「夏も近づく八十八夜 ~♪」

 今ではあまり聴かなくなった歌ですが、八十八夜とは、立春から数えて88日を過ぎた5月2日前後の頃。桜から新緑へ、清々しい季節ですよね。

 さて、四日市の地場産業のひとつ萬古焼(ばんこやき)の中でも土鍋と双璧をなす商品が、紫泥(しでい)急須です。特徴は、自然の鉄分が多い粘土で成形され酸素の少ない青白い還元炎で焼かれていて、上品な深い褐色に仕上がります。

(資料館に展示中の紫泥急須です)

 この急須で、これまた四日市の名産「かぶせ茶」をいただく。
 かぶせ茶とは、摘む前の一週間ほど遮光して栽培した、ほんのり甘みのある煎茶です。萬古焼の急須で、かぶせ茶を・・・
と言いたいところですが、昨今、急須でお茶を入れる家庭は減少しています。特に夏季は、手軽なペットボトルの茶が便利です。多少手間をかけたとしてもティーパック茶の水出しといったところでしょうか。適温の湯を用意して茶葉を入れ、湯呑に注ぐ・・・忙しいと面倒に感じますよね。

 市内では、小学校の中学年になると社会見学で地元の企業や公共施設を訪問します。近郊の茶工場を見学すると、お土産として全員に萬古焼の急須をいただいた時期がありました。急須の家庭への普及を図った企画だったのでしょう。
 しかし、新しい流れも見えてきました。今や、急須はお茶専用ではありません。実は、レギュラーコーヒーが簡単に美味しく淹れられるのをご存じでしょうか。専用の商品もありますが一般的なもので十分。ペーパーフィルターも不要です。食器棚で眠っている急須があれば、一度お試しを。ちょっとお洒落なコーヒータイムになるかも。

 さて、来る5月17日(土)と18日(日)は、年に一度の萬古祭り。数年前から装いも新たに「四日市ばんこ焼陶器まつり in 四日市ドーム 」として開催されています。 
      
 今年は石川県の輪島朝市の出店もあるそうです。もちろん、お値打ちな急須もたくさん揃っています。コーヒー用に、お一ついかがでしょうか。手造りブース、他の産地の商品の販売やキッチンカーによる出店など、初夏の週末を楽しめるイベントが盛りだくさんです。ぜひ、お出かけください。 (Y) 



 今の季節にぴったり
「青もみじ」を表現した
 紫泥急須
(醉月 作)

 私物です。過去の萬古まつりの抽選会で当選しました。作家さんの作品という事で、大事に使っています。
 桜前線北上中。いよいよ津軽海峡を越えました。
 今シーズンはお彼岸の間に、熊本と高知から桜(ソメイヨシノ)が開花しました。 その途端、テレビは毎日のように「〇〇で咲いた」とか、花見の名所からの中継など、これでもかといった感じで報道しました。

 花でこんなに盛り上がる日本、一方で、同じ番組内で「物価が高い」とか「関税が」と言われても、まるで関係ないみたいに、花見に出かける、桜の美しさを愛でる、なんと平和な国でしょう。

 四日市では3月末頃ようやく開花しました。全国に知られた名所はありませんが、4月上旬に行われる入学式の頃に満開になることが多く、晴れ姿の写真に文字どおり「花を添え」ています。この季節は百花繚乱ですが、新入生に似合うのは、何といっても桜ですよね。

(三滝通り)

(1年生を見守ってくれます)

(諏訪神社)

(散っても美しい)

 日本人にとって、桜は山で言えば富士山のような「ザ・ニッポン」の象徴的存在だと思います。自治体・企業などのシンボルマークや校章など、身近なものの題材となり、海外に向けて日本らしさを表現するときも「サクラ」を使う場面が多いですよね。 さらに、桜と富士山の組み合わせも。

 平安の昔から花と言えば桜。江戸時代になると、花見が一般庶民にも普及しました。人気のあった浮世絵の多くにも桜がモチーフの作品が見られます。名所絵はもちろん、役者絵や美人画の背景によく描かれています。『東海道五十三次』の広重も『富獄三十六景』の北斎も、それぞれに趣向を凝らした 桜の絵を残しています。見比べてみるのも興味深いですね。 (Y)
 東海道四日市宿資料館から東海道を南へ歩くとすぐに、かつて浜往還と呼ばれた道との交差点(札の辻) があります。この道は東へ続いています。

 実は、四日市が宿場として整備される以前からこの通りに沿って町が発達した事は、あまり知られていません。その道に室町時代から市が立ち、地名の由来となりました。時代がうつって昭和の頃の古いモノクロ写真を見ると、商店が競い合うように軒を連ね、多くの人が行き来し、とてつもなく繁栄している様子が見て取れます。

 その南側に並行するように、南浜往還と言われた道が通っていました。

 江戸時代の始め頃、札の辻から東の海岸に通じる沿道に先ず出来たのが「新町」。この町域は西から東に向かって上新町(かみじんまち)、中新町(なかじんまち)、下新町(しもじんまち)と呼ばれました。浜往還からあふれた賑わいが、こちらにも届いたのでしょうか。 









(下新町の石柱は(なぜか)四ツ谷公園の敷地内に立っていました)


 そして、幕末にかけて4軒(件)の家があった事から四ツ谷新町(よつやじんまち)が形成されるなど、いくつかの町が隣り合っていました。たった4軒で町を名乗れたのですね。これらの町は現在は元新町となり、「四ツ谷」は保育園横にある公園の名前に残っています。

(四ツ谷新町は石柱の囲みが他とは違っていました。他より新しく、お金もかけて製作されているように見えました。)


 他にも、宿場町界隈には町の変遷とともに、古文書や絵図などの記録に残るか残らないくらいの小さな町がありました。

 ほんの一例を紹介します・・・十建(軒)屋、東町、魚町、亀町、浜新町、七幡町 (なんとなく、海の香りがしてきますね)
 ひとつひとつ調べられると良いのですが、資料が少ないなどの理由で詳細が不明な事が多いようです。しかし、かえって想像の余地がありますね。

 いったい、どんなところだったのだろう? 興味は尽きません。宿場町さんぽ、まだ続きます。 (Y)
 4月7日(月)19時から三重テレビで放映された「新・ええじゃないか」の一コマです。


 出演者は、来訪者のチャンカワイさんに池山智瑛さん。 そしてご案内役の長谷川館長です。

 「江戸時代の鏡を見て、「今も現役ですね!」と感心されていました。」

 「来てくださった方にとって、ここは時が経つのを忘れさせるような場所でもあります。」

 見逃された方 4月12日(土)12時から、三重テレビで再放送も予定されてますよ。
 鈴鹿山脈から流れてくる三滝川にかかる慈善橋を北から南に渡ると、いわゆる三滝通りと呼ばれる片側4車線の市道があります。春になると道の中央分離帯と両側の歩道を桜並木が彩ります。そんな景色に埋もれるように、ひっそりと旧町名を刻んだ石柱が見えてきます。



 先ず、境町。
 境町は表通りから横へ入った町筋で江戸時代には「瀬古」と言われました。伊勢地方では、昔からこのような町筋のことを世古・瀬古(せこ)と呼ぶ事があります
  現在でも存在する中町から旧中新町へ通じる横丁に発達したので「瀬古」と呼ばれましたが、明治の初期、町民の要望により境町と称することになりました。想像するに、賑やかな表通りから路地にも人々の営みが増えてきて「町」を名乗りたい、そう考えたのではないかと・・・。
 ところで、境町の「境」が付く地名は全国にあり「堺」という漢字もあります。何かと何かの境目に名付けられることが多いと思います。かつて尾張と三河を分けた境川などは、わかりやすい例です。尾張弁・三河弁など方言もこの川を境に変わると聞きます。

 閑話休題、この境町の近辺に昭和30年頃の地図に「三和町」という表示が見られます。平成の頃までこのあたりの店の名前に「三和〇〇」が使われていました。その真ん前に境町の石柱が立っています。三和町は短期間だけ存在した町名なのでしょうか。その店もいつの間にか廃業して空き家となり(三和の)町名について聞く事も出来なくなったのは残念です。


 南新町も、天保年間(1830~44年)頃に形成された比較的新しい町で、もともと本田畑(江戸幕府初期以前に行われた総検地によって石高をつけられた土地)ということです。町はずれの田畑に開かれた町だったのでしょうか。

 境町といい、この南新町といい、その成り立ちを知ると宿場町周辺の発展を感じられますね。 (Y)