寛永15年のエレベーター | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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  地獄そのものと云われた松倉勝家の圧政に領民の怒りが爆発し、キリシタンの天草四郎を総大将として島原の乱が起った。寛永14 年(1637 年)から翌15年まで続いた島原の乱で,幕府軍は西国12万の軍勢により総大将の天草四郎が立て籠もる原城を包囲した。

 

天草四郎が立て籠った原城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』島原の乱 - Wikipedia

 

籠城する天草方が使用した三十匁大筒

幕府の上使の板倉勢が,島原の乱で城方から分捕った三十匁大筒。鉄ではなく青銅製。

 

   原城は,キリシタン大名だった有馬氏の城で海に突き出した断崖絶壁を抱える大きな城だった。この城に多くの鉄砲を有した三万数千の領民が籠城した。1月1日の幕府軍の総攻撃では,実質的な総大将である板倉重昌が鉄砲で眉間を撃たれて戦死するなど,籠城する天草方は,鉄砲を使い頑強な抵抗をしめした。これに業を煮やした幕府は,仕寄と呼ばれた攻城用の野戦築城工事を施した。具体的には,土俵で築山を築きその上に大盾や竹束を付け回して,さらに築山を城壁に前進させて行く工事を続行した。

  そしてついには,高さ15メートルほどの築山を城壁6メートル以内まで接近させ鉄砲を散々に撃ちかけた。また細川家記によると,幕府上使の指示により,船の帆柱を利用した釣井楼を短期間に何基も建設した。

 

船の帆柱を利用した釣井楼

重い帆を上げる帆柱には滑車も綱もつけたままだから,厚板で装甲され銃眼が開けられた箱を、高く吊るし上げることができた。箱の中には侍が乗っていて、城内を偵察したり鉄砲を撃ちかけたりした。

 

船の帆柱を利用した釣井楼の想像図(イメージ)

 

  この釣井楼は,寛永15年のエレベーターといってもいいものだ。優秀な銃手が,この木箱の銃眼から長距離狙撃用の狭間筒で射撃したら,かなりの戦果が期待できたものと思われる。