりえる。まして俳句はいうまでもない」
と言えることができるかもしれない。


  音楽がすべて海へと還る午睡    MuiNeBeachにて