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なお、コメントやメッセージやメールで、皆さんの陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、陰徳と結果の体験談を大募集中です。ご遠慮無く、書き込み下さい。
その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】のシリーズ記事一覧はこちら
改過を実施する際の、工夫(テクニック)三原則です。
事上(個々の悪事)を改める方法と、理屈から改める方法、そして心から直接改める方法の三つです。
一つ目は、事上(個々の悪事)を改める方法は、モグラ叩きでよくないという話でした。
二つ目は、理屈から攻める方法です。
長いので、何回かに分割してます。
今まで、怒りやすい性格であったならば、必ずこう思うがよい。
「そもそも、人が間違いを犯し、誤りやすく、愚かであるというのは、怒るべきことではなく、憐れむものである。
ましてや、道に背いている者ならば、なおさらである。
それに、(相手の業になるだけであって)自分には、(因果応報的には)関係の無いことである。
怒る必要はさらさら無い」と。
相手が愚かだから怒らないというのは、精神的勝利法っぽいんですが・・・。
しかし、そもそも、争いは同じレベルの者同士でしか、存在しません。
(この定義はそもそも本当なのか?)
要するに、相手は、陰徳師(また勝手に造語を作成)のあなたから見れば、下等な生物なのです。
ドイツ国家社会主義者の言い回し風に言うと、劣等人種なのです。
なぜ、我々のような優性種が、相手をしてやらなければならないのでしょうか?
すでに、陰徳を積むことを志し、俗を超越し、来世は、「新世界の神」にまでならんとするあなたから見れば、いまだ、彼らは、低レベルな領域に存在する卑賤な生き物です。
黄河は水たまりを叱らないという中国のことわざ(列海王)がありますが、神が虫けらの戯言にいちいち反応してはいけません。
※余談ですが、この言葉はどうも史記に出てくる言葉のようです。バキワールドのインチキかと思っていましたが。
むしろ、(上から目線で)憐れんであげるのです。
あなたの広大な慈悲の前に、この人たちの現状と来世の悲惨を、哀れんであげるのです。
今でこそ、得意絶頂に生きている彼らですが、将来は、地獄に堕ちて、幾星霜。
因果応報の真理を知ることの出来なかった民度の低い教育環境に生まれた者の悲惨な末路です。
右の頬を殴られたら左の頬を出してあげるのです。
嗚呼・・・!、神よ・・・!
お許しください。
この人たちは、何をやっているか自分でよくわかっていないのです。
どうか・・・どうか・・・この可哀想な人達を許して上げて下さい。
まあ、俺様に逆らったこいつらは、全員、死後は地獄行きだけどな!(台無しな発言)
ちなみに、この暴言は、あながち間違いではありません。
業が自業自得である以上、いくら貴方が哀れんでも、聖人君子候補生である貴方への悪行を積んでいる彼らは、どの道、その報いを受けます。
徳の高い人に対する悪行は、それだけ罪が重いのです。
ただの、一般人ならばともかく、皆さんのような陰徳師に対する、悪行はそびえ立つ山の如しです。
聖書で、あのイエスなども、自分に逆らったユダが、惨たらしく死ぬ(予定)のを、ニヤニヤしながら、こう言っています。
「やつは生まれてこないほうがよかったのだ(ドヤ顔)」
初期経典で、釈迦も、自分に逆らった輩(せいぜい言論戦を挑んだ程度の悪行)は、やっぱり惨たらしく死んで(頭が割れる)、超長期の地獄に堕ちると、ドヤ顔で言っています。
※どうでもいいですけど、愛とか慈悲とかどこに行ったのでしょうかこのコンビは。
敵を愛すんじゃなかったのか?
神は愛じゃなかったのか?
お前ら。愛とか慈悲とかはどこに?
まあ、この「相手が馬鹿だから、怒らないであげよう」と言うのは、ルサンチマンの精神的勝利法に近いものです。
現実世界では逆らえないから、せめて道徳的見地で勝利しようというのと同じです。
最近でも、半世紀近く、この戦法を取っていた隣国の亡国が、ぶち切れた日本に反撃くらっていました。
基本的にこの手は、宗教の常套手段です。
西洋では、キリスト教、というよりユダヤ人が伝統的に使ってきた方法だとニーチェは解明しました。
要するに、認知的不協和理論による、逃避の一種です。
現実社会で負けていることを、認めない精神的バランスを取るための方法です。
しかし、この方法は諸刃の刃です。
朝鮮人やユダヤ人を見ればわかるとおり、この精神的勝利法を常習しすぎて、別の問題を併発しているのは、ご存知の通りです。
身についた、思考パターンは、時代が代わっても中々変わらないのです。
【正義の行動はカルマになる?】
とは言え、この浮世の中では、この「怒り対策」という問題は、避けては通れません。
とりあえず、怒りというカルマを作成してしまうと、せっかく受けた被害でカルマが精算されたのに、また新しいカルマを作ってしまいます。
なお、正当な怒りという物が果たしてカルマはどうなるのかは、未だ結論が出ていません。
悪を懲らしめる正義の怒りと行動が、果たして善行カウントされるのか悪行カウントされるのかどうか・・・。
これに対するアンサーは、恐らく、次の言葉に集約されます。
一切皆苦
要するに、上手い方法自体が無いということです。
どんなに、上手くやっても、必ず、百パーセントではありません。
不満に思う人間の割合は存在します。
諸法無我にも関係しますが、世の中は、自分の手が及ぶ範囲ではないのです。
このような、問題、つまり、悪行に対しての正義の正統的な、反撃や誅殺や抑止は、どうやっても、カルマにならざるを得ないということなのです。
そんな上手い方法があったら、それこそ、すでにその人は、仏陀以上の存在でしょう。
輪廻転生の因果応報システムを超越しているからです。
何をどうやっても、完全でなく、カルマのために、永遠に天国と地獄を行ったり来たりする生命の宿命を超越しています。
力がある存在なのに、悪いカルマを作らないで良いカルマだけを作り続けられる存在は、すでに釈迦の力すら超越しています。
釈迦ですら解脱後に、自分の国が滅んだり、毒キノコ食べて、腹痛で死ぬという、天ぷらで死んだ家康レベルの恥ずかしい死因で死んだのです。
天界の天人(神)ですら、人間に比べて寿命は長いですが、存在しているだけで金持ちと同じく、猛烈に前世の善行ポイントを消費し、それが尽きたらまた生まれかわざるを得ない存在なのですから。
ここらへんの、現世の「必要悪」と因果応報のすり合わせは、まず無理だと思います。
戦国時代の侍たちが、必要としたのは、ここらへんのロジックです。
何しろ、戦争に明け暮れている武士たちです。
どうにかして、来世の安心を得なければエライことになります。
別に彼らだって好き好んで殺戮をしているわけではありません。
(そういう戦場PTSDの快楽殺人者もいた可能性はありますが)
自分たちの家族や領土や領民を守るために、天下泰平のために、戦っているのです。
そこらへんの需要が、念仏や禅と言った、新解釈の仏教です。
当時の貴族、近畿、平安仏教→武士、地方、鎌倉仏教と言った、地政学的なシフトもありますが。
要するに、人殺ししても、カルマにならないで、極楽往生出来るようなシステムです。
出家できない民衆も、この需要を求めていました。
そのため、鎌倉仏教やチベットの後期密教は、この手の問題に解決するシステムを提出しています。
ただ、当然、この問題は、オウムと紙一重です。
理屈をつければ殺人や破戒もOKというのは、素人にはお薦めできません。
日本でもチベットでも、後期密教は弾圧を受けた経緯があります。
まあ、だからこそ、人に教えない密教なのですが。
空海が最澄に理趣経(快楽肯定のお経)を貸出NOしたのは、ここらへんに理由が、あります。
本来なら、悪行をせざるを得ない人たちを救うための、教えは、そのまま、悪行を肯定する教えに転嫁します。
特に、大乗仏教は、その発生時期からの需要が、在家のための宗教です。
初期大乗仏教の教義の般若系の教えである「空」にその片鱗があります。
※日本人が知っている般若心経や禅の空とかがそれです。
そして、後期大乗仏教に至って、フリーザのように、完全体となりました。
ここらへんの兼ね合いは、ケースバイケースであり、一概に全肯定(全否定するのは難しいでしょう)。
個人の観点だけだったら、出家して修行して解脱というのが一番早いです。
浮世のゴタゴタに巻き込まれずに済みます。
もう、この地球上に戻ってくることのない、不還果や阿羅漢果の段階まで行ったら、後は世俗に関わって何でもしていいとは思いますが。
まあ、実際には、そこまで行ったならば、普通、還俗はまあしないとは思います。
しかし、逆説的には、そこまで行ったならば、還俗しようが、権力使おうが、もはやカルマになることはありません。
昔の徳川の天海みたいなポジションですね。
もしくは自分が権力者になってしまう。
こうすれば、必要悪のカルマを気にすること無く、バンバン政策に専念できます。
どうしても少数の犠牲が出ますが、大多数の民のためになる政策や戦争が可能になります。
これは、老い先短い老人が、もう何も怖くないとばかりに好き勝手やったりするのと一緒の発想です。
徒手空拳のものが、何も失うものは無いと、開き直るのと同じです。
しかし、歴史はこういう無鉄砲な、やつらが力技で進めてきた経緯があります。
ここらへんのロジックは、やはり戦乱時の戦国時代の禅僧あたりのロジックが参考になるでしょうね。
次回の陰騭録の次のコンテンツは、一応、般若心経ですが、禅家のコンテンツも選択肢に入れても良さそうです。
【怒りを滅せよ!(怒)】
まあ、とりあえず、ベーシックな仏教の怒りに対する見解を見てみましょう。
当然、怒りに対して、否定的で駆除対処に認定しています。
なお、仏教では、この「怒り」と言うのは、もっと抽象度を高めれば、単に、一般にイメージするような怒りに留まりません。
仏教的には、自分の意識に生じる「不快」な認識すべてを指します。
体の具合が悪くて、イラッとするのも、天気にイラッとするのも、すべてが「怒り」です。
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)と仏教用語をお聞きしたことがあると思いますが、その中の、瞋がそれです。
要するに、人間の認識において、マイナスなもの全てです。
なお、一般的な怒りだけだったら、(個々のは)中和することは、容易です。
本文のステップもそうですし、仏教でも慈悲の瞑想で、なんとかなります。
WIKIの瞋の項にも、慈悲の瞑想を釈迦が進めていることが載っています。
瞋恚を断つ方法としては、パーリ仏典(Pali Canon)中部(Majjhima Nikāya)の62番目の経典である大ラーフラ教誡経(Mahārāhulovādasutta)に例が示されている。この中で、釈迦は息子の羅睺羅(ラーフラ)に以下のように説いている。
Mettaṃ, rāhula, bhāvanaṃ bhāvehi. Mettañhi te, rāhula, bhāvanaṃ bhāvayato yo byāpādo so pahīyissati.
ラーフラ、慈悲の瞑想を深めなさい。というのも、慈悲の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな瞋恚も消えてしまうからです。
この慈悲の瞑想は、実は、本文の、心から直接改める方法という三つ目のやり方です。
まあ、先の記事で本文も載せますが、基本、この方法が仏教推薦だということです。
慈悲の瞑想は、その効果に、問題解決の功徳もありますので、基本、この方法で何とかなります。
感謝と慈悲をやりながら、神仏祈願のオーソドックス方法ですね。
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】立命の学⑧ 今夜はノンストップで朝まで生でダラダラ行かせて
この慈悲の瞑想の、ありがたい功徳は色々とあり、
・夜ぐっすり眠れるという快眠効果や、さわやかな目覚めの功徳という微妙な現世利益や、
・火や毒や武器にやられないという、スカラやフバーハのような守備力アップの効果や、
・接触回数やプレゼントや、デートもしないのに、天界の神々の好感度パラメータを勝手に上げて、援助してくれるという、ギャルゲーのチート攻略や召喚魔法のような功徳、
・死ぬときに、安楽死出来るという現代人の他人事ではないニーズにあった功徳や、
・顔が綺麗になり高貴(?)になるという安上がりな美容効果や、
・人に好かれるというカリスマ効果や、
・「死後、天界以下には落ちない」という極楽浄土利権の阿弥陀如来の商売敵のような、
ありがたい?功徳
が色々と、十一個もあります。
※と、上座部仏教では力説しています。
ただ、この慈悲の瞑想。
実は、究極的な物ではありません。
というのは、慈悲の瞑想でコンプリートだったら、他宗教と対して変わりません。
愛を基調とするキリスト教などとの違いがありません。
本来の仏教はこの慈悲さえも、一過性の物として、最終的には排斥するのです。
悟りの境地の基本は、やはり三法印の「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」で、涅槃寂静ですので。
これは、大乗仏教でさえも同じです。
最終的には、善悪を超えた段階の空を目指します。
今までの世界からスコンと抜けるのです。
さて、そうした怒りの上位である瞋などの煩悩は、一般には、何か、食欲や性欲や権力欲などの欲望の対象みたいなイメージがありますが、それだけでなく、このようなマイナスな認識も煩悩に含まれます。
まとめると、世界の対象に対して、良いものに執着(貪)したり、悪いものを嫌悪(瞋)するプラスとマイナスの反応が煩悩です。
癡は、無明のことで、一般にいう三法印の「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」を悟ってないことですね。
悟ってないから、これらの煩悩に反応してしまうと。
煩悩に執着してしまえば、この世(輪廻含む生存全部)に依存・執着してしまいます。
基本、仏教は、生存反対というジェノサイドを目的としたテロ宗教なので、生存の原因となる執着を絶滅駆除対象にしてしまうのです。
それを超えるには、もう出家して朝から晩まで瞑想しろという話になります。
その瞑想も、五蘊を、観察し続けるヴィパッサナー(天台で言う止観法の観)と、特定の対象をずーっと精神集中するサマタ瞑想(止観法の止)があります。
当然ながら、ずーっとやるのは、在家である我々には無理な条件です。
そのため、二つ目の、理屈から攻める方法に応用してみると、三法印の応用を理屈から攻めるという形に応用できます。
人間相手の怒り対処法は、理屈から攻める方法は、さきほど書いたように、
「こいつらは猿だから仕方が無い」
「どうせ地獄行きの自業自得だ。ざまあみろ!」
とするのが第一ステップです。
※実は、次回の記事ではその後のフェーズがあります。
しかし、(本文のフェースとは別に)仏教的にさらに抽象度を上げると、
通常の怒りに限らず、全ての怒り(瞋)に対して、対応できます。
それを、ちょっとやってみましょう。
「諸行無常である限り、これらの者や物は、私に害を与えていても、どうせコロコロ変わるものである」
「そして、諸法無我に連結する。これらからわかることは、人間や物や環境は、いつでもこのように、私に牙を向く存在だということである。
これらは、自分の業によるもであり、生きていくためには必然的に為さざるを得ない生存競争という世界のシステムによるものである。
自分では、どうしようもすることは出来ない。
自我によるコントロールが利かない代物である」
「この世は、一切皆苦であり、この世に絶対な安全というものは無い。
業しだいでいつでも、このように牙を向くのである」
「ゆえに、初めから、他者や環境や世界に期待するだけ無駄である。怒っても意味がない」
これらは、究極的に完璧にマスターするには、集中的な出家状況が、必要です。
ですが、本格的にやると在家の時間制限の中では不可能なので、将来的な予習として、とりあえず、完全に怒りを断滅するのは不可能ですので、理屈から攻める方法というカテゴリで、さらりとやっておく程度でいいでしょう。
密教で言う、加行(前行)ですね。
シミュレーションとしては、顕教の読経や真言などと同じく有益です。
というより、本当は、これらだけでも、悟りと解脱へのステップとしては、十分な内容を持っています。
要するに怒りを抑えるためのここ数回の記事の、理屈から攻める方法というのは、すでにそれが仏教の瞑想法になっているのですね。
ただ、そこまでいらんと言う人は、本文のステップで対処できなかった場合に、やる程度で十分です。
要するに目的は、怒らないようにするということが目的ですので。
なお、本文のステップを含めた、このような心理的シミュレーション自己洗脳は、別に宗教位のプロでもない限り徹底してやる必要はありません。
現実社会で、一切合財のトラブルに対して、無条件降伏してこちらが我慢してやりなさいということではありません。
上記のルサンチマンでも言及しましたが、現実世界で、対応仕様が無い時にやればいいでしょう。
初めから、通常対応で解決できる問題を放置して、わざわざ自分に苦行を加える必要はありません。
また、通常対応時にも、表面上は社会的な役割で怒っても、実際は内心ではクールに計算しているということが大事です。
理由は、怒ると知能が低下して良い判断が出来ないからです。
大抵の問題は、わざわざ対応せずとも、こちらが、スルーすれば良いだけのことも多いものです。
いちいち、森羅万象の不愉快に、烈火のごとく反応している人は、怒らないようにする必要があります。
こういっては何ですが、怒りやすいと、死後ろくでもないところに行く可能性があります。
また、怒りやすいというのは、単に人体の化学反応が原因のことも多く、内臓から来る物も多いです(というか実は圧倒的に)。
健康法や養生や生活習慣も大いに改善して下さい。
夜食をとらないだとか、早寝早起きだとか、運動するだとか、食生活を見直すとかのレベルは当然です。
怒りは感情の動きですが、唯物的に見ると、普通に化学反応の結果です。
さらに、気功やヨガや太極拳など、身体的な健康法は世の中に多々あります。
家康が、天下を取れたのは、自分で薬を調合するなど、健康法に大いに気を使ったからです。
陰徳を積んでいれば、寿命は本文の袁了凡のように勝手に伸びますが、人事を尽くして天命を待つという言葉通りに、陰徳まかせでなくさらにプラスアルファで、健康に気を使ってください。
風呂上りにストレッチするだけでも大分違います。
ストレッチなら、政官財人御用達の「真向法」や、最近、話題の開脚ストレッチ(ググると出てきます)なども良いでしょう。
まあ、健康法は、記事を改めて、別コンテンツでやりましょうか。
