『喜捨』(きしゃ)
進んで金品を寄付する事。
喜捨は徳行。
喜捨をすると徳が積まれます。
施しをすると徳が積まれるのですが、
その施しは、喜捨でなければ徳として積まれません。
どういう事かというと、
例を挙げましょう。
「これだけのお金を寄付したら、
俺は、相当な徳を積んだ事となって、
将来は、絶対に金持ちになる筈だ」
こんな気持ちで、寄付しても、
徳は積まれないという事です。
何故なら、これでは喜捨になりません。
喜捨とは、その言葉通り、
喜んで捨てる事です。
この気持ちの何処が、
喜んで捨てているのか。
徳行は、投資ではありません。
しかしながら、その気持ちはわからないでもないです。
私も、特に物事が上手くいかなかった時に、
「今まで、これだけ喜捨してきたのに、
なんで報われないのだ!」
と思う事もあります。
でも、皆さん、もうお分かりの通り、
この気持ちは、喜捨ではありません。
喜捨は、報われる、報われないに関係なく、
施し自体が喜びなのです。
だから、敢えて報いを言うのなら、
施し自体が報われているとも言えます。
喜捨は、勘定しながら行う事ではありません。
喜捨は、天地の法則と取引きする事ではありません。
この喜捨の仕組みが
社会的にシステムとして確立しているのが、
イスラム国家です。
イスラムでは、喜捨を指す語として、
ザカートとサダカがあります。
ザカードを制度喜捨、サダカを自由喜捨として区別しています。
ザカートは、財産税で、
貧者の救済を主眼に置く目的税。
喜捨が税金として、制度化されており、
それを喜捨と言えるのか?
という疑問も生じるかもしれませんが、
文化性の違いでしょうか。
イスラム全体で喜捨という捉え方か。
公的な喜捨の仕組みとしてのザカートに対して、
あくまで自由意志での喜捨がサダカ。
ザカートは、イスラムならではで、
通常の喜捨は、このサダカ。
ザカートで手の届かないところを、
サダカが救済に回るような感じです。
自由意志での喜捨のサダカも、
イスラムでは、互助システムとして確立されています。
イスラム教は、私達にはあまり馴染みがありませんが、
今や、世界二番目の信者数を誇り、
将来的には、世界一の信者数になると言われています。
イスラム教がこれだけ繁栄したわけは、
喜捨の精神が確立している事にもあるでしょう。
繁栄の法則は、喜捨。
それを知って、一旦忘れて(囚われずに)、
喜捨をしましょう。
*********************
『東洋の聖人カード』
実践アプリ版 (無料)
6枚の中から一枚を選んで、
東洋の聖人カードを実践しましょう。
出たカードが、
今一番必要なメッセージ。
要 クリック クリック クリック
↓ ↓ ↓
https://resast.jp/page/fast_answer/6188