(手製料理を食べてワインをかなり飲んでちょっと酔った状態ですみません)
ぼくは人のことをあまり「ヘン」だとか「変わってる」とか「それはおかしい」とか言わない。
というか、言えない。
結果的に、あまり言ったことはない。
ぼくの友人たちは、一般的には「ヘン」で「変わってる」人が多いのかもしれない。
みんなまじめで心優しい人なんだけど。
彼らは、「ぼくはヘンだと言われてる」などとひそかにこぼす。
あるいは、なげやりを装って言う。
きっと、それなりに傷ついたり自信を失ったりしたこともあるだろう。
だけど彼らは他の人のことを「変わってる」とか「ヘン」だとか滅多に言わない。
だからぼくは心地よく彼らと接することができる。
小心者なので、「ヘンだ」と否定されることを恐れずに済み、リラックスすることができる。
彼らや彼女たちに深く感謝している。
所属している国家社会の一般的な価値観だとか、所属団体の方針とか、見ているテレビや新聞の論調に、誰だって影響を受けるだろう。
社会組織の価値観の主流に立つのもいい。
安心できるし。楽だし。
ぐだぐだ言わずに勉強すればいい、稼げばいい、社会組織に貢献すればいい、ルールに沿ってやればいい、と言う人も多いだろう。
「近未来の価値観? そもそも組織化及び組織の維持の原動力って何だろうって? 調和って何だろうって? そんなこと考える暇があったら目の前の仕事ひとつ覚えろよ」
などと言う人にとって、ぼくなんかはヘンな意味不明な非生産的なバカだ。
そういえば、むかしからある組織やある社会の維持に貢献しない存在は価値がないと認識され、差別された。
組織を維持し、形を見出すには、何かを否定しなくてはならない。
だけど、そこで否定してしまったものも、絶対的な視点で見ると、否定されるべき存在とは言えないのだ。
ぼくが被差別民の存在や歴史に興味を持つのも当然のことだろう。
ぼくは、組織の維持のために否定されたものに価値を見出すことがやめられない。
とてもおもしろく思えることだし。
これからの世の中の人類のあり方を考えたときに、組織化や混沌、秩序と無秩序、形と形にならないものなどについて考えることはとても意義深いことではないかと思う。
世の中は組織や秩序や形だけで成り立っているのではない。
そういうことを深く意識しているのは、目の前のことに無我夢中のエリートサラリーマンや一般労働者ではなく、
被差別民や貴族たちなのかもしれない。
だから時として貴族たちは世の中のルールを無視した無法者や世の中の秩序を惑わす人たちに共感する。
被差別民と貴族は一般人をスルーして交流を持つ。
彼らは、社会組織を維持しているメインである一般人から遠くに追いやられている一種の世捨て人のように存在だから、お互いに否定しあうことは少なかったのかもしれない。
ぼくはあまり日本国内の価値観に同調的ではないかもしれないから、一種の世捨て人、旅人、外国人に近い存在かもしれない。
10代の頃から北枕で寝てるし歩き方も欧米真似だし、主語を話さずにしゃべる人に対して、むりに主語を推察したりしない。
スーツやネクタイは着用しないし、関西ノリの突っ込みに対してもスルーしてしまう。
もう本当に外国人扱いしてくれたら気楽なのに、って思う。
「ああ、ミャンマー人だったらそんなスタイルもありえるのかもね」とでも言ってもらえたほうが気楽。
(見た目はべたべたの日本人なんですけどね)
まあ、ぼくは社会組織で成功し評価を得ることも、社会組織で否定されるけど芸術的には価値のあることも、どちらも否定しない。
社会での成功を敵視しているということはない。
だから両義的(ambiguous)なのかもしれない。
そういえば、ある程度社会で成功してから社会的価値観からフェイドアウトして世捨て人になる、っていうのがむかしから趣味人の通るルートでしたっけ。
ぼくは今後どういう足跡を付けていくのだろうかと思う。
まあ、しつこく何十年も労働争議を訴える学研の元下請け会社の「ふじせ」とか、威勢はいいけど結局自己保身っぽい日教組とか、何かの排斥を主張する視野の狭い右翼団体とか、右翼以上に保守的に既得権益とか土地とか信仰にしがみつく左翼とか、社会全体の勤労意欲を低下させる恐れがある大麻解放運動とか、モテない男女によるバレンタインデー粉砕とか非婚推進とか、そういう組織に充実感を求めて飛び込むということはないと思う。
芸術には関わり続けるのかな。
芸術は、おもしろく感じる。
11/1土、2日に明治大学で行われる「東京ポエトリーフェスティバル2008」も楽しみにしている。
というわけでおやすみなさい。
ぼくは人のことをあまり「ヘン」だとか「変わってる」とか「それはおかしい」とか言わない。
というか、言えない。
結果的に、あまり言ったことはない。
ぼくの友人たちは、一般的には「ヘン」で「変わってる」人が多いのかもしれない。
みんなまじめで心優しい人なんだけど。
彼らは、「ぼくはヘンだと言われてる」などとひそかにこぼす。
あるいは、なげやりを装って言う。
きっと、それなりに傷ついたり自信を失ったりしたこともあるだろう。
だけど彼らは他の人のことを「変わってる」とか「ヘン」だとか滅多に言わない。
だからぼくは心地よく彼らと接することができる。
小心者なので、「ヘンだ」と否定されることを恐れずに済み、リラックスすることができる。
彼らや彼女たちに深く感謝している。
所属している国家社会の一般的な価値観だとか、所属団体の方針とか、見ているテレビや新聞の論調に、誰だって影響を受けるだろう。
社会組織の価値観の主流に立つのもいい。
安心できるし。楽だし。
ぐだぐだ言わずに勉強すればいい、稼げばいい、社会組織に貢献すればいい、ルールに沿ってやればいい、と言う人も多いだろう。
「近未来の価値観? そもそも組織化及び組織の維持の原動力って何だろうって? 調和って何だろうって? そんなこと考える暇があったら目の前の仕事ひとつ覚えろよ」
などと言う人にとって、ぼくなんかはヘンな意味不明な非生産的なバカだ。
そういえば、むかしからある組織やある社会の維持に貢献しない存在は価値がないと認識され、差別された。
組織を維持し、形を見出すには、何かを否定しなくてはならない。
だけど、そこで否定してしまったものも、絶対的な視点で見ると、否定されるべき存在とは言えないのだ。
ぼくが被差別民の存在や歴史に興味を持つのも当然のことだろう。
ぼくは、組織の維持のために否定されたものに価値を見出すことがやめられない。
とてもおもしろく思えることだし。
これからの世の中の人類のあり方を考えたときに、組織化や混沌、秩序と無秩序、形と形にならないものなどについて考えることはとても意義深いことではないかと思う。
世の中は組織や秩序や形だけで成り立っているのではない。
そういうことを深く意識しているのは、目の前のことに無我夢中のエリートサラリーマンや一般労働者ではなく、
被差別民や貴族たちなのかもしれない。
だから時として貴族たちは世の中のルールを無視した無法者や世の中の秩序を惑わす人たちに共感する。
被差別民と貴族は一般人をスルーして交流を持つ。
彼らは、社会組織を維持しているメインである一般人から遠くに追いやられている一種の世捨て人のように存在だから、お互いに否定しあうことは少なかったのかもしれない。
ぼくはあまり日本国内の価値観に同調的ではないかもしれないから、一種の世捨て人、旅人、外国人に近い存在かもしれない。
10代の頃から北枕で寝てるし歩き方も欧米真似だし、主語を話さずにしゃべる人に対して、むりに主語を推察したりしない。
スーツやネクタイは着用しないし、関西ノリの突っ込みに対してもスルーしてしまう。
もう本当に外国人扱いしてくれたら気楽なのに、って思う。
「ああ、ミャンマー人だったらそんなスタイルもありえるのかもね」とでも言ってもらえたほうが気楽。
(見た目はべたべたの日本人なんですけどね)
まあ、ぼくは社会組織で成功し評価を得ることも、社会組織で否定されるけど芸術的には価値のあることも、どちらも否定しない。
社会での成功を敵視しているということはない。
だから両義的(ambiguous)なのかもしれない。
そういえば、ある程度社会で成功してから社会的価値観からフェイドアウトして世捨て人になる、っていうのがむかしから趣味人の通るルートでしたっけ。
ぼくは今後どういう足跡を付けていくのだろうかと思う。
まあ、しつこく何十年も労働争議を訴える学研の元下請け会社の「ふじせ」とか、威勢はいいけど結局自己保身っぽい日教組とか、何かの排斥を主張する視野の狭い右翼団体とか、右翼以上に保守的に既得権益とか土地とか信仰にしがみつく左翼とか、社会全体の勤労意欲を低下させる恐れがある大麻解放運動とか、モテない男女によるバレンタインデー粉砕とか非婚推進とか、そういう組織に充実感を求めて飛び込むということはないと思う。
芸術には関わり続けるのかな。
芸術は、おもしろく感じる。
11/1土、2日に明治大学で行われる「東京ポエトリーフェスティバル2008」も楽しみにしている。
というわけでおやすみなさい。