そんな夢を見ていた。

こんな私でも、ヒーローになれる夢。

だって、格好良いじゃないか。

己の弱さにも打ち勝てて、人々を脅かす恐怖から守ることが出来る。誰かの叫び声ひとつですっ飛んでいって、誰にも悲しみの涙は流させない。

でもそれはテレビの向こうの存在だった。

この世にヒーローなんて居ない。いくら願ったって泣き叫んだって、助けなんてやってこない。全部自分でどうにかするしかない。

昔はいい子だと褒められた。聡い子だと言われたかった。色んな人によく思われたくて、頼まれごとは断らずに何でもこなしたし、実際何でもこなせるほどの能はあった。あの人にはあの人に合わせた仮面、その人にはその人に合わせた仮面。気付いた時には、私が誰なのか、分からなくなってしまった。

「誰だよ、お前」

平日の昼間なのにも関わらず、ベッドに寝転がり、スマホの暗い画面に映る自分の顔を眺めて呟く。

何処から間違えた、この人生。

どう変わってしまった、どう変えてしまったのか、私は。私を。

なんて一人悶々としていたって、誰かが助けてくれる訳でもない。

架空の画面に文字を打ち込む。

この中だけは饒舌だし、自分が自分で在ることを許されてもらえるような、そんな気がしている。吐き出したいだけだ、この膿を。意味なんてない。だからこの場だけで十分だった。本音なんて鍵をかけてなきゃやってられない。

嫌われるから。疎まれるから。

はみ出しちゃ駄目、間違っちゃ駄目、もう制約がこの現代には多過ぎて、耐えられなかった。

惰弱な紙屑は、蹴飛ばされ、ゴミ箱行きがオチだ。

夢だけが、救いだった。もう一度眠りに落ちようと試みたが、如何せん一日の大半を眠って過ごしてるため、これ以上寝れそうにもなかった。

外は鬱陶しい程の快晴だ。だが今日の朝方、母に「どうせ家に居るのだから」と買い出しを頼まれてしまったのを思い出す。とうの昔に彼女は家を出て職場にいるのだが。

適当なワンピースに着替え、机の上に無機質に置かれた千円札を財布に突っ込むと、重い足を外へと動かした。


「あと牛乳か…」

たいして直しもしなかった寝癖頭を掻きながら、気怠げに食品コーナーを移動する。

そこまで大したものが頼まれてなかったのが救いだった。これで分かりもしないスパイスなどを頼まれても、困るだけだった。

普段冷蔵庫に入っているはずの牛乳を一本カゴの中に放り込むと、レジに向かう。

「856円です」

レジ打ちの女の人が言うと、私は躊躇うことなく1000円札を出した。

だがそれは受け取られることは無く、無情にも無愛想な声で「こちらでお願いします」と隣接した機械を手で示した。

こんなものが、出来ていたのか。私は驚く。最近は買い物はコンビニで済ませていたし、そもそも家を出ることがあまり無いから、全く知らなかった。

ちらりと横を見やると、同じような機械が何台も、一つのレジに一つ横に並んでおり、その横では手慣れた様子で主婦がお金を支払っていた。更にその奥では、小さなジッパーの袋から小銭を覚束無い指使いでまさぐる、男のご老人が機械に向き合っていた。私はそういうものかと悟ると、あたかも、既に私も慣れていますよと言わんばかりに、戸惑いを隠して機械の案内するままに支払いを完了させた。

でもどこかもの寂しくないと思わないものなのだろうか。私は並べられた精算機を見てそう思った。まだ人間の手による作業は残ってはいるものの、ありとあらゆるものが機械化されていて…何とも言えない気持ちになってしまう。

私は商品のカゴを袋入れテーブルへと移動させる。重い飲み物や液体類は先に入れて、軽いものや潰れやすいものは後に入れる、小さい頃そう母に教わったのを思い出した。

働き方の見直しが叫ばれている現代では、こうして機械の負担を増やし、人間の負担を減らす、こうした世の中の在り方も間違いではないし、寧ろ推奨されるべきなのかもしれない。でもただでさえ人との繋がりが希薄になりつつある今だからこそ、些細な人と人との関わりは残しておくべきだとも思えてくる。何とも天秤にかけ難いことだと感じつつ、レジ袋を右手に持って店を出た。

自宅に向かって歩いていると、逆方向から、カラフルなランドセルを背負った男子小学生が数人で走ってきた。

かいじんからにげろー、などと可愛げのある声を上げて走り去っていく。小学校低学年くらいなのだろう。

元気だなぁと半ば呆れながらそれを眺めていると、後ろから、かなり体格のいい男子が一人、彼らを追いかけるように走ってきたのに気づく。もしや年上の子?彼らを虐めているのか?なんて勝手な妄想をしていると、その子は転んで、思いっきりコンクリートに膝をうちつけてしまっていた。私は思わず彼に駆け寄った。ぐっと涙は堪えてはいるものの、痛みに顔が歪んでいた。

「大丈夫?」

「………」

彼は答えない。

「歩ける?」

「……」

「えぇ…」

「…ちょっと痛い」

ぼそり、と彼は答えた。強がりたい年頃なのかな、なんて思いつつ、肩を支えてあげながら、たまたま近くにあった公園のベンチに座らせてあげる。

「痛いだろうけど、傷口洗おうか」

私はそう告げた。

「いい」

彼はぶっきらぼうに言う。

そして、先程よりも更に小さな声で、「なんなんだ、みんな」と呟くのが聞こえた。

「…さっきの子、友達なの?」

「ちがうもん」

彼の語気が強まる。

「そうなの?」

「いっつもおれをばかにするんだ。でぶだとか、かいじんだとか」

「………」

「おれ足がおそいからあいつらにおいつけないんだ。いっつもこうなる」

彼はついにぽとぽとと涙をこぼし出した。

私はなす術もなく、ただ彼の傍に座っていた。

「おねえさん、おれはだめなやつなの?」

この幼さとは思えない、悲痛な想いだった。

「そんなことない…、そんなことないよ」

私は答える。

「駄目な人なんていないよ。皆得意なことばっかじゃない。それぞれいい所があって、今こうやって生きてるんだよ」

口をついて出た言葉は、とても汚かった。

何が、駄目な人なんていないよ、だ。今ここにいるじゃないか。せっかく受かった高校にも行けず、心も弱く、ただ堕落した生活を送っている大馬鹿者が。

私はただただ恥ずかしくて、俯いてしまった。

でも彼は「そうなんだ」と先程よりも少し明るく答えた。

「ありがとうおねえさん」

「………ううん。何もしてないよ」

苦しい。心が締め付けられる。この嘘つき。

「…とりあえず膝洗おっか」

私はなんてこと無かったように彼を水道場に誘導する。

水が、砂利と黒く固まった血を洗い流していく。彼はしきりに痛い痛いと喚いていた。なんだ、やっぱり痛いんじゃんか。私はその様子に少し笑った。

消毒液は勿論持ち合わせていなかったが、たまたま財布の中に絆創膏を入れていたので、それを彼に貼ってあげた。まるまるとした彼の体格にはそれはそれは不格好な、マイメロディの絆創膏だった。一応、予備として一枚その絆創膏を渡しておいた。

彼はしばらく、恥ずかしいと言わんばかりにそれを眺めていたが、私の厚意ということもあり、そっとポケットにしまった。

「おねえさんってなんねんせい?」

彼は唐突に尋ねる。

「私は2年生だよ」

「え?!おれといっしょだ!」

高校二年生、ってことなんだけど。と思いつつ、彼が喜ぶので私は訂正しないでおいた。

「じゃあ君は2年生なんだね」

「うん」

「名前はなんて言うの?」

聞いた後に思ったが、彼にしてみれば私はあくまで見知らぬ女の人であり、まずいことを聞いてしまったと感じた。が、ここまでしてくれた私に最早警戒心などある訳もなく、彼はけろりと「そうただよ」と答えた。

「そうか。そうたくんね。私はさやかって言うの」

「さやかおねえちゃん?」

「そうそう、沙也香」

「さやかおねえちゃん、ありがとう、おれ、げんきでた」

「ううん。そうたくん、こちらこそ、よ」

「おれ、もっとつよくなる。ちからじゃなくて、こころ」

「………」

はっとさせられたようだった。この、何歳も年下のような男の子に。私の、泥に塗れた言葉で、汚してしまったのではなかろうか、と心配したが、私が、その彼に恥じない生き方をすればいいだけだと悟った。

「私も強くなるよ。そうたくん、一緒に頑張ろう」




ヒーローは案外近くに居たのかもしれない。




高校を無事卒業し、専門学校に通い、その後就職して、すっかり大人の世界に馴染んだ私を、更に飛び越えていくように成長した、私と同じ高校のブレザーを着て誇らしげに笑う聡太くんを見て、そう思った。すっかり背丈も伸びて、あの頃の丸い体格の面影もなくすらりとした四肢だったので、久しぶりにこの街に帰省した時、「お姉ちゃん!」と声をかけられてぎょっとしてしまった。

再会し、座ったのはあの時の公園のベンチであった。

「俺ね、今でも沙也香お姉ちゃんがくれた絆創膏持ってるんだよ」

ブレザーの胸ポケットにある生徒手帳には、未使用のままのマイメロディの絆創膏が挟まっていた。

あの頃からお守りなんだ、と笑う。

「ヒーローだったよお姉ちゃんは」

「…やめてよ、照れくさい」

「また戻ってきてくれてよかった」

「まぁ、また帰るけどね」

「俺必死に探したのにさー」

ぼそぼそと彼は不満を呟く。

私は高校はこちらで過ごし、離れた専門学校に通うために、ここを出て一人暮らしを始めたのであった。

「いいけど。そのうち俺がそっち行くもん」

「えぇ…、まだ高校生でしょ」

「俺頑張ったから。お姉ちゃんにまた会いたくて、褒められたくて」

言わなくても…そんなん分かるよ。私は思わず泣きそうになった。こんな変わるなんて思ってなかったし、こんなに覚えてくれているものだと思いもしなかった。

「分かってるよ…」

「うん。俺沙也香お姉ちゃん大好きだから。そう言って貰えて嬉しい。」

容姿や声はすっかり変わって面影なんてないけれど、聡太くんの無邪気さは、あの頃のままだった。

屈託のない子犬のような顔で笑う。

「狡いな」

私も思わず笑った。